第57話 帰る場所(3)
# 第57話 帰る場所
食品売り場に降りるころには、二人とも少しだけいつもの調子を取り戻していた。
「じゃあ、明日の元旦の食材と、年越しそばとか買っていこう」
「今日の材料じゃなかったのか」
「外食にしたから、計画変更です」
「そうか」
「それに、お正月っぽいことしたいもん」
陽葵はかごを持ちながら、売り場の中をゆっくり歩いた。かまぼこを見て、「紅白ってだけでテンション上がるよね」と笑う。伊達巻を見て、「甘いの好き」と言う。栗きんとんの前では少し悩んで、「これは高いからまた今度」と真面目に戻した。
「また今度、か」
「うん?」
「いや、何でもない」
青はネギやつゆ、そば、雑煮用の材料を手際よくかごに入れていく。その横で陽葵は、小さなみかんの袋を手に取った。
「これ、食べたい」
「買うか」
「やった」
青から見れば、どれも些細な買い物だった。けれど陽葵は、そのひとつひとつをちゃんと嬉しそうに選んでいく。
年越しそば。
元旦の食材。
雑煮。
みかん。
どれも、特別ではない。
ただの年末の買い物だ。
それなのに、その平凡さが、どうしようもなく愛しかった。
レジを終え、袋を持ってモールを出る。夜の空気は一段と冷え込んでいた。吐く息が白く灯りに溶けていく。陽葵はさっき取ったウサギのぬいぐるみをバッグの上から大事そうに抱えながら、青の隣を歩いた。
「今日、楽しかった」
「そうか」
「うん。すごく」
青は袋を持ち直しながら、陽葵の歩く速さに合わせる。
「疲れてないか」
「ちょっとだけ。でも、いい疲れ」
「無理はするな」
「してないよ」
陽葵はそう言って、少しだけ空を見上げた。
冬の夜空は澄んでいて、街の光の向こうに小さな星がひとつ見えた。
「帰る場所があるって、いいね」
独り言のようなその言葉に、青は足を止めそうになる。
「陽葵」
「ん?」
「……また、帰ってこい」
陽葵はきょとんとして、それからふわりと笑った。
「うん」
たった一文字なのに、その返事は不思議なくらい温かかった。
しばらく歩いたあと、不意に陽葵の手が青の袖をちょんとつまんだ。
「どうした」
「はぐれるとやだから」
「子どもか」
「今日は妹です」
「いつも妹だろ」
「そうでした」
陽葵は笑って、そのまま少しだけ青に寄った。
昔、小さいころに手をつないで歩いたことを思い出す。買い物帰り、眠そうにしながら青の腕にぶら下がってきたこともあった。
あの頃より、陽葵はずっと大人になった。
服も、化粧も、言葉も、女の子らしくなった。
けれどこうして隣にいると、青にとってはやはり、守るべき妹だった。
マンションに着き、エレベーターへ乗り込む。
閉まりかけた扉に映る二人の姿を見て、青は一瞬だけ目を細めた。
買い物袋を提げた自分。
ぬいぐるみを抱えた陽葵。
ただそれだけの、よくある年末の兄妹。
青は、その景色を忘れたくないと思った。
部屋に戻ると、陽葵は「ただいま」と小さく言った。
「……ただいま」
青も返す。
誰もいない部屋に向かって言う「おかえり」ではなく、ちゃんと帰ってきた誰かに向けて言う「ただいま」。それがこんなにも満たされる言葉だったことを、青は知らなかった。
荷物をキッチンに置き、陽葵はさっそく買ってきたみかんの袋を覗き込んだ。
「あとで一個食べよ」
「あとでな」
「はーい」
元気に返事をしてから、陽葵はふと立ち止まり、リビングの真ん中でゆっくり見回した。
ソファ。
テーブル。
カーテン。
照明。
そのどれもを、大事そうに見つめてから、陽葵は小さく言った。
「やっぱり、家っていいね」
青はその横顔を見た。
泣きそうになるのを、必死にこらえているような顔だった。
だから青は、何も聞かなかった。
代わりに、できるだけいつも通りの声で言う。
「明日、そば作る準備だけしておくか」
「うん」
「無理なら座ってろ」
「ちょっとだけ手伝う」
「ちょっとだけなら」
「ふふ。お兄ちゃん、すぐ過保護」
「普通だ」
「普通じゃないよ」
そう言って笑う陽葵の頬は、さっきより少しだけやわらかかった。
青はその笑顔を見ながら、静かに思う。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
受験も、病気も、将来も、何もかも一度忘れて、ただこうして年末の買い物をして、家に帰ってきて、明日の準備をして、笑っていられればいいのに。
けれど現実は、そんな願いを許してはくれない。
だからこそ青は、目の前のこの時間を、ひとつも取りこぼしたくなかった。
陽葵がみかんを一つ取り出して、くるくると手の中で転がす。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「今日、連れてきてくれてありがと」
「……別に」
「またそれ」
「礼を言われることじゃない」
「でも、言いたいの」
陽葵はそう言って、みかんを胸の前で抱えるように持った。
「今日、すごく幸せだった」
青は返事をしない。
言葉にしてしまうと、何かが壊れそうだった。
だから、みかんを受け取って、代わりに皮をむき始めた。
「お兄ちゃん、甘やかしすぎ」
「黙って食べろ」
「はいはい」
陽葵は笑って、青がむいたみかんを一房受け取った。
その笑顔を、青はたぶん一生忘れないだろうと思った。
年末の夜。
ようやく帰ってきた家。
隣にいる妹。
ありふれているはずの景色が、どうしようもなく尊かった。




