第57話 帰る場所(2)
# 第57話 帰る場所
外は、年末らしい賑わいに満ちていた。
ショッピングモールへ向かう道にも、買い物袋を提げた人が行き交っている。自転車の前かごにはしめ飾り。スーパーの前には箱売りのみかん。空気は冷たいのに、街そのものは不思議と温かかった。
青は陽葵の歩幅に合わせて歩いた。少しでも息が上がればすぐわかるように、気配を近くに置いておく。
「そんなに見なくても大丈夫だよ」
前を向いたまま、陽葵が言った。
「何のことだ」
「ずっと様子見てる」
「……気のせいだ」
「気のせいじゃないです」
陽葵はそう言って笑ったが、青は何も返さなかった。
本当は、見るのをやめられないだけだった。
ショッピングモールの自動ドアが開くと、暖房のぬくもりと、年末特有のにぎやかな音が一気に押し寄せてきた。館内放送、セールを告げるポップな音楽、子どものはしゃぐ声、フードコートから漂ってくる匂い。中央吹き抜けには大きな正月飾りが吊られ、赤と金の飾り紐がきらきらと揺れている。
「わあ……」
陽葵の目が、みるみるうちに輝いた。
「ひさびさ来たけど、すごいね。年末って感じ!」
「ああ」
「あ、これ欲しい。……あっ、あそこも見てみたい」
指差す先は、雑貨店、コスメショップ、洋服店、本屋。次々に視線が動く。
「わかった。三階から順番に回ろう」
「ふふ、やっぱりお兄ちゃんだ」
「効率がいい」
「そういうところ、好きだよ」
あまりにも自然に言われて、青は少しだけ足を止めた。
「……急ぐぞ」
「照れた?」
「照れてない」
「照れてる」
陽葵は小さく笑って、先に立って歩き出した。
雑貨店では、陽葵はハンカチや小物を見て回った。正月柄の可愛い箸置きを見つけて、「これ、おせちに使ったらかわいくない?」と真剣に悩む。コスメショップでは新作のリップを見て、「これ今流行ってるんだよ」と教えてくれる。青には違いがほとんどわからないが、陽葵は楽しそうだった。
「お兄ちゃん、これとこれ、どっちがいいと思う?」
「違いがわからない」
「もう」
「だが、その色のほうがいい」
「……ちゃんと見てるんじゃん」
そう言って、陽葵は少し驚いたように笑った。
本屋では、受験参考書のコーナーの前で、陽葵が足を止めた。
「まだ見ちゃうんだ」
「一応」
「お兄ちゃん、ほんとに勉強好きだよね」
「好きでやってるわけじゃない」
「でも、ちゃんと前に進もうとしてる」
陽葵は本棚の背表紙を眺めながら、静かに言った。
「それって、すごいことだよ」
青は返事をしなかった。
できなかった。
自分が前に進もうとしているのは、本当にそうしなければならないからであって、立派だからではない。けれど陽葵は、そういうところを、いつもまっすぐに認めてくれる。
ゲームコーナーの前を通りかかると、陽葵はクレーンゲームを見上げた。
「懐かしい」
「やるか」
「え、いいの?」
「一回だけなら」
「やった」
狙ったのは、小さな白いウサギのぬいぐるみだった。
「絶対それ選ぶと思った」
「かわいいもん」
「そうか」
青が操作すると、アームは頼りなく揺れて、ぬいぐるみの耳をかすめて落ちた。
「あーっ、惜しい」
「惜しくない」
「惜しかったよ。ほら、ちょっと動いたし」
「店側の調整だ」
「夢がないなあ」
結局、二回目で運よく引っかかり、ウサギは取り出し口に落ちた。
「すごい!」
「偶然だ」
「偶然でも、お兄ちゃんが取ってくれたのは事実」
陽葵は嬉しそうにぬいぐるみを抱きしめた。その姿がひどく幼く見えて、けれど今日の彼女はちゃんと大人びた服を着ていて、その両方が青の心を揺らした。
普通の時間だった。
普通の兄妹の、普通の買い物。
それがこんなにも尊いものだったのかと、青は今さら知る。
◇
夕食の材料を買うはずだったのに、気づけば時間はすっかり夜に近づいていた。
「外食にしちゃったねー」
フードコートではなく、陽葵が「せっかくだから、ちゃんとお店で食べたい」と言ったので、館内の和食レストランに入った。窓際の席に座ると、外はもう薄暗く、ガラスに館内の灯りが反射している。
「何にする」
「うーん……迷う」
「消化に良さそうなやつにしろ」
「はいはい、わかってます」
陽葵は少しむくれたふりをして、それでも最終的には胃に優しそうなうどん膳を選んだ。青は焼き魚定食にした。
料理が来るまでの間も、陽葵は楽しそうに今日見た店の話をしていた。あの雑貨、かわいかったねとか、コスメの新色がどうだとか、今度は映画も見たいなとか。次々にこぼれてくる言葉は、病室にいるときよりもずっと速くて、ずっと軽やかだった。
青はそれを黙って聞いていた。
聞きながら、こんなふうに話す陽葵を、どれだけ久しぶりに見ただろうと思っていた。
料理が運ばれてくる。
「いただきます」
「いただきます」
箸を持つ手つきは、少しだけ慎重だった。以前より食べる量は少ない。無理をしているわけではないのだろうが、それでも青にはわかってしまう。
陽葵は途中でふっと笑った。
「こうやって外で食べるの、なんか久しぶりすぎて緊張する」
「緊張するものか?」
「するよ。お店って、普通の人が普通に来る場所って感じがするから」
その言葉に、青の箸が止まった。
陽葵は慌てたように笑い直す。
「あ、変な意味じゃないよ。今日こうして来られてるから、全然いいんだけど」
「……そうか」
「うん」
少しの沈黙のあと、陽葵はだしの香りを楽しむように目を細めた。
「でも、おいしい」
「ああ」
「やっぱり家と病院以外の景色って、ちょっと特別だね」
青は答えない。
答えられない。
陽葵はそんな青を見て、柔らかく笑った。
「お兄ちゃん、今日ずっと優しい」
「いつもだ」
「ふふ、自分で言う?」
「事実だ」
「はいはい」
そして、少しだけ声をやわらげて言った。
「でもほんと。陽葵が楽しそうだからいい、って言ってくれたの、嬉しかった」
青は視線を落とした。
「本心だ」
「うん。わかってる」
それから、陽葵は箸を置いて、真っ直ぐに青を見た。
「お兄ちゃん、優しいー。陽葵のお兄ちゃんがお兄ちゃんでよかったよ」
その言葉は、あまりにまっすぐで、青は一瞬息を忘れた。
「……何だそれ」
「そのままの意味」
「意味が重複してる」
「細かいなあ」
陽葵は笑った。
けれどその目は、少しだけ潤んでいるようにも見えた。
青はそれをごまかすように水を飲んだ。
照れたからではない。
もちろん、それも少しはあった。
だがそれ以上に、その言葉が、まるで別れ際の挨拶のように聞こえてしまったことが怖かった。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「前にも言ったけどさ」
「ああ」
「早く彼女、紹介してよね」
青は顔を上げる。
陽葵はいたずらっぽく笑っていた。けれど、その次の言葉で、青の心は鋭く冷えた。
「私、そんなに長く待てないよ」
食器の触れ合う音も、店内の話し声も、その瞬間だけ遠くなった気がした。
「そういうことは、冗談でも言うな」
思ったより強い声が出た。
陽葵の肩が、わずかに揺れる。
「あ……ごめん」
青はすぐに自分の失敗を理解した。
怒りたかったわけじゃない。ただ、怖かったのだ。その言葉を聞くことが。口にされることが。
陽葵は視線を落として、小さく息をついた。
「ごめん……けど、最近、調子よくなくて……」
その声は、さっきまでの明るさを少しだけ失っていた。
青は唇を結ぶ。
主治医から聞いている。数値も、検査結果も、順調とは言えないことも。回復に時間がかかっていることも。たぶん、陽葵自身も、自分の体の変化をわかっている。
それでも。
「主治医から、俺も聞いてる」
青はできるだけ静かに言った。
「けど、きっと治るから」
陽葵は何も言わなかった。
ほんの少しだけ、目が潤んで、それから笑おうとした。
でも笑いきれず、唇が震えた。
「……うん」
その一言が、痛いほど細い。
青は席を立ちかけた。やめた。今ここで何を言っても、きれいな言葉にはならないとわかってしまったからだ。
陽葵は自分の目元を指先でそっと拭って、それから無理にでも明るい声を作った。
「こんな話やだ、行こう!」
青は数秒遅れて、頷く。
「ああ」
会計を済ませて店を出るまでのあいだ、陽葵はもう泣かなかった。
それが青には余計に苦しかった。
◇




