第71話 返したい想い(1)
# 第71話 返したい想い
三月十四日。
ホワイトデー当日の朝は、春が近づいていることを思わせる柔らかな空気に包まれていた。
とはいえ、早朝の風はまだ少し冷たい。校門へ向かう生徒たちの吐く息も、かすかに白さを残している。けれど制服の上から感じる空気の質は、確かに真冬のものとは違っていた。
氷凪青は、いつもより少しだけ早い時間に登校していた。
肩にかけた鞄の中には、いくつか小さな包みが入っている。
昨日まで何度も見直したそれらを、今朝も家を出る前にもう一度確認した。
選ぶのに時間がかかった。
何が正解なのかは、最後までよくわからなかった。
それでも、自分なりには考えたつもりだった。
誰に、何を返せばいいのか。
どうすれば、受け取った気持ちにきちんと応えられるのか。
恋愛感情なのか、感謝なのか、あるいはそのどちらとも少し違うものなのか。そんなことはまだ自分でも整理できていない。
けれど、少なくとも雑に済ませたくはなかった。
それだけは、はっきりしていた。
校舎に入り、靴を履き替えた青は、教室へ向かう前にそのまま二年生のフロアへ足を向けた。
朝の廊下はまだ人が多すぎず、教室の中では登校してきた生徒たちが友人と話したり、提出物を確認したりしている。
青が二年の教室の前で立ち止まると、すぐに何人かの女子生徒の視線が集まった。
「え、氷凪先輩?」
「ほんとだ……」
「やば、かっこいい……」
ひそひそとした声が聞こえる。
青はそうした反応に慣れていないわけではないが、慣れているとも言い難い。ただ必要なことだけを済ませるつもりで、教室の入口近くにいた女子生徒へ静かに声をかけた。
「すみません。椎名紬さん、いますか」
声をかけられた女子は一瞬目を丸くし、それからぱっと顔を明るくした。
「はい、ちょっと待ってください!」
そう言って教室の奥へ駆けていく。
その間にも、周囲の空気は少しずつざわつきを増していった。
「椎名さん呼ばれてる」
「え、氷凪先輩と知り合いなの?」
「先輩のほうから来るってすごくない?」
青はそれらを聞こえないふりでやり過ごした。
しばらくして、教室の中から椎名紬が顔を出した。
青の姿を見た途端、その表情がぱっと明るくなる。
「青先輩」
小走りで近づいてきた紬は、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
「どうしたんですか? 朝から」
「少し用があって」
「私にですか?」
「ああ」
青は鞄に手を入れようとした。
その瞬間、紬は何を察したのか、はっとした顔になった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「どうした」
「ここじゃだめです!」
紬は慌てたように青の袖を引いた。
突然のことに青は目を瞬かせたが、抵抗する間もなく、紬に引っ張られるまま教室の前から少し離れた。
廊下の角を曲がり、人の少ない階段の踊り場のあたりまで来て、ようやく紬は足を止める。
朝の光が細く差し込む階段の隅は、さっきの教室前よりずっと静かだった。
紬は小さく息を吐いてから、青を見上げる。
「青先輩、ちょっとだめですよ」
「何がだ」
「教室の前で渡そうとしてましたよね?」
「……ホワイトデーのお返しを」
「やっぱり」
紬は額に手を当てた。
「そんなの、あの場所で渡されたら大変なことになります」
「大変なこと?」
「なりますよ。絶対なります」
紬の表情は本気だった。
青にはまだ実感が薄いが、彼女にとってはそうではないのだろう。
紬は以前、クラス内の人間関係で傷つき、不登校になったことがある。今は青の働きかけもあって学校生活へ戻ってきているが、だからといって人目に対する警戒が完全に消えたわけではない。
ましてや、校内でも目立つ青が朝から自分の教室へ来て、衆人環視の中で何かを渡そうとしたとなれば、噂になるのは目に見えている。
青は少し考えてから、静かに頷いた。
「……そうか」
「そうなんです」
「悪かった」
「いえ、青先輩は悪気なくやってるってわかってますから」
その言い方が少し可笑しくて、紬はくすっと笑った。
「でも、びっくりしました。ほんとに来てくれるとは思ってなくて」
「渡すなら、今日のうちがいいと思った」
青は鞄の中から、小さな紙袋を取り出した。
淡い色のシンプルなラッピングで、派手ではないが丁寧に整えられている。
「これだ」
紬は目を丸くして、それからゆっくりと両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
声が少しだけ上擦っていた。
思っていた以上に嬉しかったのだろう。指先で紙袋の持ち手をそっと握る仕草に、緊張と喜びが入り混じっているのが伝わってくる。
「中、見てもいいですか?」
「ああ」
紬は恐る恐る包みを開けた。
中には小さなお守りの入った袋と、焼き菓子の詰め合わせ、それから数枚の紙切れが入っていた。
「……え?」
紬はきょとんとした顔で、その紙を一枚取り出す。
そこには、青の几帳面な字で簡潔に書かれていた。
『青にお願いできるチケット』
「これ、は……」
紬の頬がみるみる赤くなる。




