第3話 副会長と生徒会室(1)
# 第3話 副会長と生徒会室
放課後。
最後の授業が終わると同時に、教室の空気は一気にゆるんだ。
椅子を引く音、ノートを閉じる音、鞄のファスナーを上げる音。昼間は受験生らしい緊張感をまとっていた三年A組も、授業が終わる瞬間だけは年相応の高校生に戻る。
窓の外では、春の夕陽が校舎のガラスを淡く染めていた。
俺は現代文のノートを閉じ、筆記用具を静かに揃える。
右隣では黒金結愛が大きく伸びをしていた。
「はー、終わったぁ……」
「まだ一日目だぞ」
「だからだよ。新学期初日の授業って、なんか妙に疲れるじゃん」
「気のせいだろ」
「気のせいで片づけるなー」
結愛は頬をふくらませるようにしてから、くすっと笑った。
斜め右前では、雪城凛花がきれいな動作で教科書を重ねている。無駄のない所作は見ていて妙に印象に残る。誰かに見られていることを意識して丁寧に動いている、という感じではない。たぶん、何をするにも最初からそういう人間なのだ。
真後ろから、聞き慣れた声が飛ぶ。
「青、帰るか?」
葉山颯だった。
椅子の背にもたれたまま、いつもの軽い調子で笑っている。
「今日は少し勉強してから帰る」
そう答えると、葉山はあからさまに呆れた顔をした。
「真面目すぎるだろ。新学期初日だぞ?」
「受験生だぞ」
「うわ、出た。反論の余地がないやつ」
「最初から反論するな」
「だって青と話してると、こっちの感覚がおかしいみたいになるんだよ」
「おかしいだろ」
「冷たいねえ」
結愛がそのやり取りを聞いて笑う。
「でもちょっと分かる。氷凪くんって、普通のテンションに合わせる気ないよね」
「合わせる必要あるか?」
「ないけど」
「じゃあいいだろ」
「そういうとこだよ」
また笑いが起きる。
この数時間で分かったことがある。
黒金結愛は距離の詰め方がうまい。馴れ馴れしいのとは少し違う。相手の反応を見ながら、ぎりぎり不快にならない位置へ自然に入り込んでくる。葉山ほど図々しくはないが、遠慮しすぎもしない。
たぶん、そういう人間関係の呼吸みたいなものを、本能的に分かっているんだろう。
俺にはない能力だ。
そのときだった。
教室の前方、開け放たれたドアの向こうから、如月先生の声が聞こえた。
「氷凪くん、ちょっといい?」
教室の空気が、ほんの少しだけ止まる。
呼ばれたのが俺だと分かると、何人かが反射的にこちらを見た。
葉山がにやっとする。
「お、早速呼び出し? 問題児デビュー?」
「違う」
「ほんとに?」と結愛。
「ほんとだ」
俺は席を立った。
凛花がわずかに顔を上げる。だが何も言わない。ただ、その視線だけが一瞬こちらへ向いた。
如月先生は廊下に立っていた。今日も隙のない姿勢で、夕方のやわらかい光の中にいても、どこかきりっとした輪郭を崩さない。
「生徒指導室まで来てくれる?」
「はい」
理由は聞かなかった。
聞いたところで、どうせ着けば分かる。
教室を出ると、後ろから葉山の声が追ってきた。
「青ー、戻ってきたら土産話よろしくー」
「ない」
「ある前提で言ってるんだけどなあ」
結愛の笑う声が重なった。
そのままドアが閉まる。
廊下には、放課後特有の雑多な音が満ちていた。部活へ向かう足音。遠くの教室から漏れる笑い声。階段を駆け下りる音。校内放送の試験音がどこかで短く鳴って、すぐに消える。
如月先生の少し後ろを歩きながら、俺はぼんやりと考える。
呼び出しの理由は何だろう。
提出物なら出した。授業態度も問題ない。学級委員関係の話なら、わざわざ生徒指導室まで呼ぶ必要はない。
嫌な予感はする。
たいてい、教師が「お願いがある」と言うとき、そのお願いはお願いの形をした面倒事だ。
生徒指導室へ入る。
ドアが閉まった瞬間、廊下の喧騒が少し遠くなる。
如月先生は机の向こうへ回ると、椅子に腰かけた。俺は促されるまま、手前のパイプ椅子に座る。
「そんなに構えなくていいわ」
「構えてません」
「そういうことにしておきましょう」
先生は小さく笑った。からかい半分、様子見半分の目だ。
「氷凪くんに、ちょっとお願いがあるの」
やっぱり、と思った。
「生徒会の副会長をやらないかしら」
「……え?」
一瞬、本気で聞き返した。
副会長。
つまり、生徒会役員。
頭の中で、放課後の時間割が勝手に組み替えられていく。
学級委員。
授業。
受験勉強。
家のこと。
そこへさらに、生徒会。
(勉強時間、減るな)
最初に浮かんだのはそれだった。
「なんで、俺が?」
率直に聞くと、如月先生は「正直ね」と少しだけ肩をすくめた。
「会長の推薦よ」
「会長って……」
問い返しかけた、そのときだった。
コンコン、とドアがノックされる。
先生が短く「どうぞ」と返す。
ドアが開いた。
そこに立っていたのは、予想通りの人物だった。
雪城凛花。
「失礼します」
夕方の光を背に受けたその姿は、教室で見るよりも少しだけ静かに見えた。あるいは、生徒指導室という場所のせいかもしれない。
凛花は中へ入り、ドアを閉めると、俺の方へ視線を向けた。
「氷凪くん」
「はい」
「副会長、やってみない?」
いきなり核心だった。
俺は一瞬だけ黙る。
凛花はその間を埋めるように、落ち着いた口調で続けた。
「学級委員より、内申点は高いわよ」
そこだけ妙に聞き取りやすかった。
「それに、生徒会室は静か」
俺は少し顔を上げる。
凛花は冷静な表情のまま、さらに条件を並べた。
「エアコン完備」
「インターネット完備」
「参考資料もそろってる」
「放課後も使える」
……かなりいいな。
気づけば、答えは決まっていた。
「やります」
言った瞬間、如月先生が少しだけ目を丸くした。
「決断が早い」
「条件がいいので」
「正直でよろしい」
先生は呆れたように笑う。
対して凛花は、ほんのわずかに口元をやわらげた。たぶん、他の人間が見れば気づかない程度の変化だ。
だが、さっきまでより声がほんの少し柔らかい。
「ありがとう」
俺は一つだけ確認した。
「先生。副会長をやるなら、学級委員は別の人に変わるんですか?」
すると、如月先生は一拍置いてから、申し訳なさそうに言った。
「それなんだけどね」
嫌な予感しかしない。
「すまん。両方やってくれると助かる」
「……」
心の中でだけ、盛大に叫んだ。
(なにーーーー)
表情には出さない。
出したところで結果は変わらない。
「わかりました」
「助かるわ」
如月先生は本当に助かった、という顔をした。俺が断りにくいことを知った上で、たぶん最適解としてここに呼んだのだろう。
凛花はそんな先生の横で、内心こっそり安堵していた。
(よかった……)
(断られたらどうしようかと思った)
表情はいつも通りだ。
だが、胸の奥では思っていたよりずっと素直に喜んでいる自分がいる。
同じクラス。
学級委員。
それだけでも十分近くなれた気がしていたのに、これでさらに放課後も接点ができる。
そんなことを嬉しいと思ってしまう自分に、少しだけ戸惑う。
手続きの話が終わると、俺と凛花は生徒指導室を出た。




