第4話 不登校の理由(1)
# 第4話 不登校の理由
後日の放課後。
生徒会室には、昼間とは違う静けさが満ちていた。
窓の外からは運動部の掛け声が遠く響き、夕方の柔らかな西日が部屋の奥まで差し込んでいる。昼休みや放課後直後には、生徒会の仕事でそれなりに人の出入りがあるこの部屋も、今はすっかり落ち着いていた。壁際に並んだ書類棚。整然と積まれた資料。ホワイトボードに残った今日の議題。そんなものすべてが、もう今日の役目を終えたように静まり返っている。
その中で、氷凪青は机に向かっていた。
目の前には分厚い問題集とノート、そして開きっぱなしの参考書。
医学部志望者向けの数学演習。
普通の生徒なら一問で数分は手が止まりそうな問題でも、青のシャーペンはほとんど迷わない。条件を整理し、必要な式を立て、余分な情報を切り捨てる。感情の入り込む余地のない、無駄のない手順だった。
東都大学医学部。
その目標だけが、青の中では常に最優先だ。
余計なことは考えない。
必要なことだけをやる。
それが、氷凪青のやり方だった。
静かな部屋に、紙をめくる音だけが響く。
ページを一枚めくり、次の問題に視線を落とした、その時だった。
生徒会室のドアが開いた。
「氷凪くん、雪城。少しいいかしら」
落ち着いた声が部屋に入ってくる。
顔を上げると、そこに立っていたのは担任の如月雫だった。
すらりとした体型に、後ろでまとめたピンク髪。大人びた整った顔立ちに、どこか近寄りがたい落ち着きを持つ女性教師。校内でも人気の高い先生だが、青にとってはあくまで担任以上でも以下でもない。
対面の席で書類整理をしていた雪城凛花も、すぐに顔を上げた。
「どうしましたか、先生」
「二人に少しお願いがあるの。生徒指導室まで来てもらえる?」
お願い。
教師が生徒に向ける言葉としては、少し珍しい。
青はわずかに眉を動かした。生徒会関連の話なら、この場でもできるはずだ。わざわざ生徒指導室に呼ぶということは、もう少し込み入った話なのだろう。
凛花は立ち上がる。
「何かしら……氷凪くん、行きましょ」
青はシャーペンを置き、問題集にしおりを挟んだ。
「……はい」
短く返事をして席を立つ。
如月先生を先頭に、二人は廊下へ出た。
夕方の校舎は昼間よりもずっと静かだ。窓の外ではグラウンドの端に長い影が伸び、遠くから聞こえてくる笛の音さえどこかやわらかく感じる。掃除を終えた生徒たちの姿もまばらで、廊下の空気には一日の終わり特有の緩みがあった。
歩きながら、凛花が小さく首を傾げる。
「何かしらね」
「さあ」
「もう少し興味を持てないの?」
「わからない段階で考えても、答えは増えません」
相変わらずの青らしい返しだった。
凛花は小さくため息をつく。
「そういうところ、ほんと合理的よね」
「無駄が少ないだけです」
ぶっきらぼうではあるが、喧嘩腰ではない。感情を荒立てる必要がないから、そうしないだけだ。凛花もそれはもうわかっている。
それでも、もう少しだけ柔らかく言えないのかと思う時はある。
生徒指導室の前で如月先生が立ち止まり、扉を開けた。
「入って」
二人が中へ入ると、室内には誰もいなかった。整然と並べられた机と椅子、生活指導関係の書類、壁に貼られた校則一覧。昼間なら少し張り詰めて見える空間も、放課後の静けさの中では別の顔をしていた。
如月先生は一つ息をついて椅子に座り、二人にも向かいの席を勧める。
「座って」
青と凛花が腰を下ろすと、先生は軽く指を組んだ。
「先生から二人にお願いがあるんだ」
青は黙って続きを待ち、凛花も真剣な顔になる。
如月先生は少し言葉を選ぶように視線を落としてから、静かに話し始めた。
「実はね、私の親戚の娘が二年生で、この高校に通っているんだけど……」
そこで一度、言葉が切れる。
「ちょっと最近、不登校気味でね」
凛花の表情が引き締まった。
「不登校、ですか」
「ええ」
如月先生はうなずく。
「最初は体調不良ってことになっていたんだけど、どうもそれだけじゃないみたいなの。家庭でもいろいろ気にかけてはいるんだけど、なかなか上手くいっていなくて……」
その声音には、教師としての責任感だけでなく、親戚としての心配もにじんでいた。
「それで……できればその子の問題を解決してほしいの」
青は率直に尋ねた。
「え、そういうのも生徒会の仕事なんですか」
教師の問題は教師が対応する。
少なくとも青の中では、それが自然な線引きだった。もちろん困っている人間がいれば助けること自体を否定するつもりはない。だが、生徒会の本来の役割からは少し外れているようにも思えた。
如月先生は苦笑する。
「まあ、正確には違うわね」
「でも今回は個人的なお願いもある」
先生は少しだけ肩の力を抜くように笑った。
「親戚だから、どうしても気になってね」
それから、少しだけ身を乗り出す。
「教員からの働きかけだけじゃ、逆に固くなってしまうこともあるでしょう? 同じ生徒の立場、それも信頼されやすい生徒会なら、何かわかることがあるかもしれない」
凛花はすぐにうなずいた。
「確かに、その可能性はあります」
もともと彼女はこういう役回りを嫌わない。困っている生徒がいて、自分にできることがあるなら動きたい。生徒会長という肩書きに責任感を持っているからこそ、なおさらだ。
「仕方ありませんね」
そう言いながらも、声色にはわずかな前向きさが混ざっている。
そして隣の青を見る。
「氷凪くん、さっそくその子の家に行くわよ」
(こういうの待ってましたー)
内心ではそんな声を上げていた。
生徒会長として生徒の問題に向き合う。そういう展開は、彼女の性格的に嫌いではない。むしろ少し燃える。
だが。
青は少しだけ困ったように目を伏せた。
「いや、今日は勉強が……」
勉強時間が削られる。
青にとっては、その一点が純粋に痛い。もちろん事情が事情だというのは理解できる。だが、今日やる予定だった課題がそのまま消えるわけではない。積み残しは後で自分に返ってくる。
すると如月先生が、軽い調子で言った。
「私が車で送るわ」
移動時間の問題はこれで解決、ということらしい。
凛花もすかさず続ける。
「今度わたしが教えてあげるわ」
学年一位の少女からの勉強サポート。
普通の男子生徒なら、それだけで一瞬迷うくらいの提案だろう。
しかし青は、まったく別の理由で首を振った。
「いや、大丈夫です」
凛花の表情が一瞬固まる。
「そ、そう」
(なんで断るのー!)
心の中では盛大にそう叫んでいた。
別に、自分が教えることを断られたのがショック、というわけではない。
いや、少しはショックかもしれない。
でもそれ以上に、あまりにもあっさりした拒否に調子を狂わされた。
青にとっては、「必要ないので断る」以上の意味はない。だが凛花はそこまで割り切れない。しかも彼はそれを悪気なくやるから、余計にややこしい。
如月先生はそんな二人の空気を見て、少しだけ笑いをこらえるようにしたあと、机の上のメモに住所を書いた。
「とりあえず、今日は様子だけでも見てきて。話が聞けたらそれが一番だけど、無理はしなくていいから」
「名前は?」
青が尋ねる。
「椎名紬。二年生よ」
その名前を青は短く頭の中に刻んだ。
椎名紬。
聞き覚えはない。
「わかりました」
凛花が答え、青も小さくうなずく。
話はそこで一度区切られた。
二人は荷物を取りに教室へ戻ることにする。
生徒指導室を出て廊下を歩きながら、凛花が横目で青を見る。
「乗り気じゃないのね」
「勉強の予定がずれます」
「そこなの?」
「そこです」
青は真顔で答えた。
凛花は呆れ半分、感心半分で息を吐く。
「でも、断らなかったじゃない」
「困ってるなら、見に行く必要はある」
「それ、優しさって言うのよ」
「違います」
即答だった。
「後回しにして悪化する方が面倒です」
凛花は少しだけ笑ってしまった。
「そういうことにしておくわ」
青はそれ以上何も言わなかった。
彼の中では本当にその通りなのだ。困りごとを放置して大きくさせるのは非効率だ。だから手を打つ。ただそれだけ。
本人はそう思っている。




