第70話 遅れて届いた気持ち(1)
# 第70話 遅れて届いた気持ち
三月の放課後は、どこか特別な静けさを帯びている。
校舎の中にはまだ生徒たちの声が残っているのに、その賑わいの裏側で、ひとつの季節が確実に終わろうとしているのがわかるからだろうか。
卒業式を数日後に控えたその日、氷凪青は一人、生徒会室にいた。
窓の外では、茜色に傾き始めた光が校庭を長く照らしている。机の上には、卒業式関連の資料や、引き継ぎ用のファイル、すでに役目を終えた書類の束が整然と置かれていた。
生徒会室の中は静かだった。
かつてはここで、雪城凛花と何度も言葉を交わした。文化祭の準備、体育祭の後処理、学校行事の相談。どうでもいいような雑談はほとんどなかったが、それでも気づけばこの部屋には、青にとって決して少なくない時間が積み重なっていた。
今、壁際の棚や掲示板を見渡すと、そのすべてが少しずつ「終わり」に向かっているように見える。
「……ここに来るのも、あと何回かだな」
ぽつりと呟いた声は、誰もいない室内に淡く溶けた。
東都大学の合格発表が終わってから、時間の流れ方が少し変わった気がしていた。
これまでは、目の前の受験に向かって一直線だった。やるべきことが明確で、立ち止まる理由もなかった。
けれど今は違う。
目標はひとつ越えた。
なのに、胸の奥には相変わらず埋まらない空白がある。
陽葵がいない。
その事実は、何日経っても日常の底に沈んだままだった。ふとした瞬間に水面へ浮かび上がってきて、青の心を静かに締めつける。
受かったことを墓前に報告したあの日、自分は前へ進こうと決めた。生きることをやめないと決めた。
それでも、こうして役目を終えつつある生徒会室に座っていると、人生の一章が音もなく閉じようとしている感覚に、少しだけ息が詰まりそうになる。
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
生徒会室の扉が開く。
「青、探したわよ」
凛とした声とともに、雪城凛花が姿を見せた。
いつも通り背筋を伸ばし、整った佇まいのまま立っている。窓から差し込む夕方の光が、彼女の横顔を淡く縁取っていた。
「スマホを見なさいよ」
青はポケットからスマホを取り出した。画面には、凛花からの短いメッセージがいくつか届いている。
『どこにいるの』
『生徒会室?』
『返事をしなさい』
どれも簡潔なのに、妙に凛花らしい文面だった。
「……悪い」
「本当に悪いと思っている?」
「思ってる」
青がそう答えると、凛花は小さく息をついた。
「ならいいわ」
よくない、と言いながら本気で責め立てるわけでもない。そのあたりの緩さが、昔より少し増えた気がする。
凛花は扉を閉め、青の向かい側の机の前まで歩いてきた。
「何をしていたの」
「少し、片づけを」
「それ、今すぐやらなければならないもの?」
「いや」
「でしょうね」
そう言ったあと、凛花はなぜかそこで言葉を切った。
珍しく、視線が青から少し逸れている。
普段なら必要なことを端的に告げる彼女が、今日はどうにも落ち着かない様子だった。
鞄の持ち手を持ち直し、何かを言いかけてはやめる。
青はそんな凛花を見ながら、わずかに首を傾げた。
「……どうした」
「どうした、とは何よ」
「いつもより、落ち着きがない」
指摘されると、凛花の肩がぴくりと揺れた。
「別に、落ち着きがないわけではないわ」
「そうか」
「そうよ」
だが、声の調子に微妙な硬さが混じっている。
やがて凛花は一度だけ深く息を吸い、それから鞄の中に手を入れた。
取り出したのは、小さく上品に包装された紙袋だった。白を基調とした落ち着いたデザインで、リボンも派手すぎない。いかにも彼女らしい、無駄のない綺麗な包装だ。
「……遅くなったけど」
凛花は目を逸らしたまま言った。
「バレンタインのプレゼントよ」
青は一瞬だけ目を見開いた。
「あ……ありがとう」
その素直な反応に、凛花の緊張がほんのわずかに緩む。
「遅くなったのは、受験が終わってからのほうがいいと思ったからよ。二月中に渡して、余計なことを考えさせても困るし……それに、タイミングもいろいろあったし」
最後の一言は、自然と少し小さくなった。
そこに陽葵のことが含まれているのは、言葉にしなくてもわかった。
「……そうか」
青は紙袋を受け取り、静かに頷いた。
自分のために、こうして誰かが何かを用意してくれる。その事実にまだ慣れない。
だが、不思議と拒絶感はなかった。
むしろ、ありがたかった。
「今日は、遅めのバレンタインをたくさんもらう日だな……」
受け取った袋を見ながら、青はごく自然にそう漏らした。
言った直後、空気が変わった。
凛花の眉が、わずかに動く。
「……え?」
青は顔を上げた。
「どうした」
「今、何て言ったの」
「今日は、遅めのバレンタインをたくさん――」
「そこじゃないわ」
凛花の視線が、少しだけ鋭くなる。
「たくさん、って何?」
青は数秒、沈黙した。
ここでごまかす意味もないと思い、正直に答える。
「……今日、結愛と紬にももらった」
凛花はぴたりと動きを止めた。
表情そのものは大きく変わらない。だが、沈黙の質が明らかに違う。
「そう」
「……ああ」
「結愛ちゃんと紬ちゃんに」
「そうだ」
凛花は一度だけ視線を落とし、それから淡々とした調子を取り戻すように言った。
「……あの二人なら、仕方ないわね」
仕方ない、というわりには声音に微妙な棘がある。
青はそれに気づきながらも、うまく言葉にできなかった。
「怒ってるのか」
「別に」
「そうか」
「ええ」
別に、と言う人間はたいてい別になくはない、と葉山が言っていた気がする。
今の凛花は、まさにそれだった。
だが彼女はそれ以上その話を広げず、机の上に顎を引くように視線を向けた。
「……開けないの?」
「ここでか」
「嫌なら持って帰ってもいいけれど」
「いや、開ける」
青は包装を丁寧に解いた。
中から出てきたのは、見ただけで高級品とわかるチョコレートだった。小ぶりで上品な箱の中に、整然と並んだ艶やかな粒。色合いも形も無駄がなく、美しく完成されている。
「……高そうだな」
思わず率直な感想が口をつく。
凛花は少しだけ顎を上げた。
「ええ。あなたのために奮発したの」
「そうか」
「大切に召し上がりなさい」
その言い方が、普段よりどこか柔らかい。凛花自身も言ってから少し恥ずかしくなったのか、わずかに視線を逸らした。




