第56話 妹と過ごすクリスマス(1)
第56話 妹と過ごすクリスマス
クリスマスの朝は、ひどく静かだった。
前日の賑やかさが嘘みたいに、街は澄んだ冬の空気に包まれている。空は薄く白み、昨夜降った雪が歩道の端にまだ少しだけ残っていた。吐く息は白く、頬に触れる風は冷たい。それでも、通りのあちこちには赤や緑の飾りが残っていて、店先からはまだクリスマスソングが流れていた。
その明るい景色を横目に、氷凪青は病院へ向かっていた。
片手には小さめのケーキの箱。もう片方には紙袋。中には陽葵の好きそうな小物と、病室で暇つぶしにできそうな雑誌が入っている。肩には鞄。中にはいつもの参考書とノート。病院にいる時間も、勉強を止めるわけにはいかない。
もっとも、それを陽葵に見せるつもりはなかった。あいつは見つけたらすぐに「お兄ちゃん、勉強優先でいいのに」と言い出す。そういうところがある。
病院の自動ドアが開く。
暖房の効いた空気と、消毒液の匂いが青を迎えた。受付の横には小さなクリスマスツリーが置かれ、ナースステーションには誰がやったのかサンタ帽がひとつ引っかけられている。明るくしようとしているのはわかる。わかるが、それでもここは病院だった。
静かで、白くて、どこか時間の流れ方が違う場所。
青はエレベーターに乗り、陽葵のいる階へ向かう。
扉が開くと、窓の向こうに冬の光が差し込んでいた。廊下の先まで続く白い床。足音がやけに響く。途中、看護師が青に気づいて軽く会釈をした。
「おはようございます、氷凪くん」
「おはようございます」
「今日は早いですね」
「クリスマスなので」
青がそう答えると、看護師は少しだけ優しい目をした。
「陽葵ちゃん、朝からそわそわしてましたよ」
その一言で、青の足がわずかに速くなる。
病室の前で立ち止まり、小さく息を吐く。
ドアを二回ノックしてから開けた。
窓際のベッドに座っていた陽葵が、ぱっと顔を上げる。
「お兄ちゃん!」
その声だけで、来てよかったと思えた。
入院着の上に羽織りものをしている。髪は肩にかかるくらいまで伸びていて、窓から差し込む冬の光に透けてやわらかく見えた。顔色は前より少し白い気もするが、笑った瞬間の印象は昔と変わらない。
青はベッドの脇へ歩いていき、紙袋とケーキの箱を椅子の上に置く。
「メリークリスマス」
陽葵は一瞬目を丸くしてから、すぐに嬉しそうに笑った。
「メリークリスマス!」
その言い方があまりにも明るくて、青は少しだけ口元を緩める。
「元気そうだな」
「うん。今日はね、ちょっとだけ調子いいの」
「そうか」
「お兄ちゃんこそ、ちゃんと寝た?」
「寝た」
「ほんとに?」
「たぶん」
陽葵がくすっと笑う。
「たぶんって何それ」
青は椅子を引いて腰を下ろした。病室の中は暖かい。窓の外には白く光る冬空。ベッド脇の棚には、小さな折り紙のサンタと雪だるまが置かれていた。看護師か、あるいは陽葵が誰かと一緒に作ったのかもしれない。
「昨日は楽しかった?」
不意に陽葵がそう聞いた。
青は少しだけ間を置いた。
「……ああ」
「ほんと? どんな感じだったの?」
その目は、本当に聞きたがっていた。
青はできるだけ簡潔に話し始める。
「結愛の家でパーティだった」
「うん」
「料理が多かった。結愛がかなり作ってた」
「結愛さん、すごいね」
「乃愛と琉生もいた。騒がしかった」
「ふふ、想像できる」
「紬も来てた」
「紬ちゃん、行くって言ってたもんね」
「凛花も来た」
その名前に、陽葵がほんの少しだけ口元を上げた。
「そうなんだ」
「ああ」
「……楽しかった?」
同じことを聞いているようで、少し違う問い方だった。
青はその意味を考えすぎないようにして答える。
「楽しかった」
陽葵は嬉しそうに頷いた。
「そっか」
そして、それから少しだけ視線を落とした。
「私も……行けたらよかったな」
青は何も言えなかった。
それはたぶん、陽葵がずっと心のどこかで思っていたことだ。結愛の家に行くこと自体というより、みんなと同じように学校帰りに寄り道して、他愛ないことで笑って、クリスマスだからって少し浮かれて、そういう当たり前の高校生みたいな時間を。
「……ああ」
それしか返せない。
陽葵はすぐに顔を上げて、慌てたように笑った。
「ごめんごめん、変なこと言った。お兄ちゃん困るよね」
「困ってない」
「困ってる顔してる」
「気のせいだ」
「そういうことにしとく」
青は小さく息を吐いた。
陽葵は昔からこうだった。自分が少しでも寂しいとか、苦しいとか、そういうものを見せたあと、すぐにそれを軽くしてしまう。相手を困らせないように。心配させすぎないように。
誰に似たのかと思うが、考えるまでもなく自分ではない。
「そういえば」
空気を変えるように、陽葵が言った。
「年末年始は家に帰っていいって」
青は一瞬、言葉の意味を理解するのが遅れた。
「……外泊か」
「うん。先生が、状態見ながらだけどって」
青は目を瞬かせる。
「それはよかった」
思っていた以上に強く言葉が出た。
陽葵が少し笑う。
「うん」
「何日だ」
「まだちゃんとは決まってないけど、たぶん年末から三が日くらいまで」
「そうか」
青は頭の中で、すでに段取りを考え始めていた。部屋を片付ける。布団を干す。暖房の確認。食材の買い出し。陽葵が帰ってくるなら、できるだけ体に負担のないものを用意した方がいい。
「ご馳走、用意する」
陽葵は一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。
「そんなに気合い入れなくていいよ」
「でもせっかくだろ」
「いいよ、もうそんな食べれないし」
青の思考がそこで止まる。
陽葵はすぐに、言い過ぎたと気づいたらしい。
「あ、でも、全然食べられないわけじゃないよ? お雑煮とかは食べたいし」
「無理しなくていい」
「うん」
病室に少しだけ静かな空気が落ちた。
青は陽葵の手元を見る。指先は細い。もともと華奢だったが、最近はそれが少し際立って見える。顔色だって、さっき元気そうだと思ったのは本心だが、よく見れば前より白い。
そういう小さな変化を、青は見逃さない。
見逃せない。
「それに」
陽葵が、へにゃっと笑った。
「勉強の邪魔しないようにするね」
青は眉を寄せた。
「そんなこと気にしなくていい」
「でも、お兄ちゃん受験生だし」
「家に陽葵がいる方が、たぶん集中できる」
言ってから、少しだけ早かったと思う。
陽葵は目を丸くして、それからすごく嬉しそうに笑った。
「ほんと?」
「……たぶん」
「また“たぶん”」
笑いながらも、その表情はどこか安心したように見えた。
青は視線を逸らす。
事実だった。陽葵がいる家は、静かすぎない。少しだけ気配があって、生活の音があって、たまにくだらないことを話しかけられる。それが邪魔だと思ったことは、一度もない。
「そういえば」
青は椅子の脇に置いていたケーキの箱へ手を伸ばした。
「ケーキ、買ってきた」
陽葵の目がわかりやすく輝く。
「ほんと!?」
「ああ。少し食べるか」
「食べる!」
さっきまでの沈んだ空気が嘘みたいだった。
青は箱を開ける。中には小ぶりで洗練されたケーキが二つ並んでいた。艶のあるチョコレートのケーキと、苺とピスタチオの色が綺麗なもの。病院で食べやすいように、小さめのサイズを選んできた。
「うわ……すご」
陽葵が思わず身を乗り出す。
「おしゃれ……!」
「有名な店らしい」
「へー、どれどれ」
青は病室の小さなテーブルを引き寄せ、紙皿とフォークを取り出した。看護師に断って、病院内の休憩室で少しだけ準備もしてきた。
「用意よすぎない?」
「普通だ」
「それ、お兄ちゃん基準だよね」
青はチョコレートのケーキを陽葵の前に置く。
「こっちが好きそうだった」
「え、なんでわかったの」
「なんとなく」
陽葵はフォークを持って、そっと一口食べた。




