第7話 噂の彼氏
# 第7話 噂の彼氏
翌朝。
椎名家の前の住宅街には、まだ静かな朝の空気が残っていた。
通学時間ではあるが、この辺りは駅から少し離れているため、人通りは多くない。遠くで車が走る音と、近くの電線に止まった鳥の鳴き声だけが聞こえていた。
氷凪青は家の前で立っていた。
腕時計を見る。
約束の時間まで、あと一分。
青は特に焦る様子もなく、静かに玄関を見ていた。
すると。
ガチャ、と音を立てて玄関の扉が開いた。
制服姿の椎名紬が出てくる。
髪はきちんと整えられているが、表情には少しだけ緊張が浮かんでいた。
「おはようございます……氷凪先輩」
紬は小さく頭を下げる。
青は軽く手を上げた。
「おはよう」
それから少し考えて言う。
「青でいい」
紬は目を瞬かせた。
「え……?」
「氷凪先輩だと長い」
青は淡々と言う。
紬は少し戸惑いながら言った。
「……じゃあ、青先輩?」
「それでいい」
紬は少しだけ笑った。
昨日より、少しだけ表情が柔らかい。
しかしすぐに真剣な顔に戻る。
「あの……」
紬は少し躊躇った。
「手……繋いでもいいですか?」
青は一瞬だけ固まった。
「え?」
紬は慌てて言う。
「作戦ですよね?」
「ああ……そうか」
青は頷いた。
だが内心では思っていた。
(手を繋ぐのは聞いてない)
紬はそっと青の手を握る。
小さくて温かい手だった。
紬は少し恥ずかしそうに言う。
「すみません……緊張してて」
「大丈夫だ」
青は短く答えた。
「行くか」
「はい」
通学路を二人で歩く。
紬は青の隣を少しだけ近い距離で歩いていた。
時々、すれ違う生徒が二人を見て振り返る。
理由は単純だった。
氷凪青は星嶺高校の中でもかなり有名な存在だからだ。
学年二位の成績。
生徒会副会長。
長身で整った顔立ち。
女子からの人気も高い。
そんな青が、見知らぬ後輩と手を繋いで歩いている。
目立たないわけがない。
「ねえ、あれ氷凪先輩じゃない?」
「ほんとだ」
「え、手繋いでない?」
「彼女!?」
後ろから小声が聞こえる。
紬は小さく言った。
「なんか……見られてますね」
「そうだな」
「やっぱり手、離した方が……」
「いや」
青は言う。
「そのままでいい」
紬は少し安心した顔をした。
やがて星嶺高校の校門が見えてくる。
校門前はすでに登校してくる生徒で賑わっていた。
二人が歩くと、周囲がざわつく。
「氷凪先輩じゃん」
「隣の子だれ?」
「二年?」
「え、手繋いでる!」
その時。
「あれ……青?」
後ろから声がした。
二人が振り向く。
そこに立っていたのは黒金結愛だった。
結愛は目を丸くしている。
「え……?」
視線が青の手へ移る。
そして紬へ。
「……青?」
青は軽く手を上げた。
「おはよう」
それだけ言って歩き出す。
紬のクラスは二年生の階だ。
青と紬はそのまま校舎へ入った。
「ちょ、ちょっと待って」
結愛は慌てて後を追う。
二年生の廊下。
紬のクラスの前で、紬は立ち止まった。
教室の中からは笑い声が聞こえる。
普通の朝の教室。
けれど紬にとっては、久しぶりの場所だった。
「……怖いです」
紬が小さく言う。
手が少し震えている。
青は言った。
「深呼吸」
「……はい」
紬はゆっくり息を吸う。
そして吐く。
もう一度。
それから、紬は青の腕に軽く抱きついた。
青は少し驚く。
(距離近いな……)
しかし何も言わない。
「大丈夫だから」
青は言う。
「俺の隣で堂々としてろ」
紬はうなずいた。
教室の扉を開ける。
中にいた生徒の視線が一斉に向いた。
空気が止まる。
「え?」
「紬?」
「久しぶりじゃない?」
「てか隣、、、」
その中で一人の女子が声を上げた。
「あれー?」
クラスの中心にいる女子。
相沢だった。
「浮気女が何の用?」
相沢は笑いながら言う。
周囲の女子もくすっと笑う。
しかし。
相沢の視線が青に向いた瞬間。
顔が固まった。
「……え?」
「氷凪先輩?」
教室がざわつく。
「え、氷凪先輩?」
「なんで三年が?」
「え、あの氷凪?」
青は教室の中へ一歩入った。
「三年の氷凪だ」
静かに言う。
「紬の彼氏」
一瞬。
教室が完全に静まり返った。
「え?」
「彼氏?」
「え、氷凪先輩が?」
「マジ?」
紬は勇気を出して言う。
「私は青と付き合ってます」
「だから」
「相沢さんの彼氏に興味ありません」
女子達がざわつく。
「えー!?」
「氷凪先輩と?」
「紬すごくない?」
相沢は完全に動揺していた。
「え……ちょっと待って」
「そんな話聞いてない」
青は続ける。
「紬が迷惑をかけたなら謝る」
「でも誤解なら解いてほしい」
青は相沢を真っ直ぐ見た。
教室の空気が少し変わる。
氷凪青。
星嶺高校では知らない者がいない存在。
その青が、紬の彼氏としてここにいる。
相沢は焦った。
「え……あ……」
「ごめん」
小さく言った。
青はうなずく。
「じゃあ紬」
「クラス戻るわ」
紬は少し驚いた顔をする。
「え?」
そして小さく笑った。
「……うん」
「ありがと、青」
青は教室を出た。
その瞬間。
ドアの前に立っている人物に気づく。
黒金結愛だった。
「青……」
結愛は青を見ていた。
「彼女……いたの?」
青は一瞬だけ立ち止まる。
しかし何も言わない。
そのまま歩き出した。
結愛はその背中を見つめていた。
教室の中では紬が女子たちに囲まれていた。
「え!?氷凪先輩と付き合ってるの!?」
「いつから!?」
「どうやって付き合ったの!?」
「紬すごくない!?」
紬は少し困ったように笑う。
けれど。
教室の空気は確実に変わっていた。
さっきまでの空気とは違う。
(青先輩……すごい)
その日の放課後。
校門の前。
青が立っていた。
紬が校舎から出てくる。
「青先輩」
紬は嬉しそうに言った。
「今日、ありがとうございました」
青は言う。
「作戦通りだ」
紬は少し照れながら言った。
「……あの」
「彼氏役」
青を見る。
「もう少し続けてもいいですか?」
青は少し目を瞬かせた。
「……え?」
夕方の風が静かに吹いていた。
物語は、少しずつ次の形へ進み始めていた。




