第73話 ずっと待ってた(1)
# 第73話 ずっと待ってた
ホワイトデー当日の放課後。
西日に染まり始めた教室には、昼間のざわめきの余韻がまだ薄く残っていた。卒業を目前に控えた三年生たちの空気は、このところずっと少し浮ついている。進学先の話、卒業式の話、春休みの予定。あちこちでそんな言葉が飛び交う中で、黒金結愛だけは、朝から一日中ずっと落ち着かなかった。
朝、青に声をかけようとしてかけられなかった。
いや、正確には声は出した。
小さく、かすれるみたいに。
けれど青は振り返らず、そのまま教室を出て行った。
向かった先は、おそらく生徒会室。
つまり、雪城凛花のところだ。
わかっていたことだ、と結愛は自分に何度も言い聞かせた。
青にとって凛花が特別なのは、たぶん最初からそうだった。学年一位と二位。生徒会での時間。静かに通じ合う空気。自分の入り込めない場所が、あの二人の間にはある。
それでも――。
それでも、少しくらい期待してしまったのだ。
もしかしたら、最初に来てくれるかもしれないって。
あの日、遅いバレンタインを渡したとき、青はちゃんと受け取ってくれた。しかも、気になる人からのものしか受け取らない、なんてことまで言った。
あの言葉が、ずっと胸の中に残っている。
だから待ってしまった。
今日、ホワイトデーの日に、自分も何か返してもらえるんじゃないかと。
でも放課後になっても青は教室へ戻ってこない。
結愛は席に座ったまま、何度も時計を見た。
真凛が心配そうに「もう帰る?」と聞いてきたが、結愛は「もうちょっとだけ」と笑って答えた。笑ってはみせたけれど、胸の中のざわざわはまったく消えない。
それでもじっとしていられず、結愛は途中で職員室へ行った。
用事があったわけではない。
ただ、教室で待ち続けるだけなのが苦しくなったからだ。少し歩いて、少し頭を冷やしたかった。もしかしたら廊下のどこかで青に会えるかもしれない、そんな期待もどこかにあった。
だが結局、職員室の前まで行っても青の姿はなく、数分だけ時間を潰してから、結愛は再び教室へ戻ることにした。
廊下の窓から差し込む夕方の光が、床に長い影を作っている。
その影を跨ぎながら歩いていると、胸の奥に小さな不安が広がっていく。
(……もう、帰ったとかじゃないよね)
もしそうだったら。
もし結局、自分には何もないまま今日が終わってしまったら。
そう考えると、胸がきゅっと締めつけられた。
教室の扉に手をかける。
そして開けた、その瞬間だった。
「結愛!」
思いがけない声が、教室の中から飛んできた。
結愛はびくっと肩を揺らし、その場で目を見開いた。
「……え?」
空になりかけた教室の真ん中に、氷凪青が立っていた。
鞄を肩にかけたまま、少しだけ息を乱している。いつもなら感情を表に出さないその顔に、今ははっきりと焦ったような色が見えた。
「青……?」
信じられないものを見るみたいに名前を呼ぶと、青はまっすぐ結愛のほうへ歩いてきた。
「探した」
短い言葉だった。
けれど結愛の胸は、その一言だけで大きく揺れた。
「……え、なに? びっくりした……」
「教室に戻ったら、いなかった」
「ちょっと職員室に行ってたの。……私も、青を探したよ」
そう言った瞬間、自分で自分の声が少し震えているのがわかった。
青はわずかに目を瞬かせる。
「俺を?」
「……うん」
結愛は少しだけ視線を逸らし、それからまた青を見た。
ここでごまかすのも違う気がした。今日一日ずっと待っていたことも、朝からそわそわしていたことも、もう隠しきれない。
「青は……どうして、私を?」
問いかける声は、思っていた以上に不安を含んでいた。
答えを聞くのが怖いような、でも聞かなければ前に進めないような、そんな気持ちだった。
青は少しだけ間を置いてから、鞄の中へ手を入れた。
取り出したのは、小さな紙袋だった。
「これ」
結愛の目が、その袋に吸い寄せられる。
「……遅くなった」
ホワイトデーのお返しだと、説明されなくてもわかった。
その瞬間、朝から胸の中に溜まっていた不安や焦りや寂しさが、一気にほどけた。
「……っ」
喉の奥が熱くなる。
視界が少しだけ滲んだ。
結愛は紙袋を受け取る前に、思わず青の顔を見上げた。
「……遅いよ」
責めるつもりはなかった。
でも、その言葉は自然に零れた。
「今日、朝からずっと待ってたの……」
声が震える。
「もらえないのかと思った……」
そこでとうとう涙が溢れた。
ぽろり、と頬を伝う透明な粒に、結愛自身がいちばん驚いたかもしれない。
泣くつもりなんてなかった。
もっと軽く、「ありがとう!」って笑って受け取るつもりだったのに。
でも無理だった。
朝から待って、待って、待って。青が凛花のところへ行ったこともなんとなくわかってしまって。自分はやっぱり後なのかなって、仕方ないって思おうとしたのに、どうしても胸が痛かった。
そんな一日を経て、ようやく目の前で「遅くなった」と言われたら、もう耐えられなかった。
青は少しだけ困ったような顔になった。
「……ごめん」
その声は低く、静かだった。
「なかなか渡すタイミングがなくて」
それから、青はごく自然に手を伸ばし、結愛の頭をそっと撫でた。
あまりにも無意識で、あまりにも当たり前みたいな手つきだった。
結愛は息を呑む。
大きな手が、髪の上をやさしく一度だけ滑る。
その温度に、余計に涙が止まらなくなりそうだった。
青はもう片方の手でポケットからティッシュを取り出し、結愛へ差し出した。
「使うか」
結愛は泣き笑いみたいな顔でそれを受け取る。
「……なにそれ」
「泣いてるだろ」
「そうだけど」
「必要かと思った」
「そういうとこ、ほんと青だよね」
結愛はティッシュで目元を押さえながら、小さく笑った。
頭を撫でておいて、すぐティッシュを差し出す。その流れが優しいのに、どこか現実的で、でもたぶん本人は何も考えていない。
そういうところまで含めて、やっぱり好きだと思ってしまう。
少し呼吸を整えてから、結愛はようやく紙袋を両手で受け取った。
「……開けていい?」
「ああ」
結愛は机の上に紙袋を置き、丁寧に中身を取り出した。




