第58話 整いすぎた部屋(1)
第58話 整いすぎた部屋
買い物袋をキッチンに置いてから、青と陽葵はしばらく並んで中身を取り出していた。
年越しそばの麺、つゆ、ねぎ、かまぼこ。元旦用の雑煮の材料。小さなみかんの袋。ついでに買ったお菓子や、陽葵が途中で欲しがった紅白の箸置きまである。
「結局、いろいろ買っちゃったね」
陽葵は楽しそうにそう言って、かまぼこのパックを冷蔵庫へ入れた。
「予定よりは増えたな」
「でも年末って、そういうものじゃない?」
「衝動買いを正当化してるだけに聞こえる」
「違いますー。季節を楽しんでるだけですー」
口を尖らせながらも、陽葵の声は軽い。病室では聞けない、家の中でしか出ない音だった。
ひと通り片づけが終わると、二人は自然とリビングのソファへ移動した。テレビをつけると、ちょうど年末特番の派手なテロップが画面いっぱいに広がる。芸人たちが大声で笑っていて、その合間に流れるCMまでどことなく浮き足立っていた。
テーブルの上には、陽葵が買ってきたみかんの袋。暖房の効いた部屋。カーテンの向こうには、静かに冷えた冬の夜。
その全部が、青にはひどく懐かしかった。
「テレビ見てると、年末だねー」
ソファに深く座った陽葵が、膝を抱えるようにしながら言う。
「スペシャルしかやってないね」
「そうだな」
画面の中では、『今年の名場面総まとめ』と大きく表示されていた。出演者たちが賑やかに一年を振り返っている。
「何か、動画配信サービスで映画でも見るか」
青がリモコンに手を伸ばしかけると、陽葵はすぐに首を横に振った。
「ううん、テレビの方が年末っぽくて楽しい」
「そうか」
「こういう、なんでもかんでもお祭りみたいにしてる感じ、好き」
そう言って、陽葵は画面に顔を向けたまま笑う。
病院にもテレビはある。だが、あそこでは音量を気にして、時間を気にして、周りを気にして見ることになる。消灯時間もあるし、気分によって見られない日もある。
ここは違う。
笑いたければ笑っていいし、つまらなければチャンネルを変えればいい。途中でうとうとしても誰にも怒られない。
ただ家で、家族と一緒にテレビを見る。
たったそれだけのことを、陽葵は今、全身で味わっているように見えた。
「お兄ちゃん、先にお風呂入ってきなよ」
「わかった。じゃあ、お先に」
青が立ち上がろうとしたとき、陽葵が悪戯っぽく目を細めた。
「背中とか流すの必要だったら、言ってね。サービスするよ?」
青は立ち上がりかけた姿勢のまま止まり、数秒、無言になった。
「やめなさい」
「えー」
「陽葵もいい年頃なんだから」
すると陽葵は、予想どおりの反応を待っていたと言わんばかりに笑い出した。
「変なこと想像したでしょ。お兄ちゃんのえっち」
「してないって」
「どうだかー」
「入ってくる」
青はそれ以上相手にしないように浴室へ向かった。背後で陽葵がくすくす笑っている気配がする。
その笑い声が、青にはどうしようもなく嬉しかった。
◇
風呂の湯気の中に身を沈めながら、青は目を閉じた。
体は思っていたより冷えていた。外出時間はそこまで長くなかったはずなのに、気疲れもあったのだろう。肩のあたりから力が少しずつ抜けていく。
今日の陽葵は、よく笑っていた。
ショッピングモールでも、レストランでも、帰ってきてからも。
その一方で、時折ふっと陰る瞬間があったことも、青は忘れられない。
『そんなに長く待てないよ』
レストランで言われたあの一言が、まだ耳に残っていた。
主治医から聞いていることを思い出す。数値。経過。希望がないわけではないが、楽観はできない現実。
それでも青は、考えるのをやめるように湯の中で息を吐いた。
今は、今日だけは、家に帰ってこられたことを喜ぶべきなのだ。
先のことを考えすぎて、この時間を濁したくなかった。
浴室の曇った鏡を見つめながら、青はぼんやりと、明日のことを考える。
年越しそば。
元旦の雑煮。
少しでも陽葵が食べやすいように、味は薄めにした方がいいかもしれない。
そんなささやかな予定を組み立てているときだけ、未来は少しだけ普通のものになる。
風呂から上がり、タオルで髪を拭きながらリビングへ戻ると、陽葵はテレビを見ながらソファで体育座りをしていた。
「長風呂だったね」
「普通だ」
「おじいちゃんみたい」
「まだ十八だ」
「精神年齢は六十くらい」
「失礼だな」
陽葵は声を立てずに笑った。青はそれを見て、ドライヤーを取りに自室へ寄る。そのあいだにも、テレビの向こうから年末らしい大騒ぎの音が続いていた。
「じゃ、次入るね」
「のぼせるなよ」
「お兄ちゃんじゃないんだから大丈夫です」
「そうか」
陽葵は立ち上がると、リビングの隅に置いてあった着替えを抱えて洗面所へ向かった。その後ろ姿を見送りながら、青は少しだけ安堵する。少なくとも、今日ここまでは元気に過ごせている。
ドアが閉まる音がして、しばらくすると、浴室のシャワーの音が聞こえてきた。
◇
陽葵は浴室の鏡の前で、ほんの少しだけ立ち止まった。
湯気でぼやけた鏡に映る自分の姿は、以前よりも薄く見える。
肩の線。腕の細さ。鎖骨の浮き方。病院にいるあいだは見慣れてしまったはずなのに、こうして家の浴室で見ると、妙に現実味を帯びて胸に刺さった。
それでも陽葵は、鏡の前でぎゅっと一度だけ拳を握る。
「まだ、大丈夫」
誰に聞かせるでもなく、そう小さく呟いた。
今日は楽しかった。
帰ってこられた。
お兄ちゃんと買い物をして、ご飯を食べて、テレビを見ている。
なら、今はそれでいい。
そう思って、陽葵は湯を肩に流した。
◇
風呂から上がった陽葵は、部屋着に着替えていた。
淡いクリーム色のゆったりしたパーカーに、柔らかなグレーのショートパンツ。足にはもこもこのルームソックス。髪は半乾きで、毛先が少しだけしっとりしている。外出前にしていた薄いメイクも落ちて、年相応のあどけなさが戻っていた。
洗面所から出てきたその姿を、青は台所で湯を沸かしながらちらりと見た。
「髪、ちゃんと乾かせ」
「あとでやるー」
「風邪引くぞ」
「病院で散々言われてるから大丈夫」
「大丈夫に聞こえない」
「じゃああとで乾かしてー」
「自分でやれ」
「けち」
そんなやりとりをしながらも、陽葵は機嫌が良さそうだった。
ソファへ戻り、さっきまでの続きのようにテレビを見る。画面の中では今度は歌番組が始まっていて、煌びやかな照明の下で今年流行った曲が次々と披露されていた。
「この曲、病院でもよく聞いた」
「そうか」
「看護師さんが口ずさんでたの」
「流行ってるんだろ」
「お兄ちゃんって、ほんと流行に弱いよね」
「必要ないからな」
「人生損してるよ」
「別に困ってない」
青は湯飲みに白湯を入れて、ひとつを陽葵の前に置いた。
「ありがと」
「喉、冷やすな」
「お母さんみたい」
「飲まないなら下げる」
「飲みます」
陽葵は両手で湯飲みを包み、ふうっと息を吹きかけてから少しずつ飲んだ。その仕草を見て、青は無意識に肩の力を抜いていた。
年末の夜は、ゆっくりと更けていく。
時計の針が進む音は聞こえないのに、テレビの番組が切り替わるたび、時間の流れだけは確かに感じられた。
青は台所で、明日の準備としてそばつゆの材料を確認したり、買ってきたものを整理したりしていた。陽葵が手伝いたがったが、「今日はもういい」と断った。少し休ませたかったし、何より、家に帰ってきた初日くらいは何もせずにくつろいでいてほしかった。
「じゃあ、私は監督する」
「役に立たないな」
「精神的支柱です」
「自分で言うのか」
「事実です」
青は呆れたように小さく息をついたが、その口元はわずかに緩んでいた。
◇




