第71話 返したい想い(2)
# 第71話 返したい想い
(お願いできるチケット……?)
その響きだけを聞くと、妙に夢が広がる。
呼び出し自由。
お願い自由。
それこそ、デートに付き合ってもらうとか、手をつないでもらうとか、そういうことまで……いや、さすがにそれはないかもしれない。でも、でも――。
頭の中でいろいろな妄想が一瞬で膨らみ、紬はますます顔を赤くした。
青はそんな彼女の内心など知る由もなく、淡々と説明する。
「紬も来年は受験だろ」
「……はい」
「卒業後、勉強を教えてほしいときがあるかと思って、それを使えばいい」
「……ああ」
紬は一気に現実へ引き戻された。
「そ、そういうことですね」
「そういうことだ」
「わかりました」
わかってはいた。
青先輩がそういう意味で変なチケットを渡してくるはずがないことくらい、もちろん知っている。
知っているのだが、ほんの数秒でも夢を見てしまった自分が少し恥ずかしかった。
それでも、チケットの意味を改めて考えると、胸の奥がじんわり温かくなる。
来年、自分が困ったときに頼っていいと言ってくれている。
それは紬にとって、想像以上に大きな意味を持っていた。
青はさらに続ける。
「勉強以外でも、必要になったら呼んでくれ」
紬は顔を上げた。
「……え?」
「何かあれば、だ」
「いいんですか?」
「ああ」
青はごく自然に頷いた。
「紬には、妹の件で感謝しているし」
その一言に、紬の表情が少しだけやわらぐ。
陽葵のこと。
それは二人の間にある、特別な共有事項だった。
陽葵が青の中でどれだけ大きな存在だったか、紬は知っている。そして、その陽葵の時間に自分も少しだけ関わっていたことを、青がちゃんと覚えていてくれるのが嬉しかった。
「……ありがとうございます」
紬は包みを胸元で抱くように持ち直しながら、小さく笑った。
「じゃあ、早速お願いがあるんですけど」
「なんだ」
青は素直に返した。
紬は手元のチケットをひらひらと揺らす。
「これ、倍の倍くらいに増やしてください」
「却下だ」
「えー」
「多い」
「足りないです」
「何に使うつもりだ」
「いろいろです」
「却下」
「ぶー」
頬をふくらませて不満を示す紬は、年相応に可愛らしかった。
その様子を見て、青はわずかに息をつく。
「……紬は相変わらずだな」
「相変わらずって何ですか」
「可愛い、という意味だ」
一瞬、空気が止まった。
紬の目がぱちぱちと瞬き、そのあとで一気に顔が熱を持つ。
「え……」
青は言ったあとで特に深い意味を込めたわけではなかった。ただ、思ったことをそのまま言っただけだ。
「じゃあ、俺はクラスに戻る」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「なんだ」
「今の、さらっと言いましたよね?」
「何がだ」
「何がだ、じゃないです!」
紬は真っ赤になったまま、けれどどこか嬉しそうに青を見上げる。
青は本当にわかっていないのだろう。
そういうところがずるい、と紬は思った。
「……ありがとうございました」
少しだけ声を整えて、紬はもう一度言う。
「大事にします」
「ああ」
青は静かに頷き、階段を離れた。
その背中を見送りながら、紬は胸元に抱えた紙袋をぎゅっと抱きしめる。
「青先輩……」
自分でも困るくらい、顔が熱かった。
勉強チケットだとわかっていても、あんなふうに「必要なら呼んでくれ」と言われてしまえば、期待しないほうが難しい。
それに最後の一言まで。
「……ほんと、ずるいです」
小さく呟いてから、紬は紙袋の中身をもう一度のぞき込み、自然と笑みをこぼした。
## ◆
青が三年のフロアへ戻る途中、廊下の向こうから見慣れた人物が歩いてきた。
如月雫だった。
柔らかな色合いの髪を揺らしながら、資料の入ったファイルを片手にこちらへ向かってくる。担任としての落ち着いた空気はいつも通りだが、その姿を見た瞬間、青は足を止めた。
「おはようございます、如月先生」
「おはよう、氷凪くん」
雫は少しだけ目を細めて微笑んだ。
「珍しいわね。こんな時間に二年のフロアにいるなんて」
「少し用があって」
「そう」
雫はそれ以上深く聞かなかった。
教師として聞くべきことと、そうでないことの線引きが上手い。
青はそんな彼女の前で、ひとつ息を整えた。
「あの、先生」
「何?」
「これ」
鞄からもう一つの包みを取り出し、青は雫へ差し出した。
「ホワイトデーです」
雫は一瞬、目を丸くした。
「……私に?」
「はい」
「でも私、バレンタインにあげたのってミニチョコだけよ?」
「知っています」
「それなのに、こんなにちゃんとしたものを?」
青は小さく頷いた。
「先生には、お世話になりましたから」
その言葉には、ただのお返し以上の意味があった。
雫はすぐにそれを察したのだろう。表情がほんの少しだけやわらかくなる。
陽葵のこと。
青が崩れそうになっていたとき、何も言わずに支えてくれたこと。病院への送迎や、学校との調整や、余計な詮索をしない距離感の中で、それでも必要なときには確かに手を差し伸べてくれたこと。
青にとって雫は、ただの担任ではなかった。
「迷惑も、かけました」
その言葉に、雫は少しだけ息を呑んだ。
「……迷惑だなんて、一度も思ってないわ」
穏やかな声だった。
「それに、教師が生徒の力になるのは当たり前でしょう」
「それでもです」
青は静かに言った。
「ありがとうございました」
雫はしばらく青を見つめていたが、やがてそっと包みを受け取った。
「……ありがとう。じゃあ、遠慮なくいただくわ」
その場で中を確認するのはためらわれたのか、雫は軽く持ち上げて重みを確かめる。
「何を入れたの?」
「ハンカチと、メガネケースです」
「メガネケース?」
「先生、時々使ってますよね」
「あら」
雫は少し意外そうに笑った。
「見ていたのね」
「見えていただけです」
「ふふ、そういうことにしておくわ」
教師として、生徒から贈り物を受け取ることには少なからず慎重になるべきなのだろう。
けれど今この瞬間、雫はそれを“生徒からのお返し”以上のものとして受け取っていた。
これは感謝の形だ。
言葉にしきれないものを、青なりに返そうとしてくれた結果だ。
そのことが、胸に静かに沁みた。
「氷凪くん」
「はい」
「大人になったわね」
不意にそう言われて、青は少しだけ目を瞬かせた。
「そうですか」
「ええ」
雫は微笑む。
「前からしっかりしていたけれど……今は、もっと」
そこで言葉を区切る。
失った痛みを知ったから、とは言わなかった。
だが、青にはその先がなんとなく伝わった。
「……そうかもしれません」
青がそう返すと、雫は少しだけ困ったように笑った。
「否定しないのね」
「自分では、よくわからないので」
「それが氷凪くんらしいわ」
雫はそう言ってから、ファイルを持ち直した。
「じゃあ、私は職員室に行くから。ホームルームに遅れないようにしなさい」
「はい」
すれ違いざま、雫はふと足を止め、横目で青を見た。
「……大切に使うわ」
「そうしてください」
短いやりとりだった。
けれど、それで十分だった。
雫の背中が廊下の先へ消えていくのを見送りながら、青は小さく息をついた。
誰かに何かを返すというのは、思っていたより難しい。
だが、難しいからこそ、相手のことを考える時間が必要になる。
それ自体は、悪くなかった。
## ◆
三年の教室へ戻ると、朝のざわめきはすでにいつもの調子を帯びていた。
席に着いた生徒たちが友人同士で話し、窓際では誰かが眠そうにあくびをしている。卒業が近いとはいえ、こうした何でもない朝の風景は相変わらずだった。
青は自分の席へ向かい、鞄を机の横にかけた。
その中には、まだ渡していない包みが二つ入っている。
結愛の分。
凛花の分。
どちらも昨日まで散々迷って選んだものだ。だが、持っているだけでわずかに落ち着かない。
恋愛に興味がない、と思ってきた。
それは本心だった。
少なくともこれまでは。
だが、今こうして複数の相手に返すものを抱えていると、自分の中に「相手によって違うものを選ぶ」という感覚があることに気づかされる。
誰にでも同じではない。
同じでいいとも思えない。
その違いを言葉にできるほど、自分はまだ器用ではなかった。
けれど、少なくとも無関心ではない。
それは、昔の自分とは少し違っていた。
窓の外では、朝の光が校庭を照らしている。
春はもうすぐだ。
卒業も近い。
終わっていくものと、これから始まるものが、校舎の中で静かに入り混じっている。
青は机の中から教科書を取り出したあと、何気なく鞄へ視線を落とした。
結愛なら、どんな顔をするだろう。
凛花は、どんなふうに受け取るだろう。
その想像をしている自分に、少しだけ戸惑う。
だが同時に、それを拒みたいとは思わなかった。
陽葵を失った痛みは、今も胸の奥にある。
たぶん一生消えない。
それでも、誰かのために何かを選び、誰かの反応を想像し、今日という日を少しだけ落ち着かない気持ちで過ごす。
そんな時間もまた、自分が生きている証なのかもしれなかった。
やがてホームルーム開始のチャイムが鳴る。
教室のざわめきが少しずつ落ち着いていく中、青は前を向いた。
まだ渡すべきものがある。
返したい想いが、まだ残っている。
そう思うと、胸の奥にわずかな緊張と、言葉にしにくい静かな熱が灯っているのを感じた。




