第51話 届かない距離(2)
第51話 届かない距離
残された青は、しばらく動けなかった。
扉の向こうから、如月先生が「氷凪、入っていいわよ」と呼ぶ声がしたが、すぐには足が前に出なかった。
今、自分は何を言われたのか。
いや、言葉の意味はもう理解している。
理解しているのに、感情が追いついていない。
付き纏うな。
金輪際、凛花に近づくな。
その要約が頭の中で冷たく反響する。
青はようやく教室に入り、如月先生の前の席に座った。先生は一瞬だけ青の顔を見て、何かを察したように視線を細めたが、何も聞かなかった。
「模試の結果は悪くないわね」
「はい」
「このままなら東都も十分射程圏内。けれど油断はしないこと」
「わかっています」
会話は淡々と進む。
志望校。出願。今後の学習計画。どれも大事な話のはずなのに、青の耳にはどこか遠く聞こえた。
それでも返事はできる。
思考は止まっていない。
ただ、胸の奥だけが異様に冷たかった。
面談を終えて廊下に出ると、もう夕方の光は薄くなり始めていた。
校舎の窓ガラスに、灰色の空が映っている。
青は一人で廊下を歩いた。
足音だけが静かに響く。
理屈で考えれば、雪城の母親の言いたいことはわからなくもなかった。
受験期だ。余計な感情で揺れるべきではない。
雪城家ほどの家なら、娘に求めるものも高いのだろう。
学年一位の生徒会長。進路も、将来も、本人だけのものではないのかもしれない。
自分は、凛花の邪魔なのか。
その考えが浮かび、青はそれを否定できなかった。
文化祭のあと、凛花は交際を断った。
それも結局、こういうことだったのではないか。
本人の理性だけでなく、その背後にはもっと大きな何かがあったのかもしれない。
もしそうなら、自分が近くにいること自体が、凛花を苦しめることになる。
陽葵のことを思う。
病室で笑っている妹の顔。
限られた時間の中でも、前を向こうとするその強さ。
守りたいと思う存在が苦しむなら、自分はどうするべきか。
答えは簡単だった。
少なくとも、余計な負担にはなりたくない。
青は立ち止まり、窓の外の夕暮れを見た。
空はひどく冷たく、遠かった。
次の日から、青と凛花の会話は目に見えて減った。
もともと教室でべったり話す関係ではない。
生徒会や学級委員の仕事で言葉を交わすことが多かっただけだ。
だから周囲の多くは、最初すぐには気づかなかった。
けれど、少し注意して見ればわかる。
青は凛花を必要以上に見なくなった。
凛花も青に話しかける時は、用件だけを短く告げる。
「この書類、あとで生徒会室に」
「わかった」
「……それだけよ」
「ああ」
それだけ。
文化祭前なら、そのあとにもう一言二言、自然な会話があった。
今はない。
まるで、糸を一本ずつ丁寧に切っていくような距離の取り方だった。
結愛は、その異変に最初に気づいた一人だった。
昼休み、教室でパンを食べながら、彼女は何度も二人の様子を目で追っていた。
凛花は以前よりも笑わない。
いや、もともと表情の豊かなタイプではないが、それでも最近は明らかに楽しそうではない。授業中もどこか上の空で、頬杖をつく回数が少し増えた気がする。
青は青で、何事もない顔をしているくせに、時々ひどく無機質になる瞬間がある。話しかければ返事はする。だが、ふっと目の奥の温度が消えるようなときがあった。
結愛はもう我慢できなかった。
放課後前の休み時間、青が席で参考書を閉じたタイミングを見計らって、結愛は机の横に立った。
「青」
「何だ」
「凛花となにかあった?」
青の指先が、ほんのわずかに止まった。
「……いや、なにも」
「絶対うそ」
「うそじゃない」
「だって、ぜんぜん会話してないじゃん。なんか最初に戻ったみたい」
「互いに受験勉強で忙しいんだ」
「それにしてもさー」
結愛はちらっと前方の凛花を見る。
凛花は窓の外を見ていた。何も考えていないような顔で、でも実際はたくさん考えているとわかる横顔。
「凛花ちゃんも、最近ぜんぜん学校楽しそうじゃないし。なんかあったでしょ」
「……気のせいだ」
「青」
結愛は名前を呼んだ。
普段の明るさを少しだけ落とした、まっすぐな声で。
「私、そんなに鈍くないよ」
「……そうか」
「そうだよ」
青はそこで何か言いかけて、結局黙った。
説明できないわけではない。
ただ、説明してしまえば、それは凛花の家庭の事情を勝手に明かすことになる気がした。自分が傷ついたことよりも、そちらの方が躊躇われる。
それに何より、一度「わかりました」と答えてしまった以上、自分からその約束を軽く破るのは違うと思った。
「悪い」
「……謝るってことは、なにかあるんじゃん」
「言えないだけだ」
「どうして」
「そういうこともある」
青はそれだけ言うと、再び参考書を開いた。
会話を終わらせるための態度だと、結愛にもわかった。
けれど、その横顔は少しだけ苦しそうで、だからこそそれ以上は追えなかった。
「……わかった」
結愛はそう言って引いたが、もちろん納得などしていない。
その日の生徒会室でも、凛花はどこかおかしかった。
資料の確認中、珍しくページを一枚飛ばし、青に指摘される。
「凛花、そこ」
「……え」
「一枚抜けてる」
「あ……ごめんなさい」
言ったあと、自分で驚いたように凛花は目を伏せた。
青も一瞬だけ顔を上げた。
教室では「雪城」でも、生徒会では自然に「凛花」と呼んでしまっていたのだと、今さら気づいたようだった。
短い沈黙が落ちる。
「……失礼した」
「ううん。大丈夫」
それきり、二人はまた黙った。
凛花は指先で書類の端をなぞりながら、唇をきゅっと結んでいた。
母親にあんなことを言わせてしまったのは、自分のせいだと思っていた。
本当はあの場で止めたかった。
青に何も言わせず、ただ傷つけるだけのあの言葉を、取り消したかった。
けれどできなかった。
母に逆らえなかった。
その弱さが何より悔しかった。
そして青は、約束を守るように距離を取っている。
それが優しさだとわかるからこそ、余計に苦しい。
凛花はうつむいたまま、小さく息をついた。
視界がぼやけそうになり、慌てて瞬きをする。
泣く資格なんてない。
そう思った。
放課後。
結愛は真凛と一緒に校舎を出ていた。
夕方の空気は朝よりさらに冷たく、吐く息がうっすら白い。二人は並んで歩きながら、最初は他愛ない話をしていた。
「ていうか次の英語の小テストやばくない?」
「やばい。今回ちょっと無理」
「珍しく弱気じゃん」
「だって単語多すぎるし」
「それなー」
そんなやり取りをしていた真凛が、校門を出たあたりで急に口をつぐんだ。
「……結愛」
「ん?」
「ちょっと、言おうか迷ってたことあるんだけど」
「なに」
「青のことなんだけどさ」
結愛は足を緩める。
真凛は少しだけ言いづらそうに視線を逸らした。
「私、見ちゃったんだよね」
「なにを?」
「三者面談の日。廊下で、青が……凛花ちゃんのお母さんに、なんか言われてるの」
「え?」
結愛が立ち止まる。
「怒られてる、っていうか……うまく言えないけど、なんかすごい空気だった。たまたまトイレ行くとき見えただけで、近くまでは行ってないから内容までは聞こえなかったんだけど」
「……凛花ちゃんのお母さん?」
「うん。すごい綺麗な人だったから覚えてる。でもめちゃくちゃ怖かった」
その瞬間、結愛の中でいくつもの違和感が一気に繋がった。
模試。
三者面談。
その直後から減った会話。
青の不自然な沈黙。
凛花の曇った表情。
全部、そこに繋がる。
「……そっか」
結愛の声が低くなる。
真凛が不安そうに覗き込んだ。
「結愛?」
「ありがとう、真凛。教えてくれて」
「う、うん。なんか関係ある?」
「ある。たぶん、すごく」
結愛はぎゅっと手を握った。
怒りが湧いていた。
単純に、理不尽だと思った。
青はきっと、自分からは何も言わない。
凛花だって言えない。
だから二人とも、苦しいまま黙って距離を取っている。
そんなの、ずるい。
大人の事情とか、家の都合とか、受験とか。
大事なのはわかる。
わかるけれど、それで本人たちの気持ちを踏みにじっていい理由にはならない。
「結愛、顔こわいよ」
「……そう?」
「うん。かなり」
「そっか」
結愛は一度だけ深く息を吐いて、空を見上げた。
夕暮れの空は薄い群青色に変わり始めている。どこまでも高くて冷たい。
文化祭のあと、自分は一度身を引いた。
凛花と青の想いが通じていると知って、それでも背中を押した。
でも今は違う。
凛花は家に止められている。
青はそれを一人で抱え込んでいる。
そして二人とも、傷ついている。
だったら。
結愛の中で、静かに何かが燃え上がった。
「青は、きっと何も言わない」
「え?」
「凛花ちゃんも、たぶん言えない」
「……うん」
「だったら、私が動くしかないじゃん」
真凛が目を丸くする。
「え、結愛、なにするつもり?」
「まだわかんない。でも、このままはやだ」
「結愛……」
「だってさ」
結愛は苦く笑った。
「好きなのに、勝手に遠ざけられて、はいそうですか、って終わるの、むかつくもん」
「……うん」
「青、そういうの全部一人で飲み込むから」
「それは、なんかわかる」
「凛花ちゃんも、たぶん自分だけで耐えようとするし」
それが想像できてしまうのが、余計につらかった。
青の優しさも、凛花の不器用さも知っているからこそ、放っておけない。
結愛は俯き、もう一度手を握り直した。
泣きたくなるのは、自分が関係ない立場じゃないからだ。
青のことが好きだ。
今も、ちゃんと好きだ。
だから本当なら、凛花のために動くなんて少しおかしいのかもしれない。
それでも。
あんなふうに苦しそうな二人を見て、自分の恋心だけを優先するほど器用ではいられなかった。
「……最低だなあ、私」
ぽつりと零した言葉に、真凛が首を傾げる。
「何が?」
「だって、青のこと好きなのに、凛花ちゃんのことも放っておけない」
「それ、最低じゃなくて結愛だからでしょ」
「なにそれ」
「そのまんまの意味」
真凛はそう言って笑った。
軽い言い方だったけれど、その一言が不思議と胸に染みた。
結愛も少しだけ笑う。
「ありがと」
「どーいたしまして。で、どうするの?」
「……まずは、ちゃんと確かめる」
「誰に?」
「たぶん、凛花ちゃんに」
そう言ってから、結愛は前を向いた。
冷たい風が頬を撫でていく。
冬が、少しずつ近づいている。
文化祭の熱はもうない。
日常は戻った。
受験は目前に迫っている。
それでも、消えないものがある。
傷ついたまま黙る優しさも。
言えないまま抱える恋も。
守りたいと思う気持ちも。
それら全部が、この季節の冷たさの中で、かえって鮮やかになっていく気がした。
結愛は歩き出した。
その隣で真凛もついてくる。
校門の向こうに伸びる帰り道は、夕暮れの色に染まっていた。
青はきっと、何も言わない。
凛花もきっと、何も言えない。
だったら――。
このまま終わらせない。
そう胸の中で強く言い切ったとき、結愛の目にはもう迷いは残っていなかった。




