第74話 卒業の日、最後の教室(2)
# 第74話 卒業の日、最後の教室
卒業式は、厳かに始まった。
体育館の床に整然と並べられた椅子。壇上に飾られた花。校歌の前奏が流れ、空気がすっと引き締まっていく。ざわついていた卒業生たちも、式が始まれば自然と背筋を伸ばした。
青は列の中で前を向いたまま、静かに息を整える。
こういう場の空気は嫌いではない。無駄な私語もなく、誰もが今日だけは同じ方向を向いている。その感覚は、少しだけ心地よかった。
卒業証書授与が始まり、名前が一人ずつ呼ばれていく。
自分の番が来て立ち上がり、壇上へ向かう。校長から証書を受け取るその一瞬、紙の重みが掌に乗った。
卒業する。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が静かに揺れた。
席へ戻る途中、視界の端で保護者席の方が見えた。そこにいる誰かの家族の姿を見て、ほんの少しだけ喉が詰まる。
陽葵に、見せたかった。
そう思った。
卒業証書を受け取る自分を見て、きっと陽葵は笑っただろう。『お兄ちゃん、やっぱりすごいね』と、少し照れたように、でも心から嬉しそうに言ったかもしれない。
その声は、もう聞けない。
けれど、胸の中に残っている。
青は前を向いた。痛みは消えない。消えなくていいのだと思った。その痛みごと、今日という日を受け取るしかない。
答辞の場面では、凛花が壇上に立った。
背筋を伸ばし、静かに原稿を読み上げる姿は、あまりにも凛としていた。言葉は飾りすぎず、それでいて確かな芯がある。支えてくれた教師や家族への感謝、共に過ごした仲間たちへの想い、これから先への決意。
体育館の空気が、彼女の声に合わせて静かに揺れていく。
青は、その横顔を見ていた。
近くにいすぎて、当たり前みたいに思っていたのかもしれない。
凛花はずっとすごい女性だった。
成績だけじゃない。責任感も、気高さも、不器用な優しさも、全部ひっくるめて、誰かの上に立つにふさわしい人だった。
気づかなかったわけではない。
ただ、あまりにも近くにいたから、改めて見上げることがなかっただけだ。
式が終わる頃には、体育館の中にどこかほっとしたような、そして少しだけ寂しいような空気が広がっていた。
## ◇
教室へ戻ると、最後のホームルームが始まった。
如月雫は、教壇の前に立ち、しばらくの間クラス全員を見渡していた。いつもはクールな担任が、今日はほんの少しだけ柔らかな表情をしている。
「卒業、おめでとう」
その一言から始まった言葉は、短いのに不思議と胸に残った。
「この一年、いろいろあったわね。楽しかったことも、苦しかったことも、上手くいかなかったことも、たぶん人それぞれあったと思う。でも、今日こうして全員が卒業の日を迎えられたことを、まず誇りに思ってほしいわ」
教室が静かになる。
「進学する人も、別の道へ進む人も、これから先、簡単なことばかりじゃないと思う。でも、あなたたちはここまでちゃんと頑張ってきた。それは、きっとこれからも自分を支えてくれる」
少しだけ間を置いて、雫は微笑んだ。
「担任として、あなたたちを受け持ててよかったわ」
その言葉に、教室のあちこちから小さな鼻をすする音が聞こえた。葉山ですら、珍しく騒がず前を向いている。
青もまた、静かに雫を見ていた。
この人にも、どれだけ支えられてきただろうと思う。陽葵のこと。受験のこと。自分では抱えきれなかったものを、雫は決して踏み込みすぎず、それでも確かに支えてくれていた。
雫の視線が、一瞬だけ青の方へ向いた。
言葉はない。
けれど、その目が何かを語っている気がした。
よくここまで来たわね。
そんなふうに言われたような気がして、青は小さく目を伏せた。
ホームルームが終わると、教室の空気は一気に崩れた。
「写真撮ろう!」
「先生も入ってー!」
「寄せ書きまだの人こっち来て!」
結愛が中心になって大きく手を叩く。
「ほらみんな、最後なんだからちゃんと集まって! 青も端っこ行こうとしない!」
「行ってない」
「行こうとしてた」
「してない」
「してたってば。凛花ちゃんもこっち!」
結愛に腕を引かれ、凛花まで輪の中に引き込まれる。凛花は少し困ったようにしながらも、最後には観念したように小さく笑った。
そのまま、クラス全員で記念写真を撮る。
シャッター音が鳴るたびに、誰かが笑って、誰かが泣きそうな顔になる。
青もその輪の中に立ちながら、妙な感覚を覚えていた。
この一枚は、二度と撮れない。
同じ教室も、同じ制服も、同じ肩書きも、今日で終わる。ここにいる全員が、この先は別々の道へ進んでいく。
そして、その写真の中に陽葵はいない。
けれど、青は思った。
いないからといって、自分の時間まで止めてはいけないのだと。
今日ここに立っている自分を、陽葵はきっと否定しない。
## ◇
ホームルームと写真撮影が一段落すると、校内は卒業生と在校生でさらに賑やかになった。
廊下に出た途端、凛花の周りにはあっという間に人だかりができた。
「雪城先輩、写真お願いします!」
「生徒会長、ずっと憧れてました!」
「これ、よかったら受け取ってください!」
後輩たちに囲まれ、凛花は少しだけ困ったような顔をしながらも、一人ひとりに丁寧に応じている。雑にあしらうことは決してしない。その姿まで含めて、きっと彼女は憧れの存在なのだろう。
青は少し離れた場所からそれを見ていた。
「なに?」
隣に立った結愛が、青の顔を覗き込む。
「凛花が気になる?」
「いや……凛花の人気、すごいな」
「そりゃあそうでしょ」
結愛は胸を張るように言った。
「会長だし、ミスコン優勝者だし、オーロラ姫だし、美人だし、モテモテでしょ。早くしないと、誰かに取られちゃうかもよ?」
からかうような口調だったが、その奥にわずかな探る色があることに、青は気づいていた。
少しだけ黙ってから、青は凛花を見たまま口を開く。
「……近すぎて、気づかなかったけど」
「うん?」
「凛花は、すごい女性だよな」
結愛が一瞬だけ目を見開く。
その反応を見て、青は自分の言葉が思っていた以上に率直だったことに気づいた。だが、訂正する気にはなれなかった。
今のそれは、偽りのない本音だったからだ。
結愛はほんの少しだけ視線を伏せ、それから笑った。
「……そっか」
その笑い方は明るかったが、わずかな寂しさも混じっていた。
だから青は、続けた。
「けど、結愛だってそうだ」
「え?」
「ミスコン準優勝だし、いつも明るくて前向きだし、家庭的で、家族思いだし。学級委員もやってた」
「ちょ、ちょっと待って。急にどうしたの」
「事実を言っただけだ」
結愛の頬が、みるみる赤くなっていく。
青はその様子を見ながら、静かに言葉を足した。
「それに……俺は、結愛は可愛いと思う」
今度こそ、結愛は固まった。
「そ、それって……」
続きを言いかけたところで、今度は結愛の方にも後輩たちが押し寄せてきた。
「黒金先輩ー! 写真いいですか!」
「先輩、学級委員かっこよかったです!」
「明るくてずっと憧れてました!」
「え、あ、うん、いいよ!」
後輩たちに囲まれながら、結愛は一度だけ振り返った。
その顔はまだ赤かった。
青は、そんな彼女を見つめた。
結愛もまた、近くにいすぎて、当たり前のようにそこにいた。明るくて、人懐っこくて、面倒見が良くて、いつも前向きで。けれどそれは、当たり前にできることではない。
誰にでも好かれる明るさも、誰かを気遣える優しさも、家族を大切にする強さも、全部、彼女自身の魅力だった。
凛花も、結愛も、ただ近くにいた女子ではない。
自分が思っていた以上に、ずっと特別な存在だった。
## ◇




