第55話 雪の帰り道
# 第55話 雪の帰り道
クリスマスイブの夜は、静かに更けていった。
プレゼント交換まで終わると、黒金家のリビングには、さっきまでの賑やかさがそのまま余韻として残っていた。テーブルの上には空いた皿とグラス、お菓子の袋、包装紙の切れ端。暖房の熱と料理の残り香が混じり合って、外とはまるで別世界みたいに温かい。
「ふぁぁ……」
乃愛が小さなあくびをすると、琉生もそれにつられたように目をこすった。
「眠いならもう寝なさい」
「眠くないもん……」
「その顔で言っても説得力ないって」
結愛が苦笑すると、乃愛はむうと口を尖らせたまま、それでも青の隣から離れようとしなかった。
「お兄ちゃん、まだ帰っちゃだめ」
「もう遅いからな」
「じゃあ、あと五分」
「五分って短いな」
「じゃあ十分」
「増えたな」
青がそう返すと、乃愛は少しだけ嬉しそうに笑った。
そのやり取りを見ていた紬が、頬を緩める。
「青先輩、もうすっかり人気者ですね」
「もともとお兄ちゃんは人気あるもん!」と乃愛。
「その“お兄ちゃん”はちょっと違うだろ」と琉生。
「いいの!」
「よくない!」
また兄妹喧嘩が始まりそうになって、結愛が「はいはい、そこまで」と二人の頭を軽く撫でた。
結愛は今日一日、ずっとよく動いていた。料理して、場を回して、弟妹の面倒も見て、誰かが少し黙ればすぐに声をかけていた。そういうのを全部、息をするみたいにやってしまう。
凛花もそれを見ていたのだろう。帰り支度をしながら、ふっと小さく言った。
「結愛ちゃんは、本当にすごいわね」
「え、なに急に」
「こういう場を作れるの、簡単じゃないもの」
「……まあ、今日は頑張ったかも」
結愛は照れたように鼻先を指でこする。
「でも、みんな来てくれたからだし」
言いながら、その視線がほんの一瞬、青の方へ流れたのを、凛花も紬も気づいていた気がした。
気づいていないのは、たぶん青だけだ。
「青先輩」
紬がにこにこしながら近づいてくる。
「それ、巻かないんですか?」
視線の先には、結愛にもらったマフラーがあった。青は帰る前に袋から出して持っていたが、まだ首には巻いていない。
「今巻いたら暑いだろ」
「外、寒いですよ?」
「出たら考える」
「黒金先輩、せっかくなんですから巻いてもらったらどうです?」
「え、いや、別に無理して巻かなくていいし」
そう言う結愛の声は、全然“別に”ではなかった。
紬が面白そうに目を細める。
「期待してますね」
「してないし!」
「してますよね?」
「してないってば!」
琉生がぼそっと言った。
「お姉ちゃん、さっきからずっとマフラー見てる」
「琉生」
「なに」
「あとで覚えてなさい」
「理不尽!」
笑いが起きる。
青はマフラーを一度見下ろして、それから結愛を見た。
「……じゃあ、使う」
「え」
結愛が固まる。
青はそのまま、素直にマフラーを首に巻いた。青に似合うように選ばれたのだろう。落ち着いた色合いで、想像していたよりしっくりくる。
紬が小さく拍手した。
「似合います!」
「ほんとだ」
「……まあ、悪くないかも」
結愛はそう言いながらも、明らかに嬉しそうだった。耳がまた少し赤い。
凛花がそれを見て、ふっと優しく笑う。
「似合っているわ、青」
青は一瞬だけ視線を上げた。
「そうか」
「ええ」
短いやり取りだったが、その間だけ空気が少しだけ変わった。
紬はその空気を感じ取ったらしく、むうと小さく唇を尖らせた。
「なんだか今の、ちょっとずるいです」
「何がだ」
「何でもありません」
言いながらも、紬は青のエプロン姿の時と同じような、どこか拗ねた顔をしていた。
そろそろ本当に帰る時間になり、全員がコートを着始める。
紬はもらった紅茶とタンブラーの箱を大事そうに抱えていた。
「これ、帰ったらすぐ使います」
「今から?」
「夜更かししすぎるなよ」
「青先輩、お母さんみたいです」
「違う」
「でもちょっと嬉しいです」
「……そうか」
凛花は鞄にシャープペンをしまう前に、もう一度だけ手の中で確かめるように見つめていた。その仕草が妙に丁寧で、青はなんとなく目を離しにくかった。
結愛が玄関まで見送りに出る。
「今日はほんとありがと。みんな来てくれてよかった」
「こちらこそ、ありがとう」と凛花。
「すごく楽しかったです!」と紬。
「ああ」と青。
乃愛がまた青の袖を掴む。
「お兄ちゃん、また来てね」
「ああ」
「絶対だよ?」
「わかった」
青がそう言うと、乃愛は安心したように手を離した。
紬は迎えの車が来るらしく、少し先の通りで待つことになっていた。結愛が「送ってく?」と聞いたが、紬は首を振る。
「大丈夫です。ほら、そこまでですし」
「ほんとに?」
「はい。……それに」
紬はそこで一度、青と凛花を見た。
「青先輩と凛花先輩、方向同じですよね?」
結愛もその視線の意味を察したようで、少しだけ目を細める。
「……そうだね」
青は特に何も言わなかった。凛花も同じだった。
紬はにこっと笑う。
「じゃあ、お先に失礼します。青先輩、今日はありがとうございました」
「ああ」
「凛花先輩も、また学校で」
「ええ」
「黒金先輩、弟妹ちゃんたち、おやすみなさい!」
「おやすみー!」
紬が去っていくのを見送る。
そして、自然に残ったのは、青と凛花だった。
結愛は玄関先で二人を見比べて、一瞬だけ何か言いたそうにした。けれど結局、それは口にせず、いつもの明るい笑顔を作る。
「じゃ、二人とも気をつけてね」
「ああ」
「結愛ちゃんも」
乃愛が手を振る。
「お兄ちゃん、ばいばい!」
「またねー!」
「また」
青がそう返すと、結愛の表情が少しだけ緩んだ。
扉が閉まる。
暖かい家の空気が遮られ、夜の冷たさが頬に触れた。
*
外は静かだった。
街の明かりはまだ残っているのに、さっきまでの賑やかな部屋から出てきたせいか、夜の道はひどく広く感じる。空気は澄んでいて、吐く息が白い。
並んで歩き出してもしばらくは、どちらも何も言わなかった。
沈黙が気まずいわけではない。
ただ、何を最初に言うべきか、お互い少しだけ考えていたのだろう。
やがて、凛花が小さく口を開いた。
「今日は……久しぶりに楽しかったわ」
その声は、夜の静けさの中ではいつもより柔らかく聞こえた。
「ああ」
青も短く返す。
「結愛に感謝しないとな」
「ええ。本当に」
少し間が空く。
街灯の下を通るたび、白いコートを着た凛花がやけに鮮やかに見えた。今日の凛花は学校にいる時よりずっと柔らかかった。笑う回数も多かったし、弟妹に話しかける声も優しかった。
たぶん、ああいう空気の中にいる凛花を、青は初めてちゃんと見た。
「それと」
青が続ける。
「ごめんな」
凛花が足を少しだけゆるめた。
「別に避けていたわけじゃないんだ」
凛花はすぐには返事をしなかった。
少し俯いて、それから静かに息を吐く。
「私も……ごめんなさい」
白い息が夜に溶ける。
「ちょっと、お母様には逆らえなくて」
「わかってる」
「……本当は、私だって普通に話したかったの」
「……」
「でも、どうすればいいかわからなかった」
青は前を見たまま歩く。
責めるつもりはなかった。本当にそうだ。けれど、何も感じていなかったわけでもない。
少しだけ寂しかったのだと思う。
たぶん凛花も、同じくらい。
「無理に逆らわなくていい」
「でも」
「いいんだ」
青がそう言うと、凛花は少しだけ歩幅を詰めた。
「青は、それでいいの?」
その言い方が、少しだけいつもと違った。
青が視線を向けると、凛花はほんの少しだけ身を乗り出すようにして、上目遣いでこちらを見ていた。
街灯の光が、長いまつ毛に影を落としている。
「いいの? それだけで」
近い、と思った。
ただでさえ綺麗な顔が、この距離だと妙に破壊力がある。しかも凛花は自分がどれだけ反則みたいな顔をしているのか、あまり自覚していない。
青は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……いいんだ」
それでもなんとか言葉を返す。
「今は受験に集中だ」
言い終えてから、自分の耳が少し熱いのを自覚した。
凛花はその変化を見逃さなかったらしい。
ふっと口元を緩める。
「はーい」
少しだけ拗ねたようで、でもどこか安心したような返事だった。
「なんだ、その返事」
「別に」
「別に、じゃないだろ」
「ふふ」
凛花が小さく笑う。
その笑い方が、今日はやけに近く感じた。
少し歩いたところで、凛花の視線が青の首元に向いた。
「それ、結愛ちゃんのプレゼントよね」
「ああ」
青はマフラーに軽く触れた。
「似合うと思うわ」
「そうか」
「ええ。青って、こういう落ち着いた色、似合うもの」
「……よく見てるな」
「見てるわよ」
当たり前のように言われて、青は一瞬だけ黙る。
凛花の方も、自分で言ってから少し恥ずかしくなったのか、視線を前へ戻した。
「その……変な意味じゃなくて」
「わかってる」
「そう」
「でも」
「でも?」
「今のはちょっと驚いた」
「……忘れて」
「無理だな」
青が淡々と返すと、凛花は明らかに困った顔をした。
「青、時々そういうところだけ意地が悪いわ」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないわ」
そのやり取り自体が、少し前までできなかったものだった。
自然に言葉が続くことが、青には少し不思議だった。けれど同時に、ひどくしっくりきてもいた。
凛花は鞄の持ち手を握り直しながら、今度は少しだけ小さな声で言う。
「シャープペン、本当に嬉しかった」
「そうか」
「ええ。私に合うものを、青が考えてくれたんでしょう?」
「まあ」
「……それが、嬉しいの」
凛花はまっすぐにはこちらを見なかった。
でも、その声音だけで十分だった。
青は喉の奥で小さく息をつく。
「試験で使ってくれれば、それでいい」
「使うわ。たぶん、一番大事な日に」
その言葉に、青は少しだけ視線を落とした。
嬉しい、とまでは認めたくなかったが、悪い気はしなかった。
いや、むしろかなり。
「青」
「なんだ」
「今日、マフラー巻いてくれてありがとう」
「……結愛に言え」
「もちろん言うわ。でも、私も少し嬉しかったの」
「なんでだ」
「同じ時間をちゃんと持ち帰れた感じがするから」
そういう言い方をされると、返答に困る。
青が黙っていると、凛花は少しだけ楽しそうにこちらを見た。
「また黙った」
「言うことが見つからないだけだ」
「そういうところ、青らしいわ」
「褒めてるのか」
「もちろん」
少し先に、分かれ道が見えてきた。
凛花の家へ向かうならここから先は別方向だ。
それに気づいた瞬間、会話が少しだけ静かになる。
凛花が足を止めた。
「……じゃあ、私ここで」
白いコートの裾が、冷たい風にわずかに揺れる。
青も立ち止まった。
「じゃあ、また」
自然に出た言葉だった。
けれど、その一言の重みを、二人ともわかっていた。
凛花は少しだけ目を見開いて、それからやわらかく微笑む。
「ええ、また」
その笑顔を見た瞬間、青は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
凛花は一歩、後ろへ下がる。
そして、くるりと向きを変えかけて――ふと振り返った。
「青」
「なんだ」
凛花の銀髪が、街灯の下でやわらかく光る。
「メリークリスマス」
一拍遅れて、青は答えた。
「……メリークリスマス」
凛花はそれで満足したように笑って、今度こそ歩き出した。
白い背中が少しずつ離れていく。
青は、その姿が見えなくなるまで、思っていたより長くその場に立っていた。
やがて、冷たい風が首元を撫でる。
青は結愛にもらったマフラーを少しだけ引き寄せた。
暖かかった。
凛花の「また」が耳に残っている。
結愛のマフラーの温もりも残っている。
そして、家で待っている陽葵のことも思い出す。
守りたいものが、青にはいくつもあった。
夜空を見上げると、細かな雪が静かに降っていた。
冷たい夜だった。
けれど、胸の奥にはまだ、クリスマスの温かさが残っていた。




