第59話 新しい年のはじまり(2)
# 第59話 新しい年のはじまり
支度には少し時間がかかった。
青はリビングで財布と鍵を確認し、コートを出して待っていたが、陽葵の部屋からは引き出しを開ける音や、ドライヤーの微かな音がしばらく続いていた。
やがて、ドアが開く。
青は何気なく振り向いて、そのまま数秒、言葉を失った。
陽葵は、白に近い淡いグレージュのロングコートを羽織っていた。中には柔らかなクリーム色のニットワンピース。首元にはふわりとした薄桃色のマフラーを巻いていて、黒のタイツに小ぶりなショートブーツを合わせている。肩からかけた小さなベージュのバッグも含めて、全体が冬の光に溶けるようなやさしい色合いだった。
髪は毛先を少しだけ内側に整え、薄くメイクもしている。頬にほんのり血色が差していて、昨日より少しだけ大人びて見えた。
けれど、その華やかさの奥に、どこか儚さもあった。
綺麗だと、青は思った。
だがその感想を口に出す前に、陽葵がくるりと一回転する。
「どう?」
「……神社に行くだけだぞ」
「いいの。新年だもん」
「そうか」
「その反応、つまり似合ってるってことでいい?」
「自分で都合よく解釈するな」
「否定しないんだ」
陽葵は満足そうに笑った。
「お兄ちゃんも、もっとちゃんと褒める練習したほうがいいよ」
「必要ない」
「将来困るよ」
「困らない」
「彼女できないよ」
「余計なお世話だ」
玄関に向かいながら、そんなやりとりをする。
青がコートを着ると、陽葵は鏡の前で最後に前髪を整え、満足したように小さく頷いた。
その仕草ひとつひとつが、病院の陽葵ではなく、普通にお正月を迎えた女子高生そのものだった。
◇
外へ出ると、空気は澄んでいて、頬を刺すような冷たさがあった。
だが陽射しは明るく、冬の朝の街は静かな高揚感に包まれていた。少し歩けば、振袖姿の女性やスーツ姿の父親、小さな子どもを挟んで歩く家族が目に入る。晴れ着の袖が風に揺れ、どこからか甘酒の匂いまで漂ってきそうだった。
「お正月って感じ!」
陽葵が嬉しそうに言う。
「見ればわかる」
「そういうことじゃないの」
「そうか」
青は陽葵の歩幅に合わせて歩いた。昨日のショッピングモールよりも人通りは多い。神社に近づくにつれ、道幅いっぱいに人の流れができていく。
やがて鳥居が見えてくると、陽葵は目を輝かせた。
「わー、すごい人だね」
参道には長い列ができていた。屋台も並んでいる。焼きそば、たこ焼き、じゃがバター、りんご飴、綿あめ、甘酒、ベビーカステラ。香ばしい匂いと甘い匂いが入り混じり、子どもの声と店主の呼び込みがにぎやかに重なっていた。
「けど、楽しい!」
その一言に、青は少しだけ肩の力を抜く。
陽葵がこうして楽しそうに笑っている。それだけで、この初詣に来た意味はもう十分だった。
「はぐれるなよ」
青はそう言って、自然に陽葵の手を取った。
人波は想像以上に多い。肩が触れ合う距離を保たなければ、簡単にはぐれてしまう。理屈としてはそれだけだった。
だが、手を取られた陽葵は一瞬ぴたりと足を止めた。
「どうした」
「……ううん」
頬が少し赤い。
寒さのせいだけではないのだろうと、青にも何となくわかった。
陽葵は小さな声で呟く。
「はずかしい……これじゃあ、恋人みたいじゃん」
「なんか言ったか?」
「なんでもない、ばか」
言いながらも、陽葵は手を離さなかった。
青も、特に何も言わずにそのまま歩く。
柔らかな手袋越しでも、陽葵の手の冷たさは少し伝わってきた。守るように握ったその手が、確かにここにあることを、青は妙に強く意識していた。
◇
参拝の列に並ぶ。
鈴の音と、ざわめきと、時折吹き抜ける冷たい風。境内の空気は澄んでいて、神社特有の静けさが、にぎわいの中にもちゃんとあった。
ようやく賽銭箱の前にたどり着く。青と陽葵は並んで賽銭を入れ、鈴を鳴らし、手を合わせた。
青は目を閉じる。
何を願うかなんて、決まっていた。
陽葵が助かりますように。
ちゃんと笑って、また家に帰ってきますように。
それ以上の願いは、今年も要らなかった。
一方、陽葵も静かに目を閉じていた。その横顔は穏やかで、少しだけ大人びて見えた。何を願っているのか、青は聞かなかった。聞いてしまえば、その答えが怖い気もしたからだ。
参拝を終えたあと、二人はおみくじの前へ向かった。
「引くか」
「引く」
陽葵は迷いなく箱を振り、出てきた番号を巫女に伝える。青も同じように引く。
紙を受け取って広げた瞬間、陽葵が先に声を上げた。
「わっ、大吉!」
嬉しそうな声に、青は反射的にそちらを見た。陽葵は子どものように目を輝かせている。
「ほんとだな」
「見て見て、『願いごと 思うままになるでしょう』だって」
「そうか」
「お兄ちゃんは?」
青は自分の紙を見る。
そこには、はっきりとこう書かれていた。
『凶』
「……凶」
陽葵が一瞬黙る。
それから、吹き出しそうなのを必死でこらえるように唇を押さえた。
「え、ほんとに?」
「見ればわかる」
「ふふっ……ごめん、でも、お兄ちゃんらしい」
「どういう意味だ」
「なんか、年始から運が悪そうな顔してるから」
「余計なお世話だ」
青は紙を見下ろしながら、内心で小さく息をついた。
もちろん、おみくじの結果ですべてが決まるわけではない。そんなことはわかっている。わかっているが、凶と書かれた文字は妙に目に刺さった。
陽葵が大吉で、自分が凶。
その対比が、なぜだか胸の奥をざわつかせた。
「お兄ちゃんは先が思いやられるね」
「本当にそうだな」
青がぼそりと呟くと、陽葵は笑いながら自分のおみくじを大事そうにたたんだ。
「私は持って帰る」
「好きにしろ」
「お兄ちゃんは結ぶの?」
「一応な」
青は凶のおみくじを指定の場所へ結びつけた。冷たい風に紙がかさりと揺れる。その音が妙に耳に残った。
◇




