第57話 帰る場所(1)
# 第57話 帰る場所
年末の空気は、どこか特別だった。
病院の正面玄関を出た瞬間、頬に触れた冷たい風に、青は思わず目を細めた。吐いた息が白くほどけていく。その隣で、陽葵もマフラーに口元をうずめながら、小さく肩をすくめている。
「さむ……でも、なんか気持ちいい」
そう言って笑う陽葵の声は、病室で聞くときより、少しだけ弾んでいた。
数日の外出許可。
主治医からそれを聞かされたとき、青は表情を変えなかった。変えなかったつもりだった。けれど内心では、息をつくことさえ怖かった。喜んでしまえば、何かが壊れてしまう気がしたからだ。
それでも、今日こうして陽葵が病院の外にいて、隣を歩いている。
ただそれだけのことが、青には奇跡のように思えた。
タクシーの後部座席で、陽葵は窓の外をずっと眺めていた。
「お店、だいぶお正月っぽくなってるね」
「そうだな」
「ほんと、もう年末なんだ……」
ガラス越しに流れていく街並みには、門松の飾りや赤白のポスターが増えていた。ショッピングセンターの外壁には『歳末セール』の文字。コンビニの前には鏡餅の予約広告。病院にいると、季節は窓の向こうで進んでいく。けれど外に出ると、ちゃんと時間が流れていたことを思い知らされる。
陽葵は窓に映る自分の顔を少しだけ気にして、前髪を整えた。今日の彼女は、病院から出るために用意した私服を着ていた。淡いアイボリーのタートルニットに、くすんだ水色のロングスカート。その上から、少し大きめのベージュのコートを羽織っている。首元には薄いグレーのマフラー。手には小さな手袋。全体にやわらかな色でまとめられたその姿は、冬の光の中でひどく繊細に見えた。
病室で見るパジャマ姿とも、検査着とも違う。
ちゃんと外へ出るための、ひとりの女の子の服装だった。
「変じゃない?」
視線に気づいたのか、陽葵が尋ねる。
「別に」
「その『別に』は褒めてないときのやつだよ」
「……似合ってる」
「ふふ、ありがと」
陽葵は満足そうに笑って、また窓の外へ目を向けた。
その笑顔を見て、青はそれ以上何も言えなくなる。
マンションに着くまでの短い時間でさえ、青は何度も横目で陽葵を見た。無理をしていないか。息は上がっていないか。顔色は悪くないか。そんなことばかりが気になった。
だが、陽葵は気づかないふりをしているのか、本当に気づいていないのか、ずっと穏やかだった。
◇
マンションの前に立った陽葵は、見慣れているはずの建物をしばらく見上げていた。
「どうした」
「ううん……ただ、帰ってきたなって」
そう言って、少しだけ細めた目には、懐かしさと、嬉しさと、ほんのわずかな寂しさが混ざっているように見えた。
エレベーターに乗り、部屋の前まで来る。
青が鍵を差し込むと、陽葵はその手元をじっと見ていた。
「……開けるぞ」
「うん」
扉が開く。
いつもの玄関。
見慣れた靴箱。
やや乾いた部屋の空気。
それなのに、その瞬間だけは、青にとっても初めて帰る場所のように感じられた。
陽葵は一歩、ゆっくりと中へ入った。靴を脱いで、廊下を見渡す。リビングのドア、洗面所、奥へ続く自室の方。ひとつひとつを確かめるように視線を向けていく。
「なんか、久しぶり」
「ああ」
その一言に、青は短く答えるしかなかった。
陽葵はふっと笑って、床のあたりを見た。
「お兄ちゃん、こまめに掃除してるのね」
「いや、陽葵が帰ってくるから、昨日、慌てて掃除した」
「もう、定期的に掃除しておかないとダメだよ」
「悪い。以後、気をつけます」
「よろしい」
そう言って笑う表情が、あまりにも自然で、青は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
両親がいなくなってから、この部屋で二人で暮らしてきた。朝食を作る音も、テレビの音も、テスト勉強のための静けさも、風邪を引いたときの看病も、全部この部屋にあった。
けれど陽葵が入院してからは、その半分がごっそり消えていた。
部屋はきれいでも、生活は整っていても、空気だけがどうしようもなく足りなかった。
陽葵がいるだけで、家が家に戻る。
青はそのことを、痛いほど思い知らされた。
「ちょっと、自分の部屋見てくるね」
「わかった。無理するな」
「掃除してないところあったら怒るからね」
「……できるだけ覚悟しておく」
陽葵はくすくす笑って、自室の方へ歩いていった。その後ろ姿はコートの裾が小さく揺れていて、まだ少し頼りない。それでも、病院のベッドの上で見るよりずっと、生き生きとしていた。
青は荷物を置き、コートを脱ぎ、自分の部屋へ向かった。
◇
参考書を開く。
冬休みの終わりは近い。共通テスト、本番、出願、面接。頭の中で整理しなければならないことはいくらでもある。
なのに、今日は文字がほとんど入ってこなかった。
ページをめくるたび、廊下の向こうに陽葵がいることを意識する。ドアの開く音がするたびに顔を上げてしまう。水道の音がすれば、様子を見に行こうかと考える。
病院で面会するときとは違う。
同じ家の中に陽葵がいる。
それだけで、自分の呼吸まで変わってしまう気がした。
しばらくして、青はペンを置いた。
静かだ。
掃除でもしているのかと思ったが、物音はほとんどしない。少し気になったが、陽葵にだって一人になりたい時間はある。そう思って無理に集中しようとした、そのときだった。
「おにいちゃーん」
廊下から聞こえた声に、青はすぐ立ち上がった。
「なんだ?」
ドアを開けると、廊下の真ん中に陽葵が立っていた。さっきまでの服のまま、けれど少しだけ頬が赤い。
「夕ご飯、何にするの? 買いに行く?」
青は壁の時計に目をやった。
「あ……もうそんな時間か。何にする? 買ってくるよ」
「私も行きたい!」
「……外、か?」
「うん。最近の流行りとか、いろいろ見たいし」
その言葉に、青は一瞬迷った。主治医から、無理をさせないようには言われている。けれど今日は外出許可が出ている。数日の、限られた自由だ。
陽葵は青の顔を覗き込むようにして、小さく笑った。
「だめ?」
「だめじゃない」
「じゃあ行ける?」
「近くのショッピングモールなら」
「ほんと?」
「ああ。一緒に行こうか」
「うん!」
その返事は、青の予想以上に嬉しそうだった。
「じゃあ、支度してくる」
そう言って、陽葵はまた自室へ戻っていった。
青はしばらく廊下に立ったまま、そのドアが閉まる音を聞いていた。
病院にいると、陽葵はたいてい薄化粧すらしていない。けれど今の声には、何かを楽しみにしている女の子の響きがあった。
青はリビングで待ちながら、財布とスマートフォンを確認した。エコバッグも持っていくかと考えて棚を開ける。そのあいだも、陽葵の部屋からは微かな物音が続いていた。引き出しを開ける音。鏡台の前で何かしているような気配。ドライヤーではない、くしを通すような、そんな小さな音。
気づけば、青はその物音に耳を澄ませていた。
しばらくしてから、リビングの時計を見て、青は声をかける。
「陽葵、行くぞー」
「はーい」
返事のあと、数秒遅れて、陽葵の部屋のドアが開いた。
青は振り向いて、言葉を失った。
さっきまでの外出着とは違っていた。
陽葵は、淡いピンクベージュのニットワンピースに着替えていた。柔らかな素材で、体の線を拾いすぎない、ふんわりとした形。上からショート丈の白いカーディガンを羽織り、足元は黒のタイツと小さめのショートブーツ。髪は軽く内側に巻かれていて、いつもより少しだけ艶がある。頬にはほんのり血色が足され、唇にも薄い色がのっていた。肩からかけた小さなバッグまで含めて、それは「病院から一時的に出てきた患者」ではなく、年末の街へ遊びに行く、普通の高校生の女の子そのものだった。
けれど同時に、その華やかさが、青には胸に痛かった。
こんなふうに着飾って外へ出ることが、本来なら特別な出来事であるはずがなかったからだ。
「どう?」
陽葵がくるりとその場で軽く回る。
「……ちょっとショッピングモール行くだけだぞ」
「いいの。女の子はお出かけにおしゃれしたいものなの」
「そう……なのか」
「もう、乙女心をわかってないなー。だから彼女できないんだよ」
「悪かったな……」
陽葵はふふっと笑って、それから少しだけ青に近づき、顔を覗き込むようにした。
「でも、ほんとはどう? 似合ってる?」
青は視線を逸らしかけて、やめた。
「似合ってる」
「さっきよりちゃんと褒めてくれた」
「聞かれたから答えただけだ」
「そういうところだよ、お兄ちゃん」
からかう声なのに、どこか嬉しそうで、青はそれ以上言い返せなかった。
玄関で靴を履く。
陽葵がブーツのファスナーに少し手間取っているのを見て、青は黙ってしゃがんだ。
「え、いいよ、自分でできる」
「時間がかかる」
「合理主義」
「そうだな」
青がファスナーを上げると、陽葵はふっと笑って、小さく「ありがと」と呟いた。
その声は、やけに近かった。
◇




