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星嶺高校の氷凪くんは、たぶん恋を知らない。~恋愛偏差値0のアオが、学年1位の美少女とギャルを救い救われる話~  作者: にめ
年末年始

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第58話 整いすぎた部屋(2)

# 第58話 整いすぎた部屋







 テレビの音は、やがて心地よい雑音に変わっていった。


 陽葵は最初こそ背筋を伸ばして画面を見ていたが、次第にソファの背にもたれるようになり、湯飲みをテーブルに置いたあたりからまぶたの動きがゆっくりになる。


 暖房の効いたリビング。

 風呂上がりの火照り。

 安心できる家の匂い。

 家族のいる音。


 病院では、完全に気を抜いて眠ることは難しい。夜中の巡回、機械の音、時々廊下を走る足音。消灯後の静けさはむしろ緊張を強くすることがある。


 ここにはそれがない。


 あるのはテレビの声と、台所で青が何かしている小さな音だけだった。


 陽葵はテーブルの上の、昼間取ってもらった白いウサギのぬいぐるみに手を伸ばした。抱き寄せると、思ったよりふわふわしていて、少しだけ笑ってしまう。


「……子どもっぽいかな」


 誰にも聞こえないくらいの声でそう呟く。


 でも、今日はいいかと思った。

 今日は妹で、今日は家にいて、今日は少しくらい甘えてもいい日だ。


 そう思ったところで、眠気が一気に押し寄せてきた。


 陽葵はソファに少しだけ横向きになり、ぬいぐるみを抱えたまま目を閉じる。


 テレビの光がまぶたの裏でやさしく明滅した。


「……お兄ちゃん……」


 無意識にそう呼んだあと、陽葵はそのまま眠りに落ちた。


   ◇


 青が自室から戻ってきたのは、それからしばらく後だった。


 受験用の資料を確認していたのと、年越しそばの下準備のためにレシピを見返していたら、思ったより時間が経っていた。リビングへ戻り、何気なくソファの方へ視線を向ける。


 陽葵は眠っていた。


 ソファの上で、横向きになって。

 白いウサギのぬいぐるみを抱えたまま、静かな寝息を立てている。


 青は一瞬、その場で足を止めた。


 テレビの明かりが、陽葵の頬や前髪を淡く照らしていた。風呂上がりの柔らかい髪。少しだけ開いた唇。あどけない寝顔。年相応の少女であることを思い出させる表情だった。


 そして何より、その眠り方があまりにも無防備で、青は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。


「……やれやれ」


 小さくそう言った声は、自分でも驚くほど優しかった。


 風邪を引く。起こすべきか。少し迷ったが、陽葵の寝顔を見て、やめた。せっかく安心して眠れているなら、そのまま休ませたほうがいい。


 青は静かに近づき、まずテレビの音量を下げた。それからソファの前にしゃがみ込む。


「陽葵」


 呼んでも起きない。


 呼吸は穏やかだった。顔色も、今はそこまで悪くない。青は慎重に片腕を背中へ、もう片方を膝の裏へ差し入れた。


 持ち上げた瞬間、思っていたよりもずっと軽かった。


 青の眉が、わずかに寄る。


 もちろん知っている。前より痩せていることも、筋肉が落ちていることも。腕に触れれば、骨の細さがわかる。


 それでも、こうして抱き上げたときの軽さは、知識とは別のところで青の心に突き刺さった。


 あまりにも簡単に抱き上げられてしまう。

 守るべきものが、こんなにも軽くなってしまっている。


 青はその感情に名前をつけないまま、そっと立ち上がった。


 お姫様抱っこなんて、からかわれそうな形だと思ったが、今はそれが一番安定して運べる。陽葵の頭が揺れないように、歩幅を小さくして廊下を進む。


 腕の中の陽葵は温かかった。

 シャンプーの甘い香りと、家の柔軟剤の匂いがかすかに混ざる。


 昔、熱を出した陽葵を寝室へ運んだことがあった。小学生のころ、テレビを見ながら眠ってしまって、そのまま抱えて部屋に連れて行ったこともある。


 あのときより大きくなったはずなのに、今の陽葵は、あの頃より軽い気がした。


   ◇


 陽葵の部屋のドアを足先でそっと開ける。


 暗い室内に、廊下の灯りが細く差し込んだ。


 青はベッドへ近づき、慎重に陽葵を横たえる。その動きの途中で、抱いていた白いウサギのぬいぐるみが落ちそうになり、青は片手で受け止めて枕元に置いた。


 布団をかけようとして、ふと、青は手を止めた。


 部屋の様子が、妙に整っていた。


 いや、整っているというより、整いすぎていた。


 机の上には余計なものがほとんどない。文房具はペン立てにきっちり収まり、読みかけだったはずの本も本棚にきれいに戻されている。ベッド脇に置かれていた小物類も、以前見たときより少なくなっていた。制服が掛けられている位置も、クローゼットの中も、まるで誰かに見せるために整えたかのようだった。


 生活の気配が薄い。


 それはきれい好きというだけでは片づけられない、どこか不自然な静けさだった。


「……掃除、したのか」


 青は小さく呟く。


 返事は当然ない。


 陽葵は眠ったまま、規則正しい呼吸を繰り返している。


 青は布団を肩までかけ、頬にかかった髪をそっと避けた。そのとき、陽葵の睫毛がかすかに揺れる。


「……お兄ちゃん……」


 寝言だった。


 青の手が止まる。


「ここにいる」


 起きていないとわかっていても、そう答えずにはいられなかった。


 陽葵はまた静かに息をして、すぐに深い眠りへ戻っていく。けれど青の胸には、その一言だけが長く残った。


 ここにいる。


 そう言った自分の声が、どこか祈りのように聞こえた。


   ◇


 青はしばらく、ベッド脇に立ったまま陽葵の寝顔を見ていた。


 家に帰ってこられた安堵。

 今日一日、笑って過ごせたことへの感謝。

 そして、その裏側にどうしても滲む不安。


 どれもが混ざり合って、言葉にならない。


 病院にいる陽葵を見るのとは違う。

 自分の部屋で、自分のベッドで眠っている陽葵は、あまりにも普通で、あまりにも自然だった。


 本来なら、これが当たり前のはずだったのだ。

 学校から帰ってきて、自室で着替えて、テレビを見て、眠くなったらベッドへ行く。

 そんな平凡な高校生の毎日が、なぜこんなにも尊く見えるのか。


 青は答えを知っていた。

 失うかもしれないと知ってしまっているからだ。


 だからこそ、その平凡がひどく眩しい。


 青は部屋を見回した。


 整然と並んだ本。

 きれいに畳まれたブランケット。

 机の引き出しの取っ手まで、まっすぐそろっている。


 違和感は確かにある。

 だが、その意味まではまだ掴めなかった。


 ただ、何となく胸がざわつく。

 それだけだった。


 枕元の小さな写真立てが目に入る。昔、二人で夏祭りに行ったときの写真だ。浴衣姿の陽葵が笑っていて、その隣で青は今より少しだけ幼い顔をしている。


 青は視線を写真から陽葵へ戻した。


「また、こういうの、行けるといいな」


 声に出したつもりはなかった。

 けれど静かな部屋の中で、その独り言は確かに音になっていた。


 陽葵は眠っている。

 何も答えない。


 青はようやく立ち上がり、部屋の照明を落とした。完全に暗くするのではなく、ベッド脇の小さな灯りだけを残す。夜中に目が覚めたとき、不安にならないように。


 ドアのところまで行ってから、もう一度だけ振り返る。


 ベッドで眠る陽葵。

 枕元の白いウサギ。

 整いすぎた部屋。


 年末の夜は静かだった。

 静かすぎるほどに。


 青はその景色を目に焼きつけるように見つめてから、そっとドアを閉めた。


   ◇


 リビングに戻っても、青はしばらく何も手につかなかった。


 テレビでは相変わらず賑やかな番組が流れている。芸人が大声で笑い、テロップが踊り、観客席から拍手が起こる。


 さっきまで陽葵が座っていたソファには、まだ彼女の体温が残っているような気がした。テーブルの上の白湯の湯飲みには少しだけ水分が残っていて、それが妙に寂しい。


 青はソファの前に立ち尽くしたまま、目を閉じる。


 陽葵が家にいる。

 それだけで嬉しいはずなのに、どうしてこんなに不安になるのか。


 たぶん、幸せな時間ほど脆いと、もう知ってしまっているからだ。


 青は深く息をついて、ようやくキッチンへ向かった。そばの準備をしなければならない。明日の雑煮の下ごしらえもある。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。


 ねぎを切り、鍋を出し、つゆの分量を確認する。

 規則正しい動作は、少しだけ心を落ち着かせてくれた。


 けれど、ふとした瞬間に視線は廊下の先へ向く。

 閉まったままの陽葵の部屋のドア。


 その向こうで、陽葵は今、安心して眠れているだろうか。

 ちゃんと暖かいだろうか。

 夜中に咳き込んだりしないだろうか。


 そんなことばかり考えてしまう。


「……過保護、か」


 陽葵にさっき言われた言葉を思い出して、青は小さく呟いた。


 そうかもしれない。

 だが、それでいいとも思った。


 守りたいと思うことに、理屈はいらない。


 鍋の中で湯が静かに温まり始める音がする。部屋の中には年末番組の明るい声。リビングの灯りは柔らかく、窓の外の夜は深く冷えている。


 ありふれた冬の夜。

 どこにでもあるはずの年の瀬。


 けれど青にとっては、そのひとつひとつが奇跡のようだった。


 この家で。

 この夜に。

 陽葵が眠っている。


 それだけで、十分すぎるほど幸せだった。


 だからこそ、その幸せを失う想像だけは、どうしてもしたくなかった。


 青は包丁を置き、静かに息を吐く。


 そしてもう一度、廊下の先の扉へ視線を向けた。


 整いすぎた部屋の光景が、まだ頭から離れない。


 けれど今は、その違和感の正体を考えるのをやめた。

 考えてしまえば、何かに気づいてしまいそうだったから。


 見ないふりではない。

 ただ、今日という日を壊したくなかった。


 青は再び鍋に向き直り、静かにそばの準備を始めた。


 年末の夜は更けていく。

 笑い声の絶えないテレビの向こうで、一年の終わりが近づいていた。


 その喧騒とは別の場所で、青の胸の奥には、言いようのない静かな波が寄せては返していた。


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