第3話 副会長と生徒会室(2)
廊下には夕焼けが差し込んでいた。
窓の外の校庭が、オレンジ色に染まっている。グラウンドでは運動部の掛け声が遠く響き、校舎の中には吹奏楽部の音出しがかすかに混じる。
俺と凛花は並んで歩いた。
しばらく沈黙が続く。
気まずい、というほどではない。
ただ、何を話せばいいのか分からないだけだ。
先に口を開いたのは凛花だった。
「氷凪くん」
「はい」
「副会長、引き受けてくれてありがとう」
「別に」
「助かるわ」
「雪城さん一人じゃ回らないんですか」
少しだけ率直に聞くと、凛花はまっすぐ前を向いたまま答えた。
「回らなくはないわ」
「じゃあ」
「でも、一人で全部やるより、信頼できる人がいた方がいいでしょう」
信頼できる人。
その言い方が、なぜか少しだけ引っかかった。
「俺が?」
「ええ」
凛花はそこで、ようやく少しこちらを見た。
「少なくとも、葉山くんよりは」
思わず、小さく息が抜けた。
「それは比較対象が悪いでしょう」
「そうかしら」
「そうです」
凛花はふっと笑った。
ほんの一瞬だったが、教室で見る『学年一位の雪城凛花』ではなく、年相応の女子高生の顔に見えた。
その表情の変化に気づいたのはたぶん俺だけだ。
……いや、気づいたところでどうするわけでもない。
数日後。
正式に副会長として名前が載ったあと、俺は放課後のたびに生徒会室へ顔を出すようになった。
星嶺高校の生徒会室は、想像していたよりずっとまともだった。
もっと雑然としていて、文化祭のポスターや去年の書類が山積みになっているような部屋を想像していたのだが、実際はかなり整っている。壁際にはファイル棚。窓側には長机が二つ。奥には印刷機と古いコピー機。ホワイトボードには今月の予定が几帳面な字で書かれていた。
その字が誰のものか、考えるまでもない。
「どう?」
向かいの席で書類を整理していた凛花が顔を上げた。
生徒会室に入って十分ほど。俺が参考書を開いたまま、しばらく周囲を観察していたからだろう。
「何がですか?」
「生徒会室」
「いいですね」
率直な感想だった。
「静かで」
「でしょう?」
凛花の声に、少しだけ満足そうな色が混じる。
「ここ、放課後は案外空いてるの。委員会の時期以外はそんなに人も来ないし、図書室より静かなこともあるわ」
「確かに」
図書室は利用者が多いぶん、完全な静寂とはいかない。対して生徒会室は、そもそも出入りする人間が限られている。
「参考資料も置いてあるし、過去の学校行事の書類もあるから、小論文対策にも多少は使えると思う」
「そこまで考えてたんですか」
「一応」
凛花は視線を落として、手元のファイルを整えた。
その耳が、ほんの少しだけ赤いように見えたのは気のせいかもしれない。
実際には、かなり考えていた。
氷凪青が受験にしか興味がないことは、もう分かっている。
だからこそ、その受験にとってメリットのある形でしか誘えなかった。静かな環境。内申点。資料。エアコン。ネット環境。すべて、彼が断りづらい条件を考えた結果だ。
それを本人に悟られるのは、少し悔しい。
「副会長の仕事って、具体的には何をするんですか」
俺が聞くと、凛花はすぐに会長の顔に戻った。
「普段はそんなに大したことはないわ。行事前は忙しくなるけど、今の時期は書類整理と委員会の連絡くらい。あとは会長の補佐」
「補佐」
「要するに雑務ね」
「なるほど」
「がっかりした?」
「別に」
「そう」
また静かな時間が戻る。
紙をめくる音。
シャープペンシルの先がノートに走る音。
窓の外から聞こえる運動部の掛け声も、ここまで来ると遠い。
不思議と居心地は悪くなかった。
むしろ、かなりいい。
家とも教室とも違う、余計な会話を求められない場所。
それでいて完全な一人ではない。
向かいに雪城凛花がいて、必要なときだけ言葉を交わす。
この距離感は、案外悪くないのかもしれない。
「氷凪くんって」
しばらくして、凛花がまた口を開いた。
「はい」
「家でも勉強してるの?」
「まあ」
「集中できる?」
質問の意図はよく分からない。
だが、ただの会話のきっかけなのだろうとも思う。
「問題ないです」
そう答えると、凛花は少しだけ間を置いた。
「ご家族は?」
その問いに、ほんのわずかに指先が止まる。
「妹がいます」
それだけ答えた。
凛花の表情がわずかに動く。
「そうなの?」
「はい」
そこで会話が止まる。
たぶん、普通ならもう少し続けるところなのだろう。
年齢は、とか。
仲がいいのか、とか。
どんな子なのか、とか。
けれど俺は、それ以上を自分から言う気になれなかった。
陽葵のことを話したくないわけではない。
ただ、人に聞かれて簡単に答えられることばかりでもない。
病院の白い天井や、規則正しい機械音や、無理に明るく笑う妹の顔まで一緒に浮かんでくるからだ。
凛花は少し迷うように視線を揺らしたあと、慎重に次の言葉を選んだ。
「妹さん、何歳?」
「高校です」
それだけ。
俺は再び参考書へ視線を落とした。
会話を続ける気がないのは、たぶん態度で伝わっただろう。
凛花はそこで、ようやく何かを察した。
(……あまり話したくない話題なのかしら)
無神経に踏み込んだつもりはない。
けれど、結果的にはそうなったかもしれない。
「……そう」
それ以上は聞かなかった。
代わりに、静かな空気が二人のあいだに落ちる。
気まずいわけではない。
ただ、氷凪青という人間の内側には、まだ自分が知らない、触れてはいけない領域があるのだと分かった。
それを知って、少しだけ胸がざわつく。
もっと知りたいと思う一方で、無理に近づけば遠ざかってしまいそうな気もする。
難しい人だ。
でも、だからこそ目で追ってしまうのかもしれない。
凛花がそんなことを考えていた、そのときだった。
生徒会室のドアがノックもなく開いた。
「二人とも」
如月先生だった。
いつもの落ち着いた表情だが、どこか少しだけ真面目な色が強い。
俺と凛花は同時に顔を上げた。
「ちょっと生徒指導室まで来てくれる?」
凛花が首をかしげる。
「どうしました?」
「相談があるの」
「相談?」
俺が聞き返すと、如月先生はすぐには答えなかった。
代わりに、「来れば分かるわ」とだけ言う。
それが逆に嫌な感じだった。
教師が内容をすぐに言わないときは、たいてい一言では済まない話だ。
凛花は静かに立ち上がる。
内心では、わずかに胸が高鳴っていた。
(何かしら)
(行事の相談? それともトラブル?)
会長としての責任感もある。
だがそれ以上に、氷凪と二人で何かに関わる出来事が始まる予感に、少しだけ心が動いた。
対して俺は、別の意味で気が重かった。
(勉強時間が減る予感しかしない)
椅子を引いて立ち上がる。
参考書を閉じる音が、やけに小さく響いた。
「行きましょう、氷凪くん」
凛花がそう言う。
「はい」
短く返して、俺たちは生徒会室を出た。
夕方の廊下は、少しだけ昼より静かだった。部活に向かった生徒はもう教室棟から減り、残っているのは自習室へ向かう生徒や、委員会の呼び出しを受けた生徒くらいだ。
窓ガラスに、オレンジ色の光が細長く伸びている。
その光の中を、俺と凛花は並んで歩く。
すぐ前を歩く如月先生の背中は、何か考えごとをしているように少しだけ硬かった。
凛花もそれに気づいたのか、珍しく何も話さない。
俺も話さない。
足音だけが廊下に重なる。
まだ、何が起きるのかは分からない。
けれど、この呼び出しが単なる雑務ではないことくらいは、空気で分かった。
そしてたぶん。
これが、俺たちの関係をまた少し変える。
そんな予感だけが、春の夕暮れの中に静かに沈んでいた。
高校三年の春は、まだ始まったばかりだった。




