第69話 遅れてきた想い(3)
第69話 遅れてきた想い
病院で顔を合わせることもあったし、陽葵の手紙を預かっていたのも彼女だった。青にとって、彼女はただの後輩ではなく、陽葵の時間を共有している数少ない存在でもある。
青は箱を受け取った。
「ありがとう」
その素直な返答に、紬の顔がぱっと明るくなる。
だが次の瞬間、結愛が机に手をつきながら、じっと青を見る。
「ねえ青」
「なんだ」
「さっき言ってたよね。気になる人以外からは受け取らないって」
紬がぴたりと固まった。
「え?」
結愛はにやっとしたようでいて、その実かなり本気の顔だった。
「ってことはさ、紬ちゃんのも受け取るってことは……紬ちゃんのことも気になるってこと?」
「く、黒金先輩!?」
紬の頬がみるみる赤くなる。
青はほんの少しだけ眉を寄せた。
「そういう意味ではない」
「え、違うの?」
「紬には世話になったからな」
青は手元の小さな箱を見下ろしながら、静かに続けた。
「ひまりのことで」
その一言で、場の空気がすっと変わった。
紬は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息をつく。
「ああ……そっち、ですか」
少しだけ、ほんの少しだけ、寂しそうな響きが混じった。
だが、その言葉に嘘はなかった。
青が自分から受け取ってくれたことは嬉しい。けれどそれは、恋愛感情の意味というより、陽葵を通じた信頼の延長線上にあるのだと、紬にはすぐわかった。
結愛も、さすがにそれ以上茶化すことはしなかった。
「……そっか」
短く言って、椅子を引く。
「じゃあせっかくだし、ここで食べなよ。青」
「ここでか」
「ここで」
「図書室だぞ」
「騒がなきゃ大丈夫でしょ」
「たぶん大丈夫です」
紬まで頷いたので、青はわずかに困ったような顔をした。
だが二人の視線は完全に「食べてください」と言っている。
断る理由もなかった。
「……わかった」
青が結愛のカップケーキの包みを開けると、二人の視線が一斉に集まる。
「そんなに見るな」
「見るよ」
「見ます」
即答だった。
青は小さく息をつき、ひとつ手に取った。ほんのりとチョコの甘い香りがする。
口に運ぶと、しっとりとした生地と控えめな甘さが広がった。見た目の可愛らしさに反して、味は意外なほど落ち着いている。甘すぎず、くどくない。
「……うまい」
その一言に、結愛の肩がびくっと震えた。
「ほんと?」
「ああ」
「お世辞じゃなくて?」
「お世辞なら、もっと別の言い方をする」
「それもそうだけど……」
結愛は口元を押さえた。笑いそうなのと、泣きそうなのが同時に来て、変な顔になりそうだった。
「よかった……」
小さく零れた声は、思った以上に切実だった。
青はその響きを聞いて、結愛がこの日までどれだけ緊張していたのか、ようやく少し理解した。
誰かに何かを渡すというのは、想像以上に勇気がいることなのかもしれない。
自分にはあまり縁のなかった感情だから、これまでは実感が薄かった。
でも今、目の前にいる結愛の顔を見れば、それがよくわかる。
「紬のも、開けていいか」
「は、はいっ」
紬は少し姿勢を正した。青が箱を開くと、中には小さな生チョコが綺麗に並んでいた。表面には薄くココアパウダーがかかっていて、ひとつひとつ形が丁寧に整えられている。
「これも手作りか」
「はい。あんまり甘すぎないようにしました」
「そうか」
ひとつ口に入れる。
なめらかに溶けて、ふわりとカカオの香りが広がった。
「……これも、うまい」
「ほんとですか?」
「ああ」
紬はぱっと笑った。
「よかったです」
その笑顔は柔らかくて、陽だまりのようだった。
青は二つの味の余韻を感じながら、ふと過去の記憶に触れる。
甘いものを食べるのは、いつ以来だろう。
自分はそこまで甘党ではない。嫌いではないが、積極的に買うこともなかった。
けれど、陽葵は好きだった。
『お兄ちゃん、ひと口だけ!』
病室で、売店で買ったチョコ菓子を得意げに差し出してきたことがあった。
『甘すぎる』
『そんなことないよ。人生には糖分が必要なんですー』
いたずらっぽく笑っていた顔が、不意に浮かぶ。
青の指先が、ほんの少しだけ止まった。
結愛がその変化に気づいた。
「青……?」
青は少し間を置いてから、静かに言った。
「……陽葵も、甘いものが好きだった」
二人は黙って耳を傾けた。
「よく、俺にも食べろって言ってきた。自分が食べたいだけなのに、半分こってことにして」
ごく僅かに、青の口元がやわらいだ。
笑ったというほどではない。
けれど、確かにそこには、痛みだけではない記憶の色があった。
「ひまりちゃんらしいですね」
紬がそっと言う。
「ああ」
青は頷いた。
「……うるさかった」
「ふふ」
結愛が小さく笑った。
「でも、嬉しかったんでしょ」
その問いに、青はすぐには答えなかった。
病室での会話、家での何でもないやりとり、テレビを見ながら笑っていた時間、鍋を囲んだ夜――そうした断片が胸の中に静かに浮かび上がってくる。
「……そうだな」
ようやく出た言葉は、とても小さかった。
結愛と紬は顔を見合わせ、それ以上は何も言わなかった。
無理に慰めない。
その沈黙は、痛みから目を逸らすためではなく、そこにあるものをそのまま受け止めるためのものだった。
図書室の窓から、やわらかな午後の日差しが差し込む。
机の上に置かれた二つの包みと、三人の影が静かに伸びていた。
「……もうすぐ、卒業か」
青が窓の外を見ながら言った。
グラウンドでは運動部の掛け声が遠くに聞こえている。校舎の中にも、生徒たちの声が微かに反響していた。今まで当たり前に続いていた学校の日常も、あと少しで終わる。
「ですね」
紬が答える。
「青先輩たち、いなくなっちゃうんですよね」
「寂しい?」と結愛が尋ねると、紬は素直に頷いた。
「寂しいです。すごく」
「……そうか」
青はそれだけ言ったが、紬は少しだけ頬をふくらませた。
「そうか、じゃないですよ」
「他に何と言えばいい」
「もうちょっと、何か」
そのやりとりに、結愛が吹き出す。
「たしかに。青ってそういうとこある」
「問題あるか」
「あるよ。女の子にはね、もうちょっとこう……」
そこまで言って、結愛はふと口をつぐんだ。
自分で言っておきながら、顔が熱くなる。
青は首を傾げた。
「なんだ」
「なんでもない」
「そうか」
「そう」
結愛はそっぽを向いたが、その横顔はどこか嬉しそうでもあった。
青は二人の様子を見て、少しだけ不思議に思う。
相変わらず、自分にはわからないことが多い。
恋愛も、女心も、曖昧な距離の機微も。
それでも、今この時間が穏やかであることだけは、はっきりわかった。
穏やかで、あたたかい。
喪失の痛みがなくなったわけではない。
胸の奥には今も、陽葵を失った穴がある。埋まることはないし、消えることもないだろう。
だが、その穴を抱えたままでも、こうして誰かと同じ時間を過ごすことはできるのだと、少しだけ思えた。
それは、ほんの小さな変化だった。
けれど青にとっては、確かな変化でもあった。
「青先輩」
紬がそっと呼ぶ。
「なんだ」
「……受かって、よかったです」
まっすぐな言葉だった。
飾りも気遣いもなく、ただ心からそう思っているのが伝わってくる声。
結愛もそれに続いた。
「うん。ほんとに」
青は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに答えた。
「……ありがとう」
その声は小さかったが、確かに二人へ届いた。
「陽葵ちゃんに、報告はした?」と結愛は聞かなかった。
「今、どんな気持ち?」と紬も聞かなかった。
その代わりに、ただそこにいてくれる。
そのことが、ありがたかった。
窓の外では、冬と春の間の風が木々を揺らしている。
季節は進んでいく。
時間も、進んでいく。
誰かを置き去りにするためではなく、抱えたまま進むために。
青は机の上のカップケーキと生チョコを見た。
甘い匂いが、かすかに残っている。
その甘さは、少しだけ切なくて、それでもあたたかかった。
「ホワイトデー、どうするの?」
不意に結愛が言った。
青は目を瞬かせる。
「……ホワイトデー?」
「そう。もらったら返す日」
「知っている」
「ならよかった」
結愛はにやっとした。
「期待してるね」
紬も負けじと小さく手を挙げる。
「私もです」
「……そうか」
「その反応、ちゃんと覚えてるからね?」
「覚えておきます」
「青先輩、棒読みです」
「棒読みではない」
「ちょっとだけです」
また二人が笑う。
青は小さく息をついたが、不思議と悪い気はしなかった。
こういうやりとりを、以前の自分なら煩わしいと感じていたかもしれない。だが今は違う。
煩わしさよりも先に、そこに含まれた好意や気遣いが見える。
それはきっと、自分が少しだけ変わったからだ。
陽葵を失ったことで、見えるものまで変わってしまったのかもしれない。
失ったからこそ、残っているものの温度がわかるようになった。
それはあまりにも痛い変化だったけれど、それでも確かに、今の自分の中にあるものだった。
結愛が立ち上がる。
「そろそろ戻ろっか。あんまり長くいると、ほんとに先生に怒られそうだし」
「図書室でお菓子食べてるの、見つかったら怒られますね」
「主犯はお前たちだろ」
「えー、食べたのは青じゃん」
「渡したのは結愛だ」
「乗ったのは青先輩です」
「……理不尽だな」
珍しく青がそんなことを言ったので、二人はまた笑った。
立ち上がった結愛が、机の上の空いた包みを片づける。紬も手伝う。
青は二人のその自然な動きを見ていた。
誰かがいて、何でもない時間を共有する。
その当たり前が、今は少しだけ眩しい。
三人で図書室を出る前、青はもう一度だけ窓の外へ目を向けた。
薄い雲の向こうに、やわらかな光が広がっている。
陽葵はもういない。
その事実は変わらない。
けれど、彼女がいなくなって終わったわけではないのだと、今日のこの時間が静かに教えてくれている気がした。
悲しみは消えない。
消えないまま、甘いものを食べて、誰かと笑って、また明日を迎える。
そうやって、生きていくのだろう。
「青?」
先に出た結愛が振り返る。
「どうしたの?」
「……いや」
青は小さく首を振って、二人のほうへ歩き出した。
「なんでもない」
結愛は少しだけ不満そうに口を尖らせたが、すぐに歩調を合わせた。紬もその反対側に並ぶ。
図書室の外の廊下には、放課後の光が落ちていた。
卒業まで、あと少し。
季節はもうすぐ、春になる。
青は両手に感じる、紙袋の小さな重みを確かめるように持ち直した。
それはとてもささやかな重さだった。
けれど今の彼には、その重みが、なぜか少しだけ心強く思えた。




