第72話 最初から特別だった人(1)
# 第72話 最初から特別だった人
三月十四日、ホワイトデーの放課後。
教室の中には、春の手前特有の、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
卒業まであとわずか。
受験は終わり、進路もおおむね決まり、残された学校生活は指で数えられるほどしかない。だからだろうか。教室では何気ない雑談ひとつにも、いつもより少しだけ名残惜しさが混じっているように感じられた。
その中で、黒金結愛は明らかに落ち着きを失っていた。
自分でもわかるくらい、そわそわしている。
机に肘をついて頬杖をついたかと思えば、すぐに姿勢を正す。スマホを見ても内容が頭に入らず、画面を閉じてはまた時計を確認する。窓の外へ目を向けてみても、グラウンドの景色なんてほとんど視界に入っていなかった。
「結愛、どうしたの?」
後ろの席の星崎真凛が、不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「え、別に」
「いや別にじゃないでしょ。朝からずっと落ち着きないし」
「そんなことないって」
「あるある。めっちゃある」
真凛はにやにやしながら言った。
「ホワイトデー、待ってるんでしょ?」
図星だった。
結愛は一瞬だけ言葉に詰まり、それからふいっと視線を逸らす。
「……まあ、ちょっとは」
「ちょっとどころじゃない顔してる」
「うるさいなあ」
軽く睨んでみせても、真凛は楽しそうに笑うだけだった。
結愛自身、否定しきれない。
期待している。
それは事実だった。
バレンタインを渡した日、青はちゃんと受け取ってくれた。しかも、気になる人以外からは受け取らないと言っていた。あれがどういう意味なのか、結局はっきりした答えをもらえたわけではない。
それでも、あのときの言葉は今も胸に残っている。
『結愛には、いつも助けられてきた気がする』
『これからも……』
あの途切れた言葉の先を、何度考えたかわからない。
だから今日、期待してしまう。
ホワイトデー。
もしかしたら、何かあるかもしれないと。
そのときだった。
前の席で帰り支度をしていた氷凪青が、鞄を肩にかけて立ち上がった。
結愛の心臓がどくりと鳴る。
行く。
今だ。
今、声をかければいい。
そう思ったのに、喉が少しだけつかえた。
青は何気ない顔のまま、教室の出口へ向かって歩き出す。
結愛はぎゅっとスカートの裾を握りしめて、ようやく声を絞り出した。
「青……」
小さな声だった。
廊下のざわめきに紛れてしまいそうなほど、小さくて、か細い声。
青の耳には届かなかったのか、それとも本当に聞こえなかったのか、彼は振り返らない。そのまま教室を出ていってしまう。
扉の向こうへ消えた背中を見つめたまま、結愛はしばらく動けなかった。
「……あ」
それだけが、遅れて口から漏れる。
追いかけようかと一瞬思う。
でも、青が向かった先がどこなのか、考えなくてもわかってしまった。
この時間、今日という日。彼が先に行くのはきっと――。
「生徒会室、かな」
真凛がぽつりと言った。
結愛は答えなかった。
答えられなかった。
胸の奥が少しだけ冷たくなる。
わかっていたことだ、と自分に言い聞かせる。
凛花は特別だ。
青にとっても、たぶん。
最初からずっと、一番近くで競い合ってきた相手で、理解し合ってきた相手で、今は生徒会でも一緒にいた。
結愛はそれを知っている。
知っているからこそ、痛い。
「……やっぱり、最初は凛花ちゃんか」
誰にも聞こえないくらい小さく呟くと、真凛が心配そうに眉を寄せた。
「結愛」
「ううん、なんでもない」
結愛はすぐに笑った。
ギャルらしい、いつもの明るい笑顔を作る。けれど、自分でもわかるくらいその笑顔は少しだけ薄かった。
「べつに、まだ決まったわけじゃないし」
そう言ってみても、胸のざわつきは消えなかった。
青のいない教室は、さっきより少しだけ広く、少しだけ寂しく見えた。
## ◆
生徒会室の扉を開けると、夕方の光が静かに差し込んでいた。
窓際の机には資料の束が整然と並び、壁際の棚には過去の行事ファイルがきちんと収められている。何度も足を運んだ場所なのに、卒業が近づいた今となっては、その一つひとつがどこか懐かしく見えた。
その部屋の中央で、雪城凛花が資料を閉じるところだった。
青の姿を見ると、彼女はわずかに目を細めた。
「来たのね、青」
「ああ」
凛花の声はいつも通り落ち着いていたが、どこか少しだけやわらかい。放課後の生徒会室には二人きりだ。その事実が、部屋の静けさをいっそう濃くしていた。
青は鞄の中に手を入れ、小さな包みを取り出した。
「凛花、これ」
余計な前置きはなかった。
凛花は一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑う。
「……ありがとう」
受け取った包みは、白と紺を基調とした上品な包装だった。青らしくシンプルだが、雑なところはない。店員に言われるまま整えてもらっただけかもしれないが、それでも彼なりに考えて選んだのだろうというのは伝わってくる。
「開けていい?」
「ああ」
凛花は机の上に包みを置き、丁寧にリボンをほどいた。
中から出てきたのは、落ち着いた色合いのボールペンとシャープペンシルのセット、それから小さく可愛らしい消しゴムだった。
一瞬、凛花は目を瞬かせた。
「……ボールペンと、シャープペンシル」
青は頷く。
「使いやすそうだったから」
「そう」
凛花はペンの箱を手に取り、しげしげと眺めた。見るからに安物ではない。派手ではないが質の良さがわかる、学生には少し背伸びした価格帯の品だろう。
「高かったんじゃない?」
「それなりには」
「……ありがとう。嬉しいわ」
そう言ったあとで、凛花はふとシャープペンシルを見て、小さく首を傾げた。
「でも、青」
「なんだ」
「クリスマスプレゼントでも、シャープペンシルをもらった気がするのだけれど」
青はぴたりと動きを止めた。
「あ……」
「気のせいかしら」
「いや、気のせいじゃない」
凛花はくすっと笑う。
「やっぱり」
青はほんのわずかに眉を寄せた。
「……すまない」
「どうして謝るの」
「選んでから気づいた」
「それはちょっと面白いわね」
凛花は完全に笑っていた。
「青、あなた本当にこういうところがあるのね」
「悪かった」
「悪くはないわ。シャープペンシルはいくつあっても困らないもの」
そう言ってから、彼女はセットのペンをそっと指でなぞった。
「むしろ、あなたらしいと思う」
「そうか」
「ええ。実用的で、変に気取っていなくて、それでいてちゃんと選んでくれたのがわかるから」
青は少しだけ肩の力を抜いた。
正直に言えば、かなり迷った。アクセサリーの類は違う気がしたし、お菓子だけというのも凛花には少し物足りない気がした。考えた結果、彼女が日常的に使うもの、そして将来にも繋がっていくものがいいと思った。
「凛花の字、綺麗だから」
青が言うと、凛花は目を上げた。
「……私の字?」
「ああ。いつも見てる」
資料を書く字、ノートの字、黒板の横に残されたメモの字。凛花の字は整っていて、無駄がなく、読みやすい。彼女自身の性格がそのまま形になったような字だと、青は前から思っていた。
「だから、使いやすいものがいいかと」
凛花はしばらく黙って青を見ていたが、やがてほんの少しだけ頬をやわらげた。
「……そう」
それだけしか言わなかったが、その短い返事の中にいろいろな感情が滲んでいた。
青はさらに、もう一つの小さな消しゴムに視線を落とした。
「あと、それは……」
「消しゴム?」
「ああ」
青は少し考えるように間を置いてから言った。
「前に、忘れたことがあっただろ」
凛花は一瞬、きょとんとした顔をした。
「……え?」
「模試の会場で」
その言葉を聞いた瞬間、凛花の表情がわずかに変わった。




