第2話 席替えと距離(3)
黒金が目を丸くする。
「妹いるの?」
「いる」
「何歳?」
「高二」
「へえ……」
黒金の声が少しやわらかくなる。
「うちも弟と妹いるから、なんか分かるかも」
「そうか」
「氷凪くん、お兄ちゃんしてるんだ」
「別に普通だ」
「普通って言う人ほどちゃんとしてるんだよね」
「それは偏見だろ」
「でも、なんか分かる」
黒金は笑う。
その会話を、凛花は静かに聞いていた。
(妹……)
氷凪くんの家族の話。
初めて聞く情報だった。
どんな子なのだろう。似ているのだろうか。氷凪くんが気にかけるくらいだから、きっと大切にしているのだろう。
そんなことを考えてしまう自分に、凛花は少しだけ戸惑う。
まだほとんど話したこともない相手なのに、知りたいと思ってしまう。
それはたぶん、あまり合理的ではない。
けれど、そういう理屈で割り切れない感情があることくらい、凛花だって知っていた。
窓の外で、風が桜の花びらをひとひら運んでいく。
それを見たのと同じタイミングで、如月先生が教卓を軽く叩いた。
「はい、席も決まりましたね」
教室がすっと静かになる。
「では、今日から通常通り授業を始めます。三年生最初の授業だからといって手加減するつもりはありませんので、そのつもりで」
何人かが小さく息を呑む。
如月先生は淡々と、けれどどこか楽しげですらある調子で続けた。
「席替えで盛り上がる気持ちは分かります。でも、皆さんがここにいる理由はそれだけではないでしょう」
その一言で、教室の空気が引き締まる。
さっきまでのざわめきが、すっと収束していくのが分かった。
「教科書を出してください。現代文から始めます」
一斉に、鞄や机の中から教科書が取り出される。ページをめくる音、筆箱を開ける音、椅子を引き直す音。そうした小さな生活音が重なり合って、教室は授業の形へ戻っていく。
俺はすぐに教科書とノートを開いた。
右隣では黒金が急いでルーズリーフを引っ張り出し、斜め右前では凛花がすでに準備を終えて静かに黒板を見ている。後ろでは葉山が「やべ、赤ペン忘れた」と小声で言っていたが、たぶん誰かから借りるのだろう。
授業が始まる。
如月先生の板書はきれいで、説明は無駄がない。読みの間の取り方も上手い。眠くならない授業をする教師は貴重だ。
それでも、席替え直後の教室というのは、普段よりも少しだけ落ち着かない。視線の動きや気配に、どこか新しさが残っている。
黒金は授業中こそ真面目だった。ノートの取り方も丁寧で、言葉の要点を掴むのが早い。見た目で判断するとたぶん損をするタイプだ。
凛花は言うまでもなく隙がない。板書を写す速さも、先生の問いかけに反応するタイミングも正確だった。
そして、そんな二人に挟まれた……いや、正確には、右隣と斜め右前に存在を感じながら、俺はひたすら授業に集中する。
それが一番余計なことを考えなくて済む方法だった。
午前の授業が終わり、短い休み時間になる。
葉山が後ろからすぐに身を乗り出した。
「青、今の席どう?」
「普通」
「その普通、信用ならないんだよな」
「なら聞くな」
黒金が笑う。
「氷凪くん、だいたい全部普通って言うよね」
「普通だからな」
「じゃあ好きな食べ物は?」
「普通」
「絶対質問の意味分かってないでしょ」
「分かってる」
「分かったうえでそれなの?」
「そう」
葉山が腹を抱えて笑う。
「黒金さん、青との会話は諦めた方が早いかも」
「やだ、面白いもん」
「面白い判定なんだ」
黒金は肩をすくめる。
「だって、見た目めちゃくちゃ冷たいのに、ちゃんと答えてはくれるし」
「青ってそういうとこあるよね。無愛想だけど会話は切らない」
「優しいの?」
「どうだろ。たぶん性格的に、無視しきれないだけ」
余計なお世話だ。
だが、否定しづらいのも事実だった。
凛花はその会話を聞きながら、少しだけ安心していた。
氷凪が黒金にだけ特別に対応しているわけではない。ちゃんと会話しているが、特別近いわけでもない。
そのことにほっとする自分がいて、同時に、そんなことに安心してしまう自分を少しだけ可笑しく思う。
昼休みには、席替えの影響がさらに表に出た。
近くの席同士で机を寄せる者、購買へ走る者、すでに単語帳を開く者。三年A組はにぎやかすぎはしないが、静かすぎるわけでもない。特進クラス独特の、落ち着いた温度感がある。
黒金は弁当箱を開きながら、ふと俺を見た。
「氷凪くん、お昼も勉強するタイプ?」
「する日もある」
「今日は?」
「まだ決めてない」
「じゃあ今決めて」
「なんで」
「話しかけていいか分かんないから」
その言い方はあまりにもまっすぐで、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
葉山が後ろで「おお」と面白そうな声を出す。
「……別に、話しかけるくらいなら自由だろ」
そう答えると、黒金はぱっと笑った。
「よし、許可もらった」
「大げさだ」
「大事だよ。氷凪くん、静かな時間の縄張り強そうだし」
「犬か」
「たとえ上手いじゃん、葉山」
「俺言ってない」
また笑いが起きる。
斜め右前では、凛花が静かに弁当箱の包みを開いていた。会話に混ざりたいわけではない。……たぶん、そうではない。
ただ、こうして斜め後ろから聞こえてくる何気ない会話が、思っていたより心地いいことに少し驚いていた。
青の低い声。
黒金の明るい返し。
葉山の軽口。
その三つが不思議と噛み合って、クラスの春の空気を形にしている。
午後の授業が終わる頃には、新しい席の違和感はだいぶ薄れていた。
人は案外、席ひとつで簡単に慣れていく。
放課後。
終礼が終わると、教室は一気に帰り支度の音で満たされた。椅子を引く音、机を閉じる音、鞄のファスナーを上げる音。夕方の光が窓から差し込み、教室の空気を少しだけ金色に変える。
黒金は鞄を肩にかけながら、こちらを見た。
「氷凪くん、また明日ね」
「うん」
「学級委員のこと、なんかあったら言って」
「分かった」
「よし」
満足そうに笑って、黒金は真凛と一緒に教室を出ていく。
斜め右前では、凛花が静かにノートを揃えていた。帰る準備をしているだけのはずなのに、その動作一つひとつが妙に整って見える。
ふと、彼女が小さくこちらへ目を向けた。
また一瞬だけ目が合う。
けれど今度は、朝みたいにすぐ逸らされなかった。
凛花はほんのわずかに会釈して、それから立ち上がる。
俺も特に意味なく、軽く頷き返していた。
葉山がそれを見逃すはずもない。
「今の何?」
「何が」
「いやいや、雪城さんと自然にアイコンタクト成立してたけど」
「大げさだ」
「青にしては進歩だよ」
「何の」
「青春の」
「要らない」
葉山はけらけら笑った。
「でもさ、今年のクラス、絶対面白くなるって」
「そうでもないだろ」
「いや、なる。断言できる」
「根拠は」
「俺の勘」
「信用できないな」
「ひどい。でもだいたい当たるんだよ、俺の勘」
その言葉を適当に聞き流しながら、俺は窓の外を見る。
校庭の向こう、夕焼けに染まる桜の木が見えた。朝よりも花びらが少し減っている気がする。
高校三年生の春。
たった一回の席替えで人生が変わるわけじゃない。
そんなことは分かっている。
けれど。
少なくとも今日から、教室の景色は少し変わった。
右隣には、明るく距離を詰めてくる黒金結愛。
斜め右前には、話したそうで話せない雪城凛花。
後ろには、無駄に騒がしい葉山颯。
そして俺は、その真ん中で、できるだけいつも通りでいようとする。
それがどこまで通用するのかは、まだ分からない。
教室を出る直前、スマホが短く震えた。
陽葵からだった。
【お兄ちゃん、今日どうだった?】
いつもの、短くて明るいメッセージ。
俺は少しだけ考えてから、打ち込む。
【席替えした】
送る。
すぐに返事が来た。
【それ絶対なんかあったやつ】
思わず、ほんの少しだけ口元が緩む。
【別に】
そう返してスマホをしまうと、葉山が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「今、笑った?」
「気のせいだ」
「いや絶対笑った」
「帰るぞ」
「誤魔化したなー」
うるさい。
けれど、そのうるささすら、今日は少しだけ遠く感じた。
新しい席。
新しい距離。
新しい春。
高校三年生の一年は、まだ始まったばかりだった。




