第51話 届かない距離(1)
第51話 届かない距離
十一月の空気は、朝から冷たかった。
星嶺高校の中庭に植えられた木々も少しずつ色を変えはじめ、風が吹くたび、乾いた葉が音を立てて転がっていく。文化祭が終わってしばらく経ち、校内にはもうあの浮ついた熱は残っていない。三年生の話題は完全に受験へ戻り、教室の空気は日ごとに重く、静かになっていた。
全国模試の結果が返却されたのは、そんな頃だった。
朝のホームルームで如月先生が教卓に立ち、いつもより少しだけ真面目な声で言った。
「今週から順番に三者面談を行います。今回の全国模試の結果と、各自の志望校をもとに最終調整に入るから、しっかり考えておきなさい」
教室のあちこちで、ため息のような声が漏れる。
「ついに来たか……」
「嫌すぎるんだけど」
「親と一緒に現実見せられるのきつい……」
そんな声を背中で聞きながら、氷凪青は返された模試の個票を見ていた。
判定は悪くない。
むしろ順調な部類だろう。
東都大学医学部。狭い門だが、現実味のある数字が並んでいる。
けれど青は、その紙を見ても特別な高揚は覚えなかった。やるべきことをやって、結果が出ただけだ。そこに浮かれる理由はない。むしろここからだ、と淡々と思うだけだった。
そんな青の横から、颯が身を乗り出してきた。
「相変わらずえぐいな、お前。俺なんか判定見た瞬間、心が死んだんだけど」
「まだ時間はある」
「その慰め、青が言うと全然慰めにならねえんだよなあ」
「事実だ」
「くそ、正論」
颯が机に突っ伏し、結愛が前の席からくすっと笑う。
「葉山、朝から大げさすぎ」
「黒金だって見ただろ、今回の判定」
「見たよ。でも落ち込んでも上がるわけじゃないし」
「うわ、優等生コメント」
「学級委員ですから」
明るく言い返す結愛の声は、最近また少し以前の調子を取り戻していた。文化祭のあと、泣いて、吹っ切れて、それでも前を向こうとしているのがわかる。「もう容赦しない」と宣言した彼女は、その言葉通り、どこか芯の強さを増していた。
ただ、青はその変化を、まだ完全には理解できていない。
前方の席では、凛花が如月先生から渡された面談日程表に静かに目を落としていた。相変わらず姿勢は綺麗で、横顔も整っている。けれど最近の青には、その横顔が少しだけ遠く見えた。
文化祭の最後、告白して、気持ちは通じた。
それでも付き合ってはいない。
そして今は、また“普通”に戻っている。
いや、本当に普通なのかと問われれば、違う。
少なくとも青にとっては違った。
必要な会話はある。生徒会の用件も伝える。けれど、以前よりも妙に慎重で、互いに一歩引いたような距離感がそこにはあった。
凛花が望んだ“普通”とは、こういうことなのだろうか。
青はまだ、その答えを見つけられずにいた。
その日の放課後から、三者面談が始まった。
保護者が次々と来校し、廊下には緊張した生徒たちの気配が漂っている。教室の前には椅子が並べられ、面談の順番を待つ生徒や、その親が静かに座っていた。
青は一人、廊下の窓際の椅子に座っていた。
氷凪家には、こうした行事に同席する保護者はいない。
青の両親はすでに他界しており、現在の後見は叔父が務めている。だが叔父は仕事の都合で学校行事に顔を出すことはほとんどなく、三者面談にも来校しないと事前に伝えられていた。
如月先生もそこは理解していて、「氷凪は一人で来なさい」とだけ事務的に伝えていた。青もそれで問題ないと思っている。説明すべきことは自分で説明できるし、進路も自分で決めている。
面談を待つ時間、廊下にはいくつもの小さな声が浮かんでは消えていた。
「うちの子、理系に進みたいって言ってまして……」
「この判定なら、もう少し上も狙えると思います」
「安全校も一校は必要ですね」
扉の向こうから漏れてくる、教師と保護者の現実的な会話。
そこには夢や恋よりも、ずっと具体的な未来の話がある。
青は窓の外に目を向けた。
西へ傾きかけた陽が、校庭を長く照らしている。部活を終えた下級生たちの声が遠くに聞こえたが、三年の校舎だけは妙に静かだった。
前の順番は、雪城凛花だった。
面談教室の扉の前の札にそう書かれているのを、青はさっき確認していた。だから特別何かを考えたわけではない。ただ、自分の前が凛花なのだと、そう認識していただけだった。
やがて、教室の中で椅子を引く音がした。
扉が開く。
最初に出てきたのは、凛花だった。
その後ろに、女性が続く。
青はその人を見て、すぐに凛花の母親だとわかった。
よく似ていた。
凛花の整った目元、白い肌、すっと通った鼻筋。年齢を重ねた美しさというより、むしろ研ぎ澄まされた冷たさを纏った人だった。上品なコートに身を包み、髪も隙なく整えられている。動作のひとつひとつに無駄がない。
けれど、似ているのは外見だけではなかった。
他人を簡単には寄せつけないような張りつめた空気まで、どこか凛花に似ていた。
ただひとつ違ったのは、凛花のほうが今、明らかに表情を曇らせていたことだった。
目元が少し赤い。
泣いたのかもしれない。
いや、少なくとも、穏やかな面談ではなかったのだろう。
青が立ち上がろうとした、その時だった。
凛花の母親の視線が、まっすぐ青に向いた。
「あなたが、氷凪さんかしら」
丁寧な口調だった。
声も落ち着いていて、大きくない。
それなのに、逃げ場のない圧があった。
青は小さく頷く。
「はい」
「少し、よろしいかしら」
問いかけの形をしているが、実質それは確認ではなかった。
断られることなど想定していない響き。
凛花がその横で、はっとしたように顔を上げた。
「お母様……」
「凛花は黙っていなさい」
きつい言葉ではない。
けれど、その一言だけで凛花は口を閉ざした。
青はそのやり取りを見て、状況をまだ掴めずにいた。
凛花の母親は青の前まで来ると、整った笑みすら浮かべず、ただ静かに言った。
「金輪際、うちの凛花に付き纏わないでほしいの。よろしくて?」
時間が、一瞬止まったように感じた。
付き纏う。
その言葉が、青の中で上手く意味を結ばない。
何を言われたのか、理解に一拍遅れた。
自分と凛花の関係のことを言っているのだということはわかる。だが、まるで犯罪者か何かに向けるような表現に、思考が少しだけ空白になる。
凛花は俯いていた。
唇を強く噛んで、肩を震わせている。
「お母様、やめて……」
「あなたは黙っていなさいと言ったはずよ」
「でも……」
「凛花」
その一声で、凛花は再び黙った。
青はようやく、自分に向けられた言葉の意味を整理し始める。
――雪城家は、認めていない。
――凛花と自分が近づくことを、好ましく思っていない。
――いや、それどころか、はっきり拒絶している。
なぜ。
そう思わなかったわけではない。
けれど、その問いを口に出す前に、青は凛花の顔を見てしまった。
凛花は泣いていた。
声を出さず、ただ涙だけを浮かべている。
止めたくても止められないのだと、その表情だけでわかった。
ならば、ここで自分が食い下がることは、凛花をさらに追い詰めるだけかもしれない。
少なくとも、この場では。
青はわずかに喉を鳴らし、それから低く答えた。
「……はい、わかりました」
それしか言えなかった。
凛花の母親は、満足した様子も見せず、ただ当然のことを確認したというふうに小さく頷いた。
「ありがとう。話が早くて助かるわ」
凛花の肩がびくりと震える。
青はその一瞬、胸の奥を強く掴まれるような痛みを覚えた。自分の返事が、凛花を傷つけたのだとわかっていた。けれど、どうすればよかったのかはわからない。
母親はそのまま踵を返した。
凛花も、そのあとに続こうとする。
去っていく直前、凛花がほんの少しだけ足を止めた。
振り返りそうになって、結局振り返れなかった。
その横顔に浮かんだ涙だけが、青の目に焼きついた。
二人の背中は、そのまま廊下の曲がり角へ消えていった。




