第59話 新しい年のはじまり(1)
# 第59話 新しい年のはじまり
元旦の朝は、不思議なくらい静かだった。
昨日まであれほど街を満たしていた年末の慌ただしさが、ひと晩ですっと引いている。窓の外には、よく晴れた冬の空が広がっていた。雲は薄く、空気は透き通っていて、遠くの建物の輪郭までくっきり見える。
青はいつも通りの時間に起きていた。
寝不足というほどではないが、眠りは浅かった気がする。夜中に何度か目が覚め、そのたびに廊下の先の陽葵の部屋の方へ意識が向いた。様子を見に行こうかとも思ったが、起こしてしまうのも嫌で、結局は天井を見つめて朝を待った。
それでも、今こうして台所に立っていると、胸の奥には静かな安堵があった。
陽葵が家にいる。
その事実だけで、この朝はいつもと違う意味を持っていた。
鍋の中では雑煮のだしが温まっている。鰹と昆布の匂いが、ゆっくりと部屋に広がっていく。まな板の上には、昨夜のうちに切っておいたねぎとかまぼこ。小さな重箱の代わりに使う器には、黒豆、伊達巻、数の子、栗きんとんを少しずつ詰めてある。本格的なおせちとは言えないが、二人で食べるには十分だった。
青は餅を焼きながら、ふとリビングの方を見る。
誰もいないソファ。
静かなテレビ。
昨日、陽葵が抱えたまま眠っていた白いウサギのぬいぐるみは、今はリビングにはない。きっと部屋に持って行ったのだろう。
年が明けた。
当たり前のことなのに、その当たり前が今年はやけに重く感じられた。
新しい年が来たということは、受験が近づいたということでもある。
そしてそれは、陽葵の時間もまた、容赦なく先へ進んでいるということだった。
青は雑念を振り払うように、味を確かめる。
少し薄めでいい。
陽葵が食べやすいように。
湯気の向こうで、時計の針が静かに進んでいく。
◇
しばらくして、廊下の向こうからゆっくりとした足音が聞こえた。
青が顔を上げると、陽葵が眠たそうな目をこすりながらリビングの入口に立っていた。
「……おはよう」
声にはまだ眠気が残っている。髪は少しはねていて、頬にも寝跡がうっすら残っていた。もこもこの薄いピンクのパーカーに、白っぽいルームパンツ。病院ではなかなかできない朝寝坊をしたせいか、いつもよりずっと年相応に見える。
「おはよう」
青は雑煮の鍋に火をかけたまま言った。
「朝ごはんの準備がもうすぐできるから、顔を洗っておいで」
「ふぁーい……」
返事まで眠そうで、青はわずかに口元を緩めた。
陽葵はそのまま洗面所へ向かう。ふらついているわけではないが、目覚めたばかりのゆっくりした足取りだ。家の中だからこそ見られる、無防備な姿だった。
病院にいると、朝はだいたい決まった時間に起こされる。検温や回診の都合もあるし、食事も決まった時刻に運ばれてくる。自分のペースで目を覚まして、自分の家の洗面所で顔を洗って、のんびり朝の準備をする。
そんな普通のことが、陽葵にとっては久しぶりなのだと考えると、青は胸の奥が静かに締めつけられた。
餅が焼ける香ばしい匂いが立ちのぼる。
青は皿におせちを並べ直し、箸を揃え、湯飲みに温かいお茶を入れた。
少しして、洗面所から戻ってきた陽葵が、リビングに入った瞬間、ぱっと表情を明るくした。
「わー、すごい。お正月みたい!」
テーブルの上には、小皿に盛られたおせち料理と、湯気の立つ雑煮が並んでいる。豪華というほどではない。けれど、ちゃんと「元旦の食卓」に見えるだけの温かさがあった。
青は雑煮の椀を置きながら言う。
「って、お正月だよ」
一拍おいて、陽葵が吹き出した。
「そっか。ほんとだ」
青もつられて少し笑う。
たったそれだけのやりとりなのに、部屋の空気が柔らかくなる。
陽葵は席に着いて、目の前の料理を嬉しそうに見つめていた。
「黒豆まである」
「市販のやつだけどな」
「伊達巻もある」
「それも市販だ」
「大事なのは気持ちです」
「便利な言葉だな」
「元旦は全部それで許されるの」
そう言って笑う陽葵の顔は、昨日の夜よりも少しだけ血色がよく見えた。
「いただきます」
「いただきます」
雑煮の湯気が二人の間で揺れる。
陽葵はまず一口、慎重に汁を飲んだ。それから目を丸くして、ほっとしたように笑う。
「おいしい」
「そうか」
「うん。なんか、ちゃんと家の味」
その言葉に、青は少しだけ視線を落とした。
家の味。
誰かがそう言ってくれるような料理を、自分が作れるとは思っていなかった。必要だから覚えただけだ。陽葵が食べられるものを作るために、失敗しながら覚えた味付けだ。
それでも、今こうして陽葵が嬉しそうにしているなら、それで十分だった。
「餅、熱いから気をつけろ」
「わかってる。もう子どもじゃないよ」
「昨日もソファで寝てたやつが言う台詞じゃないな」
陽葵がぴたりと箸を止める。
「……起きたらベッドだった」
「運んだ」
「やっぱり」
「風邪を引く」
「えへへ、ありがと」
「礼はいらない」
「いるの」
陽葵はそう言って、また雑煮を口に運んだ。小さく、でもちゃんとおいしそうに食べている。その姿を見るたびに、青の中の何かが少しずつほどけていく。
「来年も食べたいな」
陽葵が何気なく言った。
青の手が、一瞬だけ止まる。
「作る」
ほとんど間を置かずに、青は答えていた。
陽葵はその返事を聞いて、ふわりと微笑む。
「うん」
それだけだった。
それ以上、何も言わない。
けれど、その短いやりとりが、青の胸にはやけに深く残った。
◇
朝食のあと、陽葵はお茶を飲みながら窓の外を眺めていた。
快晴だった。雲ひとつないというほどではないが、白く薄い雲が高いところに浮かんでいるだけで、空はどこまでも青い。住宅街の道には、いつもより人影が多い。家族連れ、振袖姿の女性、小さな子どもの手を引く両親。みんな、どこか晴れやかな顔で同じ方向へ歩いている。
「初詣、行きたい」
陽葵がぽつりと言った。
青は湯飲みを置いて、そちらを見る。
「近くの神社か」
「うん。お正月っぽいこと、したい」
その言い方が、少しだけ子どもっぽくて、青はすぐに否定できなかった。
外は寒い。人も多い。体調を考えれば無理はさせたくない。けれど、今日の陽葵の顔は朝からずっと明るかった。その明るさを曇らせるのも嫌だった。
「混んでるぞ」
「わかってる」
「疲れたらすぐ帰る」
「うん」
「無理はしない」
「うん」
「ちゃんと休みながら——」
「お兄ちゃん」
陽葵が笑いを堪えるような顔で青を見た。
「まだある?」
「……ない」
「じゃあ、支度してくる」
そう言って立ち上がる陽葵の足取りは軽かった。
◇




