第52話 雪が降る帰り道(1)
第52話 雪が降る帰り道
十二月に入ると、星嶺高校の空気はさらに冷たく、さらに静かになった。
朝の教室には暖房が入っているはずなのに、どこか張りつめた寒さが残っている。机の上には教科書やノートだけでなく、赤本や問題集が広がり、休み時間になっても大きな笑い声は長く続かない。誰もが口には出さないまま、受験という同じ終着点を見つめていた。
文化祭はもう遠い出来事のようだった。
十一月の面談以来、青と凛花の距離は露骨に開いていた。必要な会話はする。だが、それ以上はない。目が合っても、どちらかがすぐに逸らす。教室でも、生徒会でも、二人の間には薄いガラスの壁のようなものがある。
その壁を、一番苦しそうに見ていたのは結愛だった。
昼休み、結愛は自分の席でパンの袋を開きながら、何度も視線を前へ向けていた。窓際の凛花は単語帳を開いている。青はノートに数式を書き込んでいる。二人とも真面目に勉強しているだけに見える。けれど、以前ならそこにあった微かなやり取りすら、今は消えていた。
結愛は小さくため息をついた。
このままじゃだめだ。
そう思っているのに、面談の日のことを直接問い詰めることもできなかった。青は言わない。凛花もきっと言えない。ならば、遠回りでも三人がもう一度同じ場所に立てるきっかけを作るしかない。
そう思って、結愛はその日の休み時間、思い切って二人に声をかけた。
「ねえ、凛花ちゃん、青」
最初に反応したのは凛花だった。
「なに、結愛ちゃん」
青もペンを止めて顔を上げる。
結愛は努めて明るく笑った。
「もうすぐ期末テストじゃん? また三人でテスト勉強しない?」
一瞬、空気が止まった気がした。
以前なら、青は少し考えてから「構わない」と言い、凛花も「予定を確認するわ」と静かに頷いただろう。だが今は違った。
凛花が先に目を伏せた。
「……ごめんなさい。私、生徒会の仕事があるから」
柔らかい声だった。断るための言い訳ではなく、本当にそうなのだとわかる言い方。けれど、その一歩奥にある本当の理由も、結愛には透けて見えた。
母親の言葉。
受験に集中しろという圧力。
青と距離を置かなければならない現実。
結愛は胸の奥が少し痛くなるのを感じながら、すぐ青へ向いた。
「青は?」
青はわずかに間を置いたあと、低く答えた。
「……ごめん。俺も、ひとりで勉強したい」
結愛は笑顔のまま、ほんの一瞬だけ息を止めた。
青の言い方はそっけなかった。だが、そのそっけなさが、むしろ今の距離を守ろうとする意思のようで、余計に寂しかった。
「そっか」
結愛は努めて明るく返す。
「わかった。急に言ってごめんね」
そのまま立ち上がる。
これ以上そこにいたら、顔が崩れそうだった。
教室の後ろの扉を開けて廊下へ出る直前、結愛は振り返らなかったけれど、背中に二人の視線を感じていた。
青も凛花も、結愛の後ろ姿を見ていた。
呼び止められなかった。
青はノートの上で握ったシャープペンを静かに持ち直した。断ることが正しいと思った。今、誰かと集まれば、以前の空気を思い出してしまう。そうなれば、自分はきっと今の距離を保てなくなる。それが凛花を困らせるかもしれない。そう考えた。
けれど、結愛の「そっか」が思っていたよりずっと寂しそうで、胸の奥に小さな痛みが残った。
凛花もまた、単語帳の同じページを見たまま動けずにいた。
断るしかなかった。
そうしなければいけないと思った。
なのに、結愛の背中はあまりにも小さく見えて、申し訳なさで喉が詰まりそうになる。
「……ごめんなさい」
誰にも聞こえない声で、凛花は呟いた。
期末テストまでの日々は、あっという間に過ぎていった。
教室には問題を解く音だけが響き、放課後になると誰もが急ぎ足で帰っていく。空は早く暗くなり、窓の外は午後五時にはもう夜みたいだった。
期末テスト本番も、ひどく静かだった。
問題用紙が配られる音。
ページをめくる音。
誰かがシャープペンを置く小さな音。
青は淡々と解き進めた。
凛花も、教室の前方で静かにペンを走らせている。
結愛も集中していたが、ときおり前を向くたびに、二人の距離がまだ埋まっていないことを思い知らされた。
結局、試験期間中も三人の空気は変わらなかった。
そして期末テストが終わり、教室に少しだけ解放感が戻る頃には、冬休みは目前まで近づいていた。
帰りのホームルームが終わった放課後。
窓の外はすでに灰色に暮れ始めている。
結愛は自分の席で少しだけ拳を握った。
今日こそ、もう一度言う。
今度は逃げない。
立ち上がって、前の方にいる凛花と、自席で荷物をまとめていた青へ歩み寄る。
「ねえ、凛花ちゃん。青」
二人が同時に顔を上げた。
「今度はなに?」
凛花が静かに聞く。
結愛は息を吸った。
「クリスマスイブに、うちでパーティしない?」
言った瞬間、二人の表情がほんのわずかに固まった。
やっぱり、と思う。
この流れなら、また断られる。
凛花が口を開きかける。
青も視線を落としかける。
その瞬間、結愛の中で張っていた糸が、ふっと切れた。
「……やだよ」
自分でも驚くほど弱い声が出た。
二人が、はっとしたように結愛を見る。
結愛は笑おうとした。けれど笑えなかった。
「せっかく、三人で仲良くなれたのに」
喉が熱い。
視界が少し滲む。
「こんなの……やだ」
ぽたり、と涙がこぼれた。
教室のざわめきが、一瞬遠くなる。
結愛自身、本当は泣くつもりなんてなかった。
明るく誘って、少しずつ前みたいに戻していくつもりだった。
けれど、ずっと胸に溜め込んでいた寂しさが、思っていたよりずっと大きかったのだ。
「喧嘩したわけじゃないんでしょ?」
声が震える。
「なのに、なんでそんなふうになるの……」
凛花の目が揺れた。
青も言葉を失っていた。
結愛の涙は、恋敵への涙ではなかった。
三人で笑えなくなったことが、ただ悲しかった。
せっかくできた大切な関係が、何も言わないまま壊れていくのが耐えられなかった。
「ごめんなさい……」
最初に口を開いたのは凛花だった。
その声も、少しだけ掠れている。
「結愛ちゃんを、傷つけるつもりじゃなかったの」
青も小さく息を吐き、結愛をまっすぐ見た。
「……ごめん。そういうつもりじゃなかった」
二人の言葉は、どちらも本心だとわかった。
結愛は涙を拭いながら、小さく首を振る。
「じゃあ、来てよ……」
少しだけ子どもみたいな言い方になってしまう。
でも、今はそれでよかった。
凛花と青が、ほんの一瞬だけ顔を見合わせた。
その視線の交差は短かったが、結愛にはそれが久しぶりのことのように見えた。
そして青が、柔らかい声で言った。
「わかった。行く」
凛花も静かに頷く。
「ええ。私も行くわ」
結愛は目を見開き、それから泣き笑いみたいな顔になった。
「ほんと?」
「ほんとだ」
「……よかった」
その一言に、ようやく教室の空気が少しだけやわらいだ気がした。
その日、三人は久しぶりに一緒に帰ることになった。
校門を出ると、冬の夕方の空気が頬に刺さるように冷たい。吐く息は白く、日が落ちるのも早い。街は少しずつクリスマスの飾りつけを始めていて、駅前の商店街の向こうには小さなイルミネーションの光も見えた。
三人で並んで歩くのは、思っていたより久しぶりだった。
最初は少しだけぎこちない沈黙があった。けれど、それを破ったのは結愛だった。
「二人とも、急に喋らなくなったからさ」
結愛は前を向いたまま言う。
「ほんとに喧嘩したのかと思った」
凛花が小さく息をついた。
「……ごめんなさい」
そして、少し迷うように視線を落とす。
「お母様に、受験に集中するように言われていてね」
そこまで言ってから、凛花は青の方を見た。
まっすぐには見られず、少しだけ伏し目がちに。
「青もごめんなさい。あのときは、お母様がひどいことを言って……」
青は静かに首を横に振った。
「いや」
その声は、責める色のない落ち着いたものだった。
「俺も、あのとき何も言い返せなかった」
少しだけ間を置いて、続ける。
「凛花のことを思うと、今は受験が最優先なのは本当だし。それは俺も同じだから」
凛花は唇を噛んだ。
青がそう言うほど、自分の代わりに自分を守ってくれているようで、苦しかった。
結愛は二人の横顔を見比べて、それから頬を少し膨らませる。
「親ってわかってないよねー」
わざと少し明るく言う。
「子どものため、とか言うけど、高三なんて今しかないのに」
その言葉は、冬の空気の中で思った以上にまっすぐ響いた。
たしかに今しかない。
この制服も、この教室も、この帰り道も、永遠じゃない。
受験が終われば、それぞれ別の場所へ向かっていくかもしれない。
だからこそ、今の時間は何よりも貴重だった。
青は少しだけ目を伏せてから、ぽつりと言った。
「親は、みんな子どものことを考えてくれてるんだと思う」
結愛が「うん?」と首を傾げる。
青は前を向いたまま続けた。
「将来、両親が亡くなっても、本当に困らないようにとか」
その言葉は唐突だった。




