第74話 卒業の日、最後の教室(3)
# 第74話 卒業の日、最後の教室
その場をそっと離れ、青が階段の方へ向かおうとしたときだった。
「青先輩!」
弾むような声とともに、椎名紬が駆け寄ってきた。
ひとつ下の後輩は、少し息を切らしながらも、いつものように柔らかく笑っている。
「なに先に帰ろうとしてるんですか」
「別に、まだ帰るとは言ってない」
「顔が帰る人の顔してます」
「どんな顔だ」
「こういうの苦手です、って顔です」
図星だった。
青が黙ると、紬は少し得意げに胸を張る。
「主役がなに言ってるんですか、もう」
「主役はお前ら在校生だろ」
「今日は卒業生が主役です」
「そうか」
「そうです」
紬はそう言ってから、ふっと表情を柔らかくした。
「……ひまりちゃんからの手紙、ちゃんと読みました?」
その名前が出た瞬間、青の表情も少しだけ静かになる。
「ああ」
「どうでした?」
紬の声は、軽くなかった。陽葵のことを話すときだけは、彼女もまたきちんと大切に扱ってくれる。
青は小さく息を吐き、真っ直ぐ紬を見た。
「ありがとうな」
「え?」
「あの手紙がなかったら、前に進めてなかった」
紬の目が少しだけ揺れる。
「それに、いつも陽葵に会いに行ってくれて、ありがとう」
陽葵がいなくなったあとも、紬が彼女を大切にしてくれていたことを、青は知っている。墓前に手を合わせ、手紙を託し、ひとりの友達として陽葵を想ってくれていたことを。
その事実は、青にとって救いだった。
紬は少しだけ目を潤ませたあと、慌てて笑顔を作った。
「そ、そんな、私の方こそ……ひまりちゃんにはいっぱい優しくしてもらったし」
「今度、礼をする」
「えっ」
紬の顔がぱっと明るくなる。
「それって、デートしてくれるってことですか?」
いつもの調子に戻った声に、青は少しだけ肩の力を抜いた。
「ああ。まあ、それで礼になるなら」
「やったー!」
紬は両手を小さく握って跳ねた。
「約束ですよ、青先輩!」
「ああ、わかった」
「言いましたからね? 後でやっぱりなしとかだめですからね?」
「そこまで信用ないのか」
「ちょっとだけあります」
「どっちだ」
紬がくすくす笑う。
その笑い声に、青もほんのわずかだけ口元を緩めた。
## ◇
そこへ、また別の声が飛ぶ。
「氷凪先輩!」
「写真お願いします!」
「寄せ書き、まだ書いてもらってないです!」
見ると、今度は後輩たちが青の方へ集まり始めていた。男子も女子も混ざっている。部活で関わったわけでもない、顔もよく知らない後輩までいる。
青は思わず足を止めた。
「……なんでこんなに来るんだ」
小さく呟くと、隣の紬が少し呆れたように笑う。
「だから言ったじゃないですか。青先輩、ちゃんと人気あるんですよ」
「自覚ない」
「ありえないです」
後輩の女子が、少し緊張したように前へ出てくる。
「あの、氷凪先輩。前に進路相談のとき、勉強のこと教えてくれてありがとうございました」
別の男子も頭を下げた。
「生徒会のとき、助けてもらいました。すごく憧れてました」
また別の声。
「先輩、写真、一枚だけでも……!」
青はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
その一言だけで、後輩たちの顔がぱっと明るくなる。
順番に写真を撮り、色紙を受け取り、短い言葉を交わしていく。『ありがとうございました』『大学でも頑張ってください』『忘れません』――そんな言葉が、思っていた以上に真っ直ぐ胸へ落ちてきた。
自分は、何か残せていただろうか。
陽葵を救えなかった自分に、そんなことを考える資格があるのかと、何度も思った。
けれど今、自分に向けられる後輩たちの言葉は、少なくともここで過ごした時間が無駄ではなかったのだと教えてくれている気がした。
守れなかったものはある。
取り戻せないものもある。
それでも、自分が誰かに残したものまで、なかったことにはしなくていいのかもしれない。
## ◇
ひとしきり写真や寄せ書きが落ち着いた頃、青は校舎の窓際にひとり立っていた。
外では、校門の近くでまだ多くの生徒たちが写真を撮り合っている。春の光が柔らかく差し込み、校庭の端の木々も少しだけ色づき始めていた。
見慣れた校舎。
見慣れた教室。
見慣れた廊下。
ここで過ごした時間は、今日で一区切りになる。
スマホを見ると、さっき撮った写真が何枚も並んでいた。クラス全員で撮ったもの、葉山と肩を組まれたもの、結愛に引っ張られて入った写真、凛花が控えめに笑っている一枚、紬がやたら近い距離で映り込んでいる一枚。
どれも、今日という日の証拠だった。
そこに陽葵はいない。
けれど、その不在を抱えたままでも、こうして時間は進んでいく。
青はスマホをしまい、静かに窓の外を見た。
「……終わりか」
小さく呟く。
だが、それは本当の終わりではないのだろう。
高校生活は終わる。
けれど、自分の人生は終わらない。
陽葵がいない未来を、それでも生きていかなければならない。
悲しみが消えたわけではない。
自責も、後悔も、胸の奥にまだある。
それでも。
今日、自分は卒業した。
ここまで来た。
たくさんの人に支えられて、たくさんの人に声をかけられて、ここに立っている。
生徒会室で凛花と交わした言葉。
教室で笑っていた結愛の顔。
紬の明るい声。
雫の静かな眼差し。
葉山の騒がしい笑い声。
その全部が、今の自分を作っている。
青はゆっくりと踵を返し、廊下を歩き出した。
最後の教室へ戻るために。
最後の校舎を、自分の足でちゃんと出ていくために。
春の光が、静かに差し込んでいた。




