第4話 不登校の理由(2)
教室に戻ると、夕方の室内にはまだ数人の生徒が残っていた。窓際では女子が二人でノートを見せ合い、後ろの席では男子が部活前の雑談をしている。黒板には誰かが消し忘れた数式が薄く残っていた。
その中に、黒金結愛の姿もあった。
机に浅く腰掛けながらスマートフォンを見ていた彼女は、二人を見るとすぐに顔を上げる。
「どうしたの? そんなに暗い顔して」
明るく軽い声。
教室の空気に自然に溶け込むような声音だった。
青は自分の席の方へ向かいながら答える。
「大丈夫だ」
結愛はすぐに頬を膨らませる。
「なにそれ」
「全然大丈夫そうに見えないんだけど」
そして、少し身を乗り出した。
「学級委員なんだから話してよ」
その言い方には、茶化し半分、気遣い半分が混ざっている。
青は一瞬だけ黙った。
話したところで困ることはない。むしろ黒金結愛は妙に顔が広い。情報が増える可能性もある。
凛花も小さくうなずいた。
「実は……」
そうして二人は、如月先生から頼まれたことを簡単に説明した。
親戚の娘。
二年生。
最近、不登校。
様子を見に行くことになった。
話を聞いた瞬間、結愛は「あー」と納得したような声を漏らした。
「それか」
青の手が止まる。
「……知ってるのか」
「うん、理由ならたぶん」
その言葉に、青の目の色が少しだけ変わった。
状況がわからないまま向かうより、事前情報がある方がいい。青にとって、それは単純に効率の問題だった。
次の瞬間、彼は結愛の方へ歩み寄っていた。
「黒金さん、教えてくれ」
勢いがつきすぎたのか、思わず結愛の両肩に手を置いてしまう。
結愛は一気に目を丸くした。
「ちょ、ちょっと!」
顔が赤くなる。
近い。近すぎる。
派手な見た目のせいでよく誤解されるが、結愛は別にこういう距離感に強いわけではない。むしろ真正面から来られると普通に困る。
青もすぐに我に返って手を離した。
「あ、ごめん……」
「早く解決したくて」
あまりにも真面目な謝り方だった。
結愛は少しだけ息を整えてから、照れを誤魔化すように口を尖らせる。
「黒金さん……じゃなくてさ」
青が首をかしげる。
「結愛でいいよ」
「学級委員長どうしだし」
軽く言ったつもりだったが、少しだけ照れも混ざっていた。
青は数秒だけ考える。
相手がそう望むなら、呼び方を変えること自体に問題はない。
「わかった」
「結愛さん、教えてください」
結愛は思わず吹き出しそうになる。
「さんもつけなくていいからね」
「距離あるじゃん、それ」
青はほんの少しだけ間を置いてから、短くうなずいた。
「……わかった」
それで十分だった。
その横で。
雪城凛花がじっと二人を見ていた。
(私も下の名前で呼ばれたい!)
そんな気持ちが胸の奥にふっと浮かび、自分で自分に驚く。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
わかっている。
わかっているのに、なぜか気になってしまう。
しかも結愛は自然にその距離に入っていくのが上手い。対して自分は、いまだに「雪城」のままだ。
別にそれで困るわけではない。
困るわけではないのだけれど。
少しだけ、ほんの少しだけ、悔しい。
結愛はその空気に薄々気づきながらも、あえて触れずに話を戻した。
「その子さ、クラスのカースト上位の女子の彼氏と仲良さそうに話してたんだって」
「それで次の日から仲間はずれみたいになったらしい」
教室の空気がわずかに静かになる。
青は少し首をかしげた。
「それで?」
結愛は肩をすくめる。
「それだけだよ?」
青の眉が寄る。
「それだけで仲間はずれ?」
「なんだそれ……」
それは飾らない本音だった。
青の中では、人間関係もある程度は原因と結果で整理される。だが今聞いた話は、どうにも釣り合いが悪い。会話をした。それだけで孤立させられる。理解しづらい構造だった。
凛花も同じように困惑していた。
「嫉妬ってこと?」
「それで不登校に?」
「私には理解できないわ」
凛花ははっきり言った。
彼女はもともと集団の中で誰かを排除するような行動を好まない。そもそも、そんな理不尽さを当然のように受け入れる感覚そのものがわからなかった。
結愛は苦笑する。
「まあ、年頃の女子は難しいのよ」
言い方は軽いが、そこには少し現実味があった。
派手な見た目と気さくな性格で上手く立ち回っている結愛だからこそ、そういう空気の怖さも知っているのかもしれない。
「くだらないって思うでしょ?」
結愛は小さく言う。
「でも、本人にとっては毎日その空気の中にいるわけだから」
「きつい時は、きついんだよ」
青は黙って聞いていた。
完全には理解できない。
だが、事実としてそういうことが起きるのなら、それを前提に考えるしかない。
感情の理屈は読めなくても、起きている現象は見える。
だったら対処法は探せる。
少しの沈黙のあと、凛花がため息をついた。
「付き合ってられないわ」
もちろん、それは紬に対してではない。そんな理由で誰かを追い込む側への率直な感想だ。
そしてそのまま青を見る。
「氷凪くん、あとは頼んだわよ」
青は目を瞬かせた。
「え、いや、ちょ……」
さすがにそれは流れが急すぎる。
「ひとりで女性の家はまずいだろ」
その指摘は真っ当だった。
相手は不登校の女子生徒。こちらは男子高校生一人。教師の依頼とはいえ、状況としてあまり褒められた形ではない。
凛花も一瞬だけ言葉に詰まる。
確かに、それはそうだ。
結愛が手を挙げた。
「あー、私付き合ってあげたいけど」
「今日はちょっと早く帰らないといけなくて……」
その言い方は申し訳なさそうだった。
青は無理に引き止める気はない。
「そうか」
短くうなずくだけに留める。
凛花は小さく息をついた。
「はあ、仕方ないわね」
覚悟を決めたような声だった。
そして青を見る。
「これは貸しだからね」
青は本当に意味がわからないという顔で首をかしげる。
「なんで、貸しになるんだ?」
一拍の沈黙。
それから、結愛が吹き出した。
「ふふっ……なにそれ」
「青、そういうとこだよ」
「そういうとこ、とは」
「そこを説明させないでよ」
結愛は笑いながら肩をすくめた。
凛花は頬が少しだけ熱くなるのを感じながら、そっぽを向く。
「別に、深い意味はないわ」
「ただ、私も付き合うってだけ」
「それを貸しって言うんですか」
「言うの」
「そうですか」
相変わらず納得していない顔だったが、これ以上追及しても意味がないと判断したのか、青はそれ以上何も言わなかった。
結愛はそんな二人を見比べて、どこか楽しそうに笑う。
「なんか、ほんと二人って面白いよね」
「そうか?」
「ええ、そうよ」
凛花が先に答え、次の瞬間、自分で少しだけ恥ずかしくなった。
結愛は机から降りながら、少しだけ真面目な声に戻る。
「でもさ、その子かなり参ってるっぽいから」
「いきなり踏み込みすぎない方がいいと思う」
青は静かにうなずいた。
「わかった」
「まずは様子を見る」
「うん、それがいい」
結愛はにこっと笑った。
「じゃ、うまくいったら教えてね」
「……必要なら」
「そこは『わかった』でいいの!」
結愛がすかさず突っ込む。
青は少しだけ考え、言い直した。
「わかった」
それで結愛は満足そうにうなずいた。
青は鞄を持ち上げ、凛花も自分の荷物をまとめる。
もう窓の外の夕焼けはだいぶ色を濃くしていた。空の端は橙から藍へ変わりはじめていて、今日という日が終わりへ向かっているのがわかる。
凛花は荷物を持ちながら、ちらりと青を見る。
相変わらず表情は淡い。
けれど、さっき結愛の肩を掴んだ時の反応を思い出すと、彼がこの件を本気で早く解決したがっているのは間違いなかった。
本人はきっと「合理的だから」とでも言うのだろう。
でも、そういう無自覚なところがずるい。
困っている人を見れば放っておけない。
なのにそれを優しさだと認めようとしない。
そんな青の在り方を、凛花は少しだけ眩しく感じていた。
結愛が二人に向かって手を振る。
「じゃ、行ってらっしゃい」
「ありがとな」
青が短く言う。
その一言に、結愛はわずかに目を丸くした。
ぶっきらぼうではあるけれど、ちゃんと礼を言う。
そういうところがまた、妙に真面目だと思う。
「どういたしまして」
少しだけ嬉しそうに、結愛は笑った。
青と凛花は教室の出口へ向かう。
廊下に出る直前、凛花がもう一度だけ振り返ると、結愛はいつもの明るい表情のまま軽く手を振っていた。
その姿を見て、凛花は自分の胸の奥にあった小さな嫉妬をそっと押し込める。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
これから向かう相手は、きっともっとずっと苦しい場所にいる。
自分は生徒会長だ。
まずはそちらを優先するべきだ。
廊下に出ると、教室のざわめきが背中の向こうへ遠ざかる。
夕方の空気は昼より少しだけ冷えていて、窓から入る風が制服の裾を揺らした。
凛花は小さく息を吐き、隣を歩く青に声をかける。
「氷凪くん」
「なんですか」
「本当に、行くのよね」
「行くんだろ」
「そうだけど」
凛花は少しだけ笑う。
「あなた、最後まで乗り気じゃない顔してたから」
青は少し考えてから答える。
「乗り気かどうかは別です」
「必要なら行きます」
その答えは、いかにも青らしかった。
凛花は小さくうなずく。
「……そういうところは、ちゃんとしてるのね」
「そうですか」
「ええ」
短い会話だった。
でも、その短さの中に、確かな信頼が少しずつ積み上がっていくのを凛花は感じていた。
放課後の校舎は静かで、二人の足音だけが長く響く。
これから向かう先で何が待っているのか、まだ誰にもわからない。
理不尽ないじめ。
理解しがたい嫉妬。
そして学校に来られなくなった二年生の少女。
それでも。
何もしないまま終わらせるつもりは、二人ともなかった。
窓の外で、夕日がゆっくりと沈んでいく。
その赤い光が廊下を長く染める中、青は一度だけ鞄を持ち直した。
凛花はそんな横顔を見て、ほんの少しだけ微笑む。
この先は簡単じゃない。
でも、行くしかない。
それが今、自分たちにできることだから。
そうして二人は、夕暮れの校舎を歩いていく。
まだ見ぬ椎名紬のもとへ向かう、その前段階として。
静かに、確かに、物語は次の場面へ進もうとしていた。




