第73話 ずっと待ってた(2)
# 第73話 ずっと待ってた
出てきたのは、上品なデザインの髪留めと、小さくて可愛らしい箱に入ったハンドクリームだった。
「わ……」
思わず声が漏れる。
髪留めは結愛の明るい雰囲気にも似合いそうな、少し華やかで、それでいて安っぽくないものだった。ハンドクリームも、見ただけで質の良さがわかる。たぶん自分ではなかなか買わない値段のものだろう。
「髪留めと……ハンドクリーム?」
「ああ」
青は頷いた。
「結愛、料理とか家事をするだろ」
結愛は顔を上げた。
「……うん」
「髪留めがあると邪魔にならないかと思った」
それからハンドクリームのほうへ視線を向ける。
「あと、水仕事も多いだろうし、手が荒れるかと思って」
結愛はしばらく何も言えなかった。
ただ嬉しい、というだけでは足りなかった。
見てくれていたのだとわかったからだ。
自分が料理をすることも、弟や妹の世話をしていることも、家で手を動かしていることも。青はちゃんと知っていて、その上で必要そうなものを考えて選んでくれた。
(見てくれてるんだ……)
胸がいっぱいになる。
(もう……だめ……好き……)
涙の残る目元のまま、結愛はふっと笑った。
「……ありがと」
その一言のあと、衝動が先に動いた。
気づいたときには、結愛は青へ抱きついていた。
「わっ」
青が珍しく声を上げる。
結愛の腕が彼の背中へ回る。制服越しに伝わる体温が近すぎて、自分でも何をしているんだろうと思うのに、もう止められなかった。
「ちょ、ちょっと、結愛」
「……ごめん」
口では謝りながらも、すぐには離れられない。
「嬉しくて」
ようやく少しだけ身体を離した結愛の顔は、泣いたせいもあって赤くなっていた。
青は困ったように目を逸らし、それでも本気で嫌がっているわけではなさそうだった。
「学校だ」
「……うん」
「見られる」
「うん」
「なら、少し離れろ」
「はい」
素直に一歩下がると、青は小さく息を吐いた。
結愛はその様子を見て、少しおかしくなる。
慌てているのに、怒るわけでもなく、ただ事実だけを淡々と言う。そのくせ、真正面から突き放すこともしない。
本当に、青らしい。
「……大切にするね」
結愛がハンドクリームの箱を胸元で抱えるように持つと、青は首を横に振った。
「ハンドクリームは、大切にしなくていい」
「え?」
「使うためのものだろ」
「それはそうだけど」
「なくなったら、またプレゼントする」
結愛は一瞬、意味を理解するのに時間がかかった。
なくなったら、また。
それはつまり、これきりではなく、次もあると言っているのと同じだった。
先のことを、自然に含んでいる言葉。
結愛の頬が一気に熱を持つ。
「……っ、なにそれ」
「変か」
「変じゃないけど……」
変じゃない。
変じゃないけど、破壊力が高すぎる。
結愛は笑ってごまかすしかなかった。
「……じゃあ、じゃんじゃん使う」
「ああ」
「なくなったら、ちゃんともらうからね」
「わかった」
それだけのやりとりなのに、未来の約束みたいに聞こえてしまう。
結愛はもう一度だけ泣きそうになるのを堪えた。
そして気を取り直すように、すぐその場で髪留めを手に取った。
「ねえ、これ、つけていい?」
「今か」
「今」
返事も待たずに、結愛は手早く髪をまとめた。慣れた手つきだった。髪留めを使ってさっと横の髪を留めると、いつもより少しだけ大人っぽい雰囲気になる。
結愛はくるりと青のほうへ向き直った。
「……どう?」
その問いには、女の子特有の期待と不安が綺麗に混じっていた。
似合わないなんて言われたらどうしよう、でも似合うって言ってほしい。そんな感情がそのまま表情に出ている。
青はしばらく結愛を見た。
明るい色の髪に、新しい髪留めがよく馴染んでいる。いつもの華やかさはそのままで、少しだけやわらかな印象が足されていた。
「……似合ってる」
短い、いつもの口調。
けれど結愛にとっては十分すぎた。
「……ほんと?」
「ああ」
「へへ」
自然と笑みがこぼれる。
鏡を見たわけでもないのに、青がそう言ってくれるだけで、今日の自分が少し特別になった気がした。
しばらくそんな空気が続いたあと、結愛はふと遠くを見るような目になった。
「……青、覚えてる?」
「何を」
「だいぶ前のこと」
青は少し首を傾げる。
結愛は教室の窓の外へ視線を向けた。夕方の光が、校庭の向こうをあたたかく染めている。その色を見ていると、ずっと昔の土手の景色が自然に蘇ってきた。
「猫を助けてくれた日」
「猫?」
「うん」
結愛はゆっくり話し始めた。
「まだ、青とちゃんと会話もしたことなかった頃。私、乃愛と琉生を連れて買い物帰りに土手を歩いてたの」
青は黙って聞いている。
「そのとき、乃愛が急に『お姉ちゃん、あれ!』って言って。川のほうを見たら、段ボールに入った猫が流れてて……」
結愛の表情が少しだけ曇る。
「すごい鳴いてて、もう今にも沈みそうで。私、反射的に助けようとして川に入ろうとしたんだけど、思ったより深そうで、乃愛も琉生もいたし、どうしようって……」
焦りと恐怖と、目の前の命を見捨てたくない気持ち。その全部が入り混じった、あの瞬間。
「そのとき、青が来たの」
結愛は青を見る。
「何も聞かないで、ほんとに躊躇なく川に飛び込んで、猫を助けてくれた」
青はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……ああ」
思い出したらしい。
「そんなこともあったな」
「そんなこと、って……」
結愛は苦笑した。
「私には、全然そんなことで済まないんだけど」
青の制服はあのときずぶ濡れになっていた。川の水は冷たくて、岸に上がったあとも彼は平然としているように見えたけれど、結愛にはその姿が強烈に焼きついた。
自分も助けようとしていた。けれど怖かった。弟と妹がいたからという言い訳はある。でも、あの一瞬で青は迷わなかった。
困っている命を前に、ただ当然のように動いた。
その姿が、どうしようもなく格好よかった。
「青、あのときも妹と一緒だったよね」
「ああ。陽葵と出かけた帰りだった」
陽葵の名前が出た瞬間、二人の間にほんの少しだけ静かな空気が流れた。
結愛はその名前を大切に受け止めるように、小さく頷く。
「そっか」
陽葵と一緒の帰り道。
あの日の光景の中にも、青にとって大切な時間があったのだと思うと、ただの昔話ではなくなる。
「……あのときから」
結愛はゆっくりと言葉を紡いだ。
「ずっと、青のことが気になってた」
正確には、そのときにはもう恋だったのかもしれない。
ただ、当時の自分はそれをうまく言語化できなかった。
格好いいと思った。優しいと思った。もっと知りたいと思った。もっと近くにいたいと思った。
気づいたら、それは恋になっていた。
青は正面からその言葉を受け止め、珍しくすぐには返事をしなかった。
結愛は少しだけ笑う。
「重い?」
「いや」
「そっか」
それだけでも、少し救われる。
軽く流されたくなかったから。
今日の自分は、もうごまかしたくなかった。
「ねえ」
結愛は一歩だけ青との距離を詰めた。
「もう一つ、欲しいものがあるんだけど」
青が少しだけ眉を動かす。
「なんだ?」
その瞬間、結愛の中で何かが決まった。
言葉にしたら、たぶんだめだと思った。
今このタイミングを逃したら、きっとまた笑って誤魔化してしまう。明るいギャルの顔で、冗談っぽく流してしまう。
でも今日は、それをしたくなかった。
待って、泣いて、抱きついて、こんなにみっともない自分を見せてしまったのなら、最後まで素直になってもいい気がした。
結愛は背伸びをするように、ほんの少し顔を上げた。
青の目がわずかに見開かれる。
次の瞬間。
結愛は、青にキスをした。
ほんの一瞬だった。
唇が触れたと認識した時には、もう離れていた。
教室の空気が止まる。
青は完全に固まっていた。
「……え?」
ようやく漏れたその声に、結愛の心臓がさらに激しく鳴る。
自分でも何をしたのか、もちろんわかっている。わかっているからこそ、今すぐここから逃げ出したいくらい恥ずかしかった。
顔が熱い。
耳まで熱い。
でも、後悔はなかった。
「……じゃあ、またね」
精一杯それだけ言って、結愛はくるりと背を向けた。
「お、おい……結愛」
青が呼ぶ声が聞こえる。
けれど振り返れない。
振り返ったら、たぶんその場で座り込んでしまう。恥ずかしすぎて、嬉しすぎて、怖すぎて、全部ぐちゃぐちゃになってしまう。
だから結愛はそのまま走った。
夕方の廊下を、髪留めを揺らしながら。
胸の中では、さっきまでの不安が嘘みたいに消えていた。
代わりに残っているのは、やりきったような高揚感と、どうしようもない羞恥と、そして確かな想いだった。
(もう、無理……)
(好きすぎる……)
廊下の角を曲がって、ようやく人目のない場所まで来ると、結愛は壁にもたれるようにして立ち止まった。
心臓が痛いほど速い。
唇に触れた感触を思い出して、また顔が熱くなる。
「……やっちゃった」
小さく呟いたあとで、ふっと笑いが込み上げた。
やってしまった。
でも、それでよかった。
今日のことはたぶん、ずっと忘れない。




