第74話 卒業の日、最後の教室(1)
# 第74話 卒業の日、最後の教室
三月の朝は、もう冬ではなかった。
空気の奥にはまだ少しだけ冷たさが残っているのに、頬を撫でる風には、確かに春の匂いが混じっていた。氷凪青は、いつもの通学路をひとりで歩きながら、見慣れたはずの景色を静かに見ていた。
何度も通った道だった。
駅前のコンビニ。角の花屋。通学時間になるといつも混み合う横断歩道。どれも変わっていないはずなのに、今日だけは少し違って見える。
今日で、最後だからだろう。
星嶺高校卒業式。
校門の前には、すでに多くの生徒と保護者の姿があった。スーツ姿の保護者、花束を抱えた在校生、写真を撮り合う卒業生。門の横には『卒業証書授与式』と書かれた立て看板が置かれ、その前では何人もの生徒が笑顔を作っていた。
青は足を止め、ほんの少しだけその光景を見つめた。
高校生活が終わる。
そう頭ではわかっていたはずなのに、実際にその日が来ると、思っていたよりもずっと現実味があった。受験が終わり、合格発表があり、気づけば三月になっていた。ここまで来るまでの時間は長かったのに、振り返ればあまりにもあっという間だった。
ふと、胸の奥に小さな痛みが走る。
陽葵にも、見せたかったな。
卒業式くらい、いつか当たり前に見せられるものだと思っていた。自分が卒業して、大学に進んで、その先もずっと続いていくものだと思っていた。
けれど、その当たり前はもうない。
青は目を伏せ、それから静かに息を吐いた。
「……行くか」
誰に言うでもなく呟いて、校門をくぐる。
その瞬間、いくつもの声が耳に入った。
「おはよう!」
「青、おはよー!」
「氷凪くん、今日も顔がいいー!」
葉山颯が、いつもの調子で大きく手を振っていた。
「おーい、青! やっと来たか。遅いぞ、主役」
「遅れてない」
「いやいや、卒業式の日はみんな主役なんだよ。もっとこう、胸を張って歩けって」
「十分歩いてる」
淡々と返すと、葉山はけらけら笑った。
「相変わらずだなあ、お前は。けど、今日はさすがにちょっと感慨深いだろ?」
「……まあな」
青がそう答えると、葉山は一瞬だけ目を丸くしたあと、にやりと口元を上げた。
「お、素直。珍しい」
「うるさい」
「うわ、今のうるさいはレアだな」
朝から騒がしい親友に半ば呆れながら教室へ入ると、そこもまたいつもとは違う熱気に満ちていた。教室のあちこちでスマホを向け合う生徒たち、寄せ書き用の色紙を回しているグループ、机に花や手紙を置いて話し込んでいる女子たち。
最後のホームルーム前とは思えないほど、教室は明るかった。
「青、おはよう」
聞き慣れた明るい声に視線を向ける。
黒金結愛が、自分の席からこちらを見ていた。制服のブレザーに身を包んだその姿はいつも通りなのに、今日はいつもより少しだけ柔らかく見えた。髪も丁寧に整えられていて、ほんのりと春らしい髪飾りが揺れている。
ホワイトデーの日に渡した髪留めではないが、あの日のことを思い出したせいか、青は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……おはよう」
それだけ返すと、結愛は小さく笑った。
「なにその間。もしかして、まだ先週のこと意識してる?」
「してない」
「へえー?」
からかうように目を細められ、青は無言で視線を逸らした。
していないわけではない。
だが、それを認めるのは負けた気がしたし、何より自分でもまだ整理がついていなかった。
結愛が自分にキスをしたこと。
そのときの真っ直ぐな目。
柔らかな体温。
それらが、まだ妙にはっきりと残っている。
「青、顔赤くない?」
「赤くない」
「ふふ、そっか」
結愛はそれ以上追及せず、ただ楽しそうに笑った。その笑顔を見ていると、からかわれているとわかっていても、不思議と嫌な気はしなかった。
結愛は内心、いつも通りに接することができているか、ドキドキしていた。
「青ー!」
今度は教室の後ろから女子たちの声が飛んでくる。
「あとで一緒に写真撮ってね!」
「氷凪くん、寄せ書き回していい?」
「先に帰るのなしだからねー!」
矢継ぎ早の声に、青は軽く眉を寄せた。
「……なんで俺なんだ」
ぽつりと漏らすと、葉山が隣で吹き出した。
「なんでって、自覚ゼロかよ。お前、普通に人気あるんだって」
「そうは見えない」
「見えなくてもあるんだよ。あと、生徒会副会長だし、受験でも結果出してるし、なんだかんだ面倒見いいし」
「そんなことはない」
「あるある。本人だけが知らないタイプのやつ」
葉山の言葉を聞き流しながら、青は鞄を机に置いた。
視線の先では、雪城凛花の席の周りにも、すでに何人かの女子が集まっていた。さすがに今はまだ押し寄せるほどではないが、卒業式が終わればきっと大変なことになるだろう。
凛花はいつも通り背筋を伸ばし、落ち着いた様子で後輩たちに応じていた。穏やかに微笑みながらも、品のある距離感を崩さない。その立ち姿だけで、彼女がこの学校でどれほど特別な存在だったのかがわかる。
青はほんの少しだけその姿を見つめたあと、教室を出た。
向かう先は、生徒会室だった。
## ◇
卒業式前の校舎は、どこか落ち着かなかった。廊下では在校生たちが行き交い、教室前では記念写真を撮る声が聞こえる。そんな中で、生徒会室の前だけは不思議と静かだった。
扉を開けると、そこには予想通り凛花がいた。
窓から差し込む朝の光の中で、彼女はひとり、整然とした室内を見回していた。机の上にはもう片付けられた書類の束もなく、白い光だけが静かに落ちている。
「青」
凛花がこちらに気づき、わずかに目を細めた。
「来ると思ったわ」
「なんとなくな」
「私も、なんとなく」
それだけの会話なのに、不思議と自然だった。
最初の頃なら考えられなかったかもしれない。副会長に任命されたばかりの頃は、凛花の完璧主義も、自分の無愛想さも、今よりずっと尖っていた。会話は必要最低限で、衝突こそ少なかったものの、今ほど柔らかい空気はなかった。
それでも、一緒に仕事をしていくうちに、互いのやり方を知り、無言の意味さえ読めるようになっていった。
文化祭、体育祭、日々の雑務、受験前の慌ただしさ。積み重ねてきた時間は、思っていたより長かったのだと思う。
凛花が、生徒会長席の前で足を止める。
「今日で、ここに来るのも最後ね」
「ああ」
「……青も、副会長お疲れ様」
その言い方があまりにも穏やかで、青は少しだけ目を伏せた。
「凛花こそ、会長お疲れ様」
「ありがとう」
凛花は小さく笑った。
その笑顔は、最初に見た頃の、近寄りがたい完璧美人のものではなかった。もちろん綺麗ではあるのだが、今はそこにわずかな柔らかさと、青だけが知っている不器用さが滲んでいる。
青は、生徒会室の中を見回した。
「静かだな」
「そうね。いつもなら、誰かしら来る時間なのに」
「葉山が来たら一気にうるさくなる」
「ふふ。それはたしかに」
短い冗談に、凛花がくすりと笑う。
その笑い声を聞きながら、青は思った。
こうして凛花といる時間も、もう簡単には手に入らなくなるのだろうか。
大学に進めば、毎日顔を合わせることはなくなる。気づけば隣にいる、ということもなくなる。生徒会室で並んで書類を片付けることも、くだらないことで言い合うことも、きっと今日で終わりだ。
「青」
名前を呼ばれ、視線を向ける。
凛花は少しだけ迷うような表情をしたあと、静かに口を開いた。
「その……今更だけど」
「なんだ」
「私のこと……」
そこまで言ったところで、生徒会室の扉が勢いよく開いた。
「あ、二人ともここにいたかー! 探したよ」
明るい声とともに顔を出したのは、結愛だった。
「みんな待ってるから、早く戻ろ? 卒業式始まる前に写真撮ろうって話になってるし」
途切れた言葉が、静かな室内にそのまま残る。
凛花は一瞬だけ目を伏せ、それから何事もなかったように表情を整えた。
「そうね。行きましょう」
「ああ」
青も短く返す。
けれど、凛花が何を言おうとしていたのか、その続きが気にならなかったわけではない。
結愛は二人の間に流れた一瞬の空気に気づいたようでもあり、気づかないふりをしたようでもあった。ただ明るく笑って、先に廊下へ出る。
「ほらほら、置いてくよー」
凛花と青は顔を見合わせ、それから並んで部屋を出た。
最後の生徒会室は、静かなままだった。
## ◇




