第70話 遅れて届いた気持ち(2)
# 第70話 遅れて届いた気持ち
青は箱の中のチョコを見つめたまま、小さく呟く。
「……凛花」
「何?」
「少し、キャラが変わったか」
「変わってないわよ!」
即座に返ってきた否定に、青は目を瞬かせた。
その反応が妙に可笑しくて、ほんの少しだけ口元が緩む。
「ならいい」
「よくない言い方をしないで」
「悪い」
「本当にそう思っている?」
「たぶん」
「たぶん、じゃないの」
そう言い返しながらも、凛花の表情にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
以前の彼女なら、もっと完璧な顔をしていたかもしれない。感情を表に出さず、どこか近寄りがたいままだったかもしれない。
けれど今の凛花は違う。
青の前では、少しだけ不器用で、少しだけわかりやすい。
その変化が悪いものではないことを、青はもう知っていた。
「それより」
凛花は咳払いをひとつして、改めて姿勢を正した。
「ホワイトデーのお返し、期待しているわよ」
そう言って、彼女はふっと笑った。
夕方の光を受けたその笑顔は、静かで、けれど驚くほど綺麗だった。
青は一瞬だけ言葉を失う。
昔から整っているとは思っていた。美人だとも思っていた。だが、今、目の前で向けられたその柔らかな笑みは、そういう単純な言葉だけでは足りない気がした。
(……変わらず、凛花の笑顔は綺麗だな)
胸の奥でそんな感想が浮かび、自分で少しだけ戸惑う。
恋愛感情なのかどうかは、まだわからない。
だが、特別だとは思う。
彼女を目で追ってしまう瞬間がある。
その笑顔がいつもより柔らかいと、なぜか目を離しにくくなる。
「……ああ。考えておく」
なんとかそれだけ答えると、凛花はほんの少しだけ満足そうに目を細めた。
「“考えておく”じゃ足りない気もするけれど、今はそれで許してあげる」
「助かる」
「助けているつもりはないわ」
「そうか」
「そうよ」
短いやりとりの中に、以前より自然な温度がある。
青はそれを感じながら、改めて箱を閉じた。
高級そうなチョコの重みが、掌に小さく残る。
凛花はしばらくその様子を見ていたが、やがて時計に目をやった。
「私はそろそろ戻るわ。先生に頼まれた書類もあるし」
「わかった」
「青も、あまり遅くならないうちに帰りなさい」
「そうする」
凛花は扉の前まで歩き、そこで一度だけ振り返った。
「……あと」
「なんだ」
「結愛ちゃんと紬ちゃんにも、ちゃんと返しなさいよ」
少しだけ複雑そうな顔で、しかしきっぱりと言う。
青はその意味を考えてから、静かに頷いた。
「わかってる」
「ならいいわ」
そのまま扉が閉じる。
生徒会室に再び静けさが戻った。
けれど先ほどまでとは違う静けさだった。
机の上には凛花からのチョコがある。
手作りではない。けれど、だからこそ彼女らしいと思えた。完璧に整っていて、上質で、無駄がない。その奥に、自分のためにわざわざ選んでくれたという気持ちがまっすぐに透けて見える。
青は箱を見ながら、わずかに息を吐いた。
「……ホワイトデー、か」
今まで自分にはほとんど無縁だった言葉だ。
だが今年は違う。
受け取った以上、返すべきだろう。
問題は、何を返せばいいのかわからないことだった。
結愛には結愛に合うものがある気がする。
紬には紬に合うものが。
凛花には……凛花に合うものが。
それぞれ違う。
その違いを考えること自体が、青には新鮮だった。
誰かのために、何かを選ぶ。
妹のためなら経験がある。陽葵が好きそうなものを、病院の売店や街の店で選んだことは何度もあった。小さな雑貨、読みたがっていた本、気休めにもならないような可愛いお守り。
だが、女の子にホワイトデーのお返しを選ぶのとは、たぶん意味が違う。
青は書類を簡単にまとめてから、生徒会室を後にした。
## ◆
教室に戻ると、帰り支度をしている生徒はもうあまり多くなかった。
窓際では誰かが進学先のパンフレットを広げ、後ろの席では卒業式のあとに写真を撮る約束をしている。そんなざわめきの中で、自分の席に鞄を置いた青は、机の横にかけた紙袋を整理した。
結愛のもの、紬のもの、凛花のもの。
それぞれに違う重さがある。
「お、青」
声をかけてきたのは葉山颯だった。
いつもの軽い調子で近づいてくると、青の机の横の紙袋に目を留める。
「それ」
「ああ」
「バレンタイン?」
「もらった」
その瞬間、葉山の目が妙に輝いた。
「おお……ついにお前にも春が?」
「違う」
「何が違うんだよ」
「別に、そういう話じゃない」
「そういう話だろ、普通」
葉山は勝手に机に腰を預けながら、紙袋の数を数えるように視線を動かした。
「しかも一個じゃないっぽいな」
「三つだ」
「三つ!?」
声が少し大きくなり、周囲の何人かがちらりとこちらを見る。
葉山は慌てて声量を落とした。
「お前、さらっとすげえこと言うな……」
「そうなのか」
「そうなのか、じゃないの。高校三年の三月に三人からバレンタインもらうやつ、普通そんなにいないだろ」
「受験が終わるまで待っていたらしい」
「なるほど、みんな健気だな……」
葉山はしみじみした顔をしたあと、すぐににやりと笑った。
「で、ホワイトデー近いぞ」
青はちょうどそのことを考えていたところだった。
「……葉山」
「なんだ」
「ホワイトデーって、何を返せばいいんだ」
「え?」
「初めてもらったんだが」
葉山は完全に固まった。
「いや、お前、まじで?」
「まじだ」
「バレンタイン自体?」
「受け取ったのは初めてだ」
「……すげえな、お前」
「何がだ」
「いろいろだよ」
葉山は額に手を当ててから、大げさにため息をついた。
「そんなお前に恋愛イベントの説明をする俺、なんか損してる気がする」
「頼んでる」
「そういう素直なとこ、ほんとずるいよな」
「意味がわからない」
「まあいいや。何返すか、だろ?」
「ああ」
葉山はしばらく考える素振りを見せ、それから突然にやっと笑った。
「体で返したら?」
「じゃあ、先に帰る。また」
青は即座に鞄を持った。
「待て待て待て! 冗談だって!」
葉山が慌てて腕を掴む。
「ほんとに帰るなよ!」
「くだらない」
「悪かったって。だから座れ」
青は無言で葉山を見たが、やがて小さく息をついて鞄を置き直した。
葉山はほっとした顔をする。
「で、まじめな話な。相手による」
「相手」
「そう。貰った相手がどんなやつで、何が好きそうか。そういうので決めるんだよ」
「難しいな」
「難しいよ。だからイベントって成立するんだろ」
葉山は腕を組みながら続けた。
「無難にお菓子でもいいし、ちょっとした雑貨でもいいし。相手が甘いもの好きならそれでもいいし、実用的なのが好きならハンカチとか、そういうのもあり」
「三人とも違う」
「だろうな」
「何を選べばいい」
「だから考えるんだって」
葉山は苦笑した。
「ショッピングモール行ってみろよ。たぶん今、ホワイトデーの特設コーナーやってる。いろいろ見たら、多少はイメージ湧くかもしれないぞ」
「ショッピングモールか」
「おう。ついでに店員さんに相談するのもありだし」
「相談は……たぶん無理だ」
「そこは頑張れよ」
「検討する」
「お前の“検討する”は信用ならないんだよなあ」
「ありがとう」
「そこは否定しろ」
青はもう一度だけ紙袋に視線を落とし、それから葉山へ向き直った。
「助かった」
そう言われると、葉山は一瞬だけ面食らったように目を丸くした。
だがすぐにいつもの顔に戻って、片手をひらひら振る。
「おう。まあ、悩め悩め。青春っぽいことしてこい」
「青春かどうかは知らないが、行ってみる」
「その報告、後で聞かせろよ」
「気が向いたら」
「向け」
その軽口を背に、青は教室を出た。
## ◆
帰り道、駅前のショッピングモールは平日にもかかわらず思ったより人が多かった。
春休み前の時期だからか、学生の姿も目立つ。制服姿のまま歩いている者もいれば、買い物袋を下げた社会人らしき人々もいる。館内に入ると、暖かい空気とやわらかなBGMが迎えた。
エスカレーターの近くには、大きく「WHITE DAY」と書かれた装飾が並んでいる。
焼き菓子の詰め合わせ、色とりどりのマカロン、ハートや花を模したパッケージ。アクセサリーの小さな催事スペースまであって、いかにもこの時期らしい華やかさだった。
青は少しだけ立ち止まる。
「……ホワイトデーか」
普段の自分なら、まず近寄らない空間だった。
女性向けの雑貨店の前には、楽しそうに笑い合う女子高生がいて、スイーツ売り場にはカップルらしき男女が並んでいる。
この場に一人で立っている自分が、少しだけ場違いに思えた。
「……女性にプレゼント、したことないな」
ぼそりと漏れた声は、店内の音にすぐに紛れた。
陽葵に買ったことはある。
だがそれは妹への贈り物であって、こういう意味合いとは違う。
今、自分が考えなければいけないのは、三人それぞれに返すものだ。
結愛。
明るくて、よく笑って、でも意外と繊細だ。派手なものが好きそうでいて、案外家庭的なところもある。手作りのカップケーキをあれだけ緊張しながら渡してきた顔を思い出す。
紬。
柔らかくて、素直で、優しい。陽葵のことでも何度も助けられた。気負わせすぎず、それでいてちゃんと感謝が伝わるものがいいのかもしれない。
凛花。
完璧で、不器用で、まっすぐだ。高級なチョコを選び、自分のために奮発したと言い切る強さがある。そのくせ少し照れて、最後には笑って「期待している」と言う。
三人とも違う。
当然なのに、その違いを考えている自分が少し不思議だった。
誰かの好みや喜ぶ顔を想像して、何かを選ぶ。
そんなことを、自分が真面目にやっている。
ふと、アクセサリーショップの前で足が止まった。
ガラスケースの中に、小さなチャームやネックレスが並んでいる。
その光景を見た瞬間、不意に昔の声が胸の奥によみがえった。
『お兄ちゃん、こういうのってどう思う?』
まだ陽葵が比較的元気だった頃、病院の帰りに立ち寄った雑貨店で、彼女は小さなヘアピンを手に取っていた。
『似合うんじゃないか』
『ほんと? じゃあ、退院したらつけたいな』
そう笑っていた横顔。
その記憶が、胸の中を静かに撫でていく。
痛みはある。
けれど、以前のようにその場で立ち尽くしてしまうほどではなかった。
青はガラスケースに映る自分の顔を一瞬だけ見て、それから小さく息を吐く。
「……ひまり」
名前を呼んでも、返事はない。
それでも、その記憶が今の自分を止めるのではなく、むしろ背中を押している気がした。
誰かのために選ぶこと。
その行為自体は、昔も今も変わらないのかもしれない。
助けたいとか、喜ばせたいとか、そういう気持ちの形が少し違うだけで。
青は売り場をゆっくり歩き始めた。
お菓子売り場では、焼き菓子の箱を手に取り、原材料を見て、戻す。ハンカチ売り場では色や柄を見比べる。雑貨コーナーでは小さなポーチや文房具に視線を向ける。
すぐには決められない。
だが、不思議と帰ろうとは思わなかった。
難しい。
本当に難しい。
それでも、ちゃんと考えたいと思う。
結愛にも、紬にも、凛花にも。
受け取った気持ちを、雑には返したくない。
その思いだけは、はっきりしていた。
気づけば、モールの中の照明は少しずつ夜仕様の色に変わり始めていた。外ももう暗くなりかけているのだろう。
青はホワイトデー特設コーナーの前で立ち止まり、並ぶ商品をもう一度見渡した。
「……難しいな」
誰に聞かせるでもない呟き。
だが、その声音には以前のような投げやりさはなかった。
困ってはいる。
迷ってもいる。
それでも、考えることをやめる気はなかった。
「……考えるか」
静かにそう言って、青は再び売り場へ足を向けた。
季節は春へ向かっている。
失ったものは戻らない。
胸の痛みも消えない。
それでも、誰かのために何かを選ぶことはできる。
未来のために、少しだけ手を伸ばすことはできる。
青は人の波の中をゆっくり歩いた。
その背中はまだどこか寂しさを抱えたままだったが、止まってはいなかった。




