第56話 妹と過ごすクリスマス(2)
# 第56話 妹と過ごすクリスマス
次の瞬間、顔がぱっと明るくなる。
「おいしい……!」
その言い方があまりにも素直で、青は少しだけ笑った。
「そうか」
「すごい、口の中でチョコがとろける」
「有名なパティシエが作ったそうだ」
「へぇ……やっぱ違うんだね」
もう一口。さらにもう一口。
さっき「そんな食べれない」と言っていたのに、ケーキに関してはちゃんと進むらしい。青はそれが少しだけ嬉しかった。
「お兄ちゃんも食べなよ」
「ああ」
青も自分の分を口に運ぶ。確かに美味しい。だが味以上に、向かい側で陽葵が幸せそうに食べているのを見る方が満足感は大きかった。
「ねえ」
陽葵がケーキを食べながら言う。
「昨日のプレゼント交換、どんなだったの?」
青は簡単に説明した。結愛がくじを作ったこと。紬が合格祈願セットを用意していたこと。凛花の紅茶とタンブラー。結愛がくれた手袋とマフラー。自分が凛花に渡したシャープペン。
陽葵は途中から、妙ににやにやし始めた。
「……なんだ」
「いやー」
「なんだ」
「お兄ちゃん、普通に青春してるなって」
「してない」
「してるよ」
「してない」
「してるって」
青が淡々と否定しても、陽葵は全く引かない。
「だって、女の子三人とクリスマスパーティでしょ?」
「結愛の家で、弟妹もいた」
「言い訳っぽい」
「言い訳じゃない」
陽葵が楽しそうに笑う。
「で、マフラー誰から?」
「結愛」
「今つけてるの?」
「ああ」
「へー」
その“へー”に明らかに含みがある。
「なんだ」
「別にー」
「絶対別にじゃないだろ」
「だって、お兄ちゃんが女子からマフラーもらって、ちゃんと使ってるとか、かなり珍しいし」
「実用的だからだ」
「はいはい」
そして、陽葵はさらに楽しそうに身を乗り出した。
「シャープペンは、凛花さんに?」
「……ああ」
「ふーん」
「その反応やめろ」
「お兄ちゃん、顔に出てるよ」
「出てない」
「出てる」
青は無言でケーキを食べた。
陽葵はそんな兄を見て、くすくすと笑っている。
たぶん、こういう時間が陽葵は好きなのだろう。病院での毎日は単調で、しかも自由が少ない。だからこそ、外の話や学校の話や、少しだけ他愛ない恋の匂いのする会話が、新鮮なのかもしれない。
青は紙袋の中から、もう一つの包みを取り出した。
「これ」
「なに?」
「クリスマスだから」
陽葵が受け取って、丁寧に包装を開ける。中には、淡い水色のヘアクリップと、小さな手帳、それから可愛い猫のついたボールペンが入っていた。
「……かわいい」
陽葵が小さく呟く。
「ほんとに?」
「ああ」
「ううん、違う。プレゼントが」
そう言ってから、少しだけ目を伏せる。
「もちろん、お兄ちゃんも」
青は返答に困った。
「……そうか」
「ふふ」
陽葵はヘアクリップを手に取って、髪に当ててみる。
「似合う?」
「似合う」
「即答だ」
「事実だろ」
陽葵は照れくさそうに笑った。
「なんかそれ、凛花さんに言ってそう」
「言ってない」
「結愛さんにも?」
「言ってない」
「紬ちゃんには?」
「言ってない」
そこで陽葵は真顔になって言う。
「お兄ちゃん、もう少し言った方がいいよ」
「何をだ」
「女の子に」
「意味がわからない」
「そのままだと、誰か泣くよ」
青は思わず眉を寄せる。
「誰かって誰だ」
「それは自分で考えてください」
陽葵はえらそうに言って、またケーキを一口食べた。
それから少しして、青は何気ない調子を装って聞いた。
「クリスマスだし、何か欲しいものあるか」
陽葵がフォークを止める。
「欲しいもの?」
「ああ」
「今からでも?」
「無理じゃない範囲なら」
陽葵は少し考えるように視線を上へ向けた。
「んー……ないかな」
そこで終わるかと思った。
だが、陽葵はぽつりと続けた。
「しいて言えば、みんなと一緒に学校行きたいけど」
青の手が止まる。
陽葵はすぐに笑おうとした。
「でも、それお兄ちゃんに言うことじゃないし」
その笑顔が、少しだけ痛い。
「……そうだな」
青は否定しなかった。
否定できなかった。
自分が医者を目指している理由は、陽葵のためだ。陽葵を助けたかったからだ。誰より近くで苦しんでいる姿を見てきたからだ。
けれど今、陽葵が欲しいと言ったものは、自分にはどうしても叶えられない。
学校に行くこと。
みんなと同じように教室で授業を受けること。
放課後に寄り道すること。
そういう、普通のこと。
医者になりたいと思った最初の理由を、今この瞬間にも突きつけられている気がした。
「紬ちゃんは頻繁に来てくれて、話し相手になってくれるし」
陽葵が明るく言う。
「だから、ほんとに大丈夫だよ」
その“だから”の前に、どれだけの寂しさがあるのか、青にはわかる。
「紬には俺からも礼を言っておく」
「うん、いっぱいお礼しておいて」
陽葵はにこっと笑った。
「紬ちゃんね、すごく優しいんだよ。お兄ちゃんの学校の話もしてくれるし、結愛さんの話とか、凛花さんの話とかもしてくれるし」
「何を話してるんだ」
「内緒」
「聞いておくべきか」
「聞かなくていい」
陽葵はそう言って楽しそうに笑ったが、そのあと、ふっと小さく咳き込んだ。
「……っ」
青の視線が鋭くなる。
「大丈夫か」
「うん、大丈夫」
「無理するな」
「してないしてない」
陽葵はすぐにそう言って、わざとらしく明るい声を出す。
「それよりさ、年末年始おうち帰れたら、何しようか」
青はまだ咳のことが気になったが、陽葵が話を変えた以上、それを追うのも違うと思った。
「何がしたい」
「こたつ」
「まだ出してない」
「出してよ」
「出す」
「みかん」
「買う」
「お雑煮」
「作る」
「お兄ちゃんの勉強を邪魔する」
「それは却下だ」
陽葵が笑う。
「即答なんだ」
「当然だ」
「でも、ちょっとならいいでしょ?」
「ちょっとなら」
「やった」
その“やった”があまりにも嬉しそうで、青は少しだけ目を細める。
昔の記憶がよみがえった。
まだ陽葵が小さかった頃、クリスマスの朝に枕元に置いたプレゼントを見つけて、目を輝かせていたこと。少し背伸びして、兄の真似ばかりしていたこと。風邪を引いて寝込んだ時でさえ、「お兄ちゃん、学校行ってきて」と笑ったこと。
陽葵は昔から、強い。
強くて、優しくて、だからこそ無理をしている。
青はそれを知っている。
知っているからこそ、なおさら守りたかった。
けれど。
「お兄ちゃん?」
呼ばれて、青は思考を戻す。
「なんだ」
「さっきから、ちょっと怖い顔してる」
青は無意識に眉を寄せていたらしい。
「してない」
「してるよ」
陽葵は少しだけ真面目な顔になった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ」
「私の前では、そんなに頑張らなくていいよ」
その言葉が、思った以上に深く刺さる。
「頑張ってない」
「うそ」
「……」
「お兄ちゃん、私の前だとすぐ平気なふりするもん」
陽葵は笑ってはいなかった。
責めるわけでもない。ただ、知っていることをそのまま口にしているだけだった。
「だって、私がお兄ちゃんのこと心配してるって変でしょ」
「変じゃない」
「でも、お兄ちゃんは私のことばっかり心配するから」
青は言葉を失う。
心配するに決まっている。
それ以外に、何をしろと言うのか。
「お兄ちゃん」
陽葵が、少しだけ困ったように、でも優しく笑う。
「ちゃんと幸せになってね」
青は眉をひそめた。
「何言ってる」
「だって、お兄ちゃん私のために頑張りすぎだから」
「そんなことない」
「あるよ」
陽葵は窓の方へ視線を向けた。
「お兄ちゃん、昔からずっとそうだもん」
病室に、やわらかい冬の光が満ちている。
その光の中で、陽葵の横顔は綺麗すぎるくらい静かだった。
「……私はね」
陽葵がぽつりと言う。
「お兄ちゃんが笑ってる方が好き」
青は返事ができなかった。
そんなのは、ずるい。
自分が医者を目指していることも、勉強を優先していることも、何もかも、結局は陽葵を守りたかったからなのに。当の本人は、それだけじゃなくて、自分の幸せまで願ってくる。
「だから」
陽葵がまた少し笑う。
「昨日、楽しかったならよかった」
その一言で、青はもう何も言えなくなった。
しばらく二人は黙っていた。
窓の外を、薄い雲が流れていく。
病室は静かで、遠くから聞こえるのは看護師たちの足音と、どこか別の部屋のテレビの音だけだった。
やがて、院内放送で面会時間の終わりが近いことを知らせるアナウンスが流れる。
陽葵が、ほんの少しだけ残念そうに口を尖らせた。
「もう?」
「また来る」
「うん」
青は立ち上がり、椅子の横に置いた鞄を持つ。
陽葵もベッドの上で姿勢を正した。
「ケーキ、ありがとう」
「ああ」
「プレゼントも」
「使ってくれ」
「もちろん」
陽葵はヘアクリップを胸元に抱えるようにして笑った。
「年末年始、楽しみにしてるね」
「準備しとく」
「こたつも」
「出しとく」
「みかんも」
「買っとく」
陽葵は満足そうに頷く。
「じゃあ、約束ね」
約束。
その言葉を聞いて、青はほんの一瞬だけ胸がざわついた。
理由はわからない。ただ、妙にその一言が重く感じられた。
「……ああ」
青はそれでも頷いた。
陽葵は嬉しそうに微笑む。
「メリークリスマス、お兄ちゃん」
青はドアの前で振り返った。
「……メリークリスマス、陽葵」
病室を出て、ドアが静かに閉まる。
廊下は来た時と同じように静かだった。
だが、胸の中だけが少し騒がしい。
青はしばらくその場に立ち尽くし、それからゆっくり歩き出した。
エレベーターを待つ間、ふと自分の首元に手をやる。そこには結愛からもらったマフラーがあって、鞄の中には参考書があって、ポケットには凛花のことを思い出させる静かな夜の余韻が残っている。
そして、一番奥には陽葵の笑顔がある。
守りたいものが、こんなにもある。
それなのに、自分にできることは、まだあまりにも少ない。
病院を出ると、空はもう夕方に傾いていた。クリスマスの街は相変わらず明るい。恋人たちや家族連れが行き交い、店先の音楽は楽しげで、どこを見ても幸せそうだった。
青はその中を一人で歩く。
不思議と孤独ではなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ痛かった。
陽葵が「学校に行きたい」と言った時の声が、何度も頭の中で繰り返される。
普通のことを、欲しいと言うこと。
それさえ、簡単じゃない。
青は歩きながら、ゆっくりと息を吐いた。
冷たい空気が肺に入る。
それでも、さっきまでいた病室の温かさは、まだ消えていなかった。
今年のクリスマスは、静かだった。
けれど、忘れられない一日になった。
青は首元のマフラーを少しだけ引き寄せ、家路についた。




