第72話 最初から特別だった人(2)
# 第72話 最初から特別だった人
青は静かに続ける。
「隣の席だったとき、凛花が消しゴムを忘れていた」
凛花は何も言わず、ただ青を見つめていた。
その沈黙に構わず、青は記憶をたどる。
「開始直前で、焦ってた」
「あの時のこと、覚えているの?」
「ああ」
あっさりと返されたその一言に、凛花の胸が小さく揺れた。
覚えていた。
あのときのことを、青が。
まだほとんど会話を交わしたこともなかった頃だ。名前と顔くらいは知っていても、今みたいに自然に呼び合う関係ではなかった。
ただ、模試会場でたまたま席が隣になった。
それだけのはずだった。
それなのに――。
「……あの時」
凛花は小さく息を吐き、机の上の消しゴムにそっと触れた。
「周りに知り合いがいなくて、すごく心細かったの」
青は黙って聞いていた。
「模試なんて慣れていたはずなのに、その日に限って消しゴムを忘れてしまって。直前になって気づいたのだけれど、誰に借りればいいのかもわからなくて……」
当時の自分を思い出しながら、凛花は苦笑した。
「生徒会長だとか、学年一位だとか、そういうのって関係ないのよね。焦るときは焦るし、困るときは困る」
「そうだな」
「そのとき、まだちゃんと会話もしたことがなかった青が、いきなり消しゴムを差し出してきたから……びっくりした」
あのときの青は、今とほとんど変わらなかった。
無口で、無駄なことを言わなくて、でも目の前で困っている人間を放っておけない。
何も飾らず、ただ当然のように助けた。
凛花はあの日の青の横顔を、今でも鮮明に覚えている。
模試開始前の静かな教室。張り詰めた空気の中で、差し出された小さな消しゴム。それだけのことなのに、なぜか強く印象に残った。
「……ありがとう」
凛花はゆっくりと言った。
「たぶん、あのときから」
少しだけ視線を伏せる。
そして、また青を見る。
「ずっと、青のことが気になっていたの」
生徒会室が静かになる。
窓の外から差し込む夕方の光が、二人の間の空気をやわらかく染めていた。
青はその言葉を正面から受け止め、しばらく黙っていた。
凛花は平静を装っているつもりだったが、胸の鼓動は確かに速くなっている。
今さら隠しても仕方ない。
ここまで来たら、少しくらい本音を見せてもいい気がした。
そして青は、やがて静かに口を開いた。
「……俺もだ」
凛花の呼吸が止まりそうになる。
「……え?」
ほんの一瞬で、胸の奥に強い光が差し込んだような気がした。
もしかして。
まさか。
青も、自分を。
そんな期待が、一気に膨らむ。
だが次の言葉で、その光は少し違う形を取った。
「ずっと、一番なのがこの人か、って思ってた」
凛花は数秒、沈黙した。
それから、小さく息をつく。
「ああ……」
その声音には、わずかな苦笑が混じっていた。
「そっち」
学年一位。
成績のことだ。
ライバルとして、ずっと意識していたという話。
嬉しくないわけではない。
むしろ青にとって特別な存在であったことは確かだし、それ自体は十分すぎるほど意味がある。
けれど、今一瞬だけ期待してしまったぶん、胸の奥に小さな落差が生まれる。
青は凛花のその微妙な表情の変化を見て、少しだけ眉を寄せた。
「違ったか」
「違わないけれど……違うわ」
「そうか」
「もう」
凛花は苦笑しながら消しゴムを手に取った。
「本当に、青はそういうところがあるわね」
不器用で、真っ直ぐで、肝心なところで少しだけずれる。
けれど、そのずれ方まで含めて彼らしいと思ってしまう自分がいる。
それがまた悔しくて、愛おしかった。
青は何か言おうとして、ふと鞄の中へ視線を落とした。
「……あ」
「どうしたの?」
「忘れ物をした」
凛花は首を傾げた。
「忘れ物?」
「教室に戻る」
青はそう言って、鞄を持ち直した。その視線が一瞬だけ鞄の中の別の包みに向いていたのを、凛花は見逃さなかった。
おそらく、まだ渡していないホワイトデーの品だろう。
誰のものかは、考えなくてもなんとなくわかった。
結愛ちゃん。
あるいは、まだ別の誰か。
だがきっと、一番可能性が高いのは彼女だ。
さっき教室で、そわそわしていたかもしれないあの子。
凛花はほんの少しだけ寂しさを覚えたが、それを顔には出さなかった。
代わりに、小さく息をついて言う。
「青……もう」
「悪い」
「謝らなくていいわ」
凛花は微笑んだ。
「行ってきなさい」
その一言は、大人びていて、でもほんの少しだけ切なかった。
青は凛花の表情を見て、一瞬だけ言葉を探すようにしたが、結局はうまく見つからなかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
それだけ言って、青は生徒会室を後にした。
扉が閉まり、部屋にはまた静けさが戻る。
凛花はしばらくその扉を見つめていたが、やがて机の上のプレゼントへ視線を落とした。
ボールペンとシャープペンシル。可愛い消しゴム。
実用的で、少し不器用で、でも確かに自分のことを考えて選んでくれたとわかるものばかりだった。
シャープペンシルがクリスマスと被っているのは、正直少しおかしかった。
けれど、だからこそ青らしい。
自分の字を見てくれていたこと。
模試の日のことを覚えてくれていたこと。
それだけで十分すぎるほど嬉しかった。
「……最初から、特別だったのね」
誰に聞かせるでもなく、凛花は小さく呟いた。
恋愛としての意味ではなくても、青の中に自分の場所がずっとあった。その事実が、胸の奥をあたたかく満たしていく。
同時に、少しだけ苦くもある。
まだ恋だとは言ってくれない。
まだ、自分が一番なのかどうかもわからない。
でも、あの消しゴムの記憶を青が覚えていたのなら。
あの頃から、自分も彼の中にいたのなら。
きっと、焦らなくてもいい。
そう思いたかった。
凛花は新しいペンをそっと箱に戻し、消しゴムだけを指先で転がす。
小さくて可愛らしいそれは、かつての自分の焦りと、青の優しさを思い出させた。
窓の外では、夕焼けが少しずつ色を深めている。
卒業まであと少し。
終わりが近づくほどに、言葉にできない想いは増えていく。
けれど今日、少なくともひとつだけ確かなことがあった。
青の記憶の中で、自分は最初から特別だった。
その事実だけで、このホワイトデーは凛花にとって、何より意味のある日になった。
## ◆
生徒会室を出た青は、廊下を歩きながら小さく息を吐いた。
凛花との会話が頭の中に残っている。
模試の日のこと。消しゴムのこと。ずっと気になっていたという言葉。
自分にとって凛花は、昔から特別な相手だった。
それは間違いない。
学年一位として目で追ってきた存在であり、気づけば隣にいることが当たり前になっていた存在でもある。
ただ、それをどう言葉にすればいいのかは、まだよくわからない。
恋愛というものが、自分にはまだ難しい。
けれど、凛花の少し寂しそうな、それでも綺麗だった微笑みを思い出すと、胸の奥が静かにざわついた。
青は歩きながら、鞄の中に残るもう一つの包みへ意識を向ける。
結愛の分だ。
教室で、自分を呼ぶ声があったような気もする。
あれが本当に結愛だったのかはわからない。だが、もしそうなら待たせているかもしれないと思った。
歩調がわずかに速くなる。
誰かのために急ぐという感覚が、少しだけ不思議だった。
それでも今は、その不思議さを嫌だとは思わなかった。
春の夕方の光が、長い廊下の先まで静かに伸びている。
青はその中を、教室へ向かって歩いていった。




