第50話 容赦しない(2)
## 第50話 容赦しない
結愛は立ち止まると、くるりと青の方を向いた。
「で、何だ」
「単刀直入に聞くね」
「ああ」
「青、凛花と付き合ってないの?」
「ああ」
あまりにもあっさり肯定されて、今度は結愛が固まる番だった。
「……え?」
「付き合ってない」
「いや、それは聞こえたけど!」
「そうか」
「そうか、じゃないでしょ!」
結愛は思わず両手で頭を抱えた。青はそんな彼女を見下ろしながら、小さく瞬きをする。
「何か問題か」
「大問題だよ!」
「そうなのか」
「そうなの!」
結愛は一歩青へ詰め寄る。
「だって、告白したんでしょ?」
「ああ」
「それで付き合ってないって、どういうこと?」
「付き合うのは断られた」
「なにそれ!」
渡り廊下に、結愛の声が思わず響く。すぐに彼女は「やば」と口元を押さえ、周囲を見回した。幸い、誰もいない。
青は変わらず淡々としていた。
「互いに受験生だから、恋愛は邪魔になる、だそうだ」
「……うわあ」
「何だ」
「いや……凛花ちゃんの言いそうなことすぎて」
結愛は額に手を当てた。
なるほど。たしかに、凛花なら言う。
言うだろう。でも――。
「じゃあ、告白したとき、凛花ちゃんはなんて?」
「嬉しいと言っていた」
「……それで?」
「それで、仕事を手伝った」
「そのあと」
「一緒に帰った」
「そのあと!」
「別れた」
「いや、そうじゃなくて!」
結愛はとうとうその場にしゃがみこみそうになった。
青は本気でわかっていない顔をしている。
「青さあ……」
「何だ」
「情報の出し方、下手すぎない?」
「必要なことは言ってる」
「全然足りてないから!」
青は少しだけ考えるように視線を上げた。
「……改めてキスされた」
「えっ」
結愛の動きがぴたりと止まる。
「何でそれを先に言わないの!?」
「必要か?」
「必要だよ!! 一番必要だよ!!」
今度こそ結愛は本当に頭を抱えた。
青は静かに補足する。
「文化祭の演劇でのことについて話になって、それで……改めて、だそうだ」
「……」
「そのあと、手を繋いで帰った」
「……」
「どうした」
「青」
「ああ」
「それ、付き合ってないって言われて納得してるの?」
「納得はしていない」
「してないんだ」
「理解はできる」
「うーわ……」
結愛は深く、長く息を吐いた。
青は本当に青だった。
好きだと告白して、相手も喜んで、キスまでして、手を繋いで帰って、それでも“付き合ってはいない”という状態を、そのまま受け止めている。
普通なら混乱して問い詰めるところだろう。
けれど青は、凛花がそう言うならそうなのだと、無理に踏み込まずにいる。
優しいのか、不器用なのか。
たぶん両方だ。
そして、凛花もまた、同じくらい不器用だ。
結愛の胸の奥で、いくつもの感情がせめぎ合う。
ほっとした。
正直、少しだけ。
凛花と青がもう完全に恋人になっていたなら、自分の入る余地なんてないと思っていたから。
あの日、自分で背中を押したくせに、そんなことを思う自分がずるいのはわかっている。
でも同時に、少しだけ腹も立った。
好きなら、付き合えばいいのに。
そんなに互いを大事に思っているなら、ちゃんと繋がればいいのに。
どうして凛花は、自分の気持ちを止めるのだろう。
どうして青は、それをそのまま受け入れてしまうのだろう。
きっと、どちらも間違ってはいない。
受験は大事だ。将来も大事だ。
凛花が理性を優先するのも、青が相手の意思を尊重するのも、その人らしい。
けれど。
そこに隙間があるなら。
まだ終わっていないのなら。
自分が、もう一度手を伸ばしたっていいはずだ。
結愛はゆっくり顔を上げた。
目の前の青は、相変わらず何を考えているのかわからない静かな顔をしている。
「あの日、私が背中押したの、覚えてる?」
「覚えてる」
「凛花ちゃんのところに行ってあげなって言ったの」
「ああ」
「……あのときは、それでいいと思ったんだ」
結愛の声は、思ったよりもずっと静かだった。
いつもの明るさを少しだけ抑えた、まっすぐな声。
「青が凛花ちゃんのこと、ちゃんと好きなんだってわかったし。凛花ちゃんも、青のこと好きなの知ってたし。だったら私が変に割り込むの、違うかなって思った」
「結愛……」
「でもさ」
結愛はそこで小さく笑った。
泣きそうな笑顔ではない。
少しだけ呆れたような、それでいて吹っ切れた笑みだった。
「好き同士なのに付き合ってません、でもキスしました、手も繋ぎました、って何それ」
「……そう言われると、たしかに変だな」
「たしかにじゃないの。かなり変なの」
青は珍しく、ほんのわずかに困ったように眉を寄せた。
結愛はその反応に少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
「凛花ちゃん、ほんと不器用だね」
「ああ」
「青も十分不器用だけど」
「そうか」
「そうだよ」
言ってから、結愛は窓の外に視線を向けた。
渡り廊下の向こう、グラウンドでは体育の授業をしている下級生たちの声が聞こえる。空は高くて、青い。文化祭の熱気が嘘みたいな、静かな秋の日だった。
結愛は胸の内で、最後の迷いをそっとほどいていく。
凛花のことは嫌いじゃない。
むしろ好きだ。かっこよくて、綺麗で、不器用で、たぶん誰よりも青のことを真剣に考えている。
だからこそ、あの日は背中を押した。
けれど、凛花が自分で止まるなら。
青がまだ宙ぶらりんな場所にいるなら。
その間に、自分が入ってはいけない理由はない。
譲ったままで終わるほど、自分の恋は軽くない。
結愛は青に向き直った。
「わかった。ありがと」
「そうか」
「うん。すっきりした」
「それならよかった」
青は本当にそれだけで会話が終わったと思っている顔をしていた。
その鈍さに、結愛は思わず笑いそうになる。
でも、次に言う言葉は、ちゃんと届かなくていい。
今はまだ、それでいい。
結愛は少しだけ顎を上げて、いたずらっぽく、けれどはっきりと宣言した。
「もう、容赦しないんだから」
「……何の話だ?」
案の定、青はわからない顔をした。
「青はわかんなくていいの」
「そうか」
「そう。今はまだね」
「今はまだ?」
首を傾げる青を見て、結愛はくすっと笑う。
その笑みは、文化祭のあと一人で泣いた少女のものではなかった。
あの日の涙をちゃんと抱えたまま、それでも前を向くと決めた女の子の顔だった。
「そのうちわかるよ」
「そういうものか」
「そういうもの」
ちょうどそのとき、次の授業を告げるチャイムが鳴った。
「ほら、戻るよ」
「ああ」
「遅れたら先生に怒られるし」
「結愛が連れ出したんだろう」
「細かいこと言わないの」
結愛は先に歩き出す。
数歩進んでから、振り返った。
「青」
「何だ」
「私、本気だから」
「……そうか」
その返事は、結愛の意味するところを半分も理解していない声だった。
でも、今はそれでいい。
「うん。覚えといて」
そう言って、結愛は今度こそ教室へ向かった。
残された青は、その背中を見送りながら小さく息をつく。
結愛の言葉の意味はよくわからない。
けれど、何かを決めたのだということだけは伝わった。
本気。
容赦しない。
恋愛に関する言葉として受け取るなら、たしかにそうなのだろう。
だが青には、そこまで綺麗に整理できなかった。
教室へ戻る途中、廊下の曲がり角で凛花とすれ違った。
凛花は手に資料を抱えていた。おそらく職員室か生徒会室へ向かう途中なのだろう。
青を見ると、彼女は一瞬だけ足を止めた。
「青」
「凛花」
「次、古典よ。遅れないように」
「わかってる」
「……そう」
それだけの会話。
けれど、凛花の視線が青の後ろをほんの少しだけ追った。たぶん、さっきまで結愛と一緒にいたことに気づいている。
青は特に隠すことでもないと思い、そのまま言った。
「さっき、結愛に呼ばれてた」
「そう」
「文化祭のことを少し」
「……そうなのね」
凛花はそれ以上は聞かなかった。
いつものように、踏み込みすぎない。踏み込めないのかもしれない。
青はその静かな態度に、また微かな違和感を覚える。
好きだと伝え合ったはずなのに、二人の間にはまだ薄いガラスみたいなものがある。
手を伸ばせば触れられるのに、完全には越えられない。
「じゃあ」
「ああ」
短く言葉を交わして、すれ違う。
凛花の横を通り過ぎたとき、ふわりと石鹸のような淡い香りがした。文化祭の帰り道、隣を歩いたときにも感じた匂いだと思って、青は無意識に足を緩めそうになる。
だが、凛花は振り返らなかった。
教室に戻ると、結愛はもう自分の席に座っていた。何事もなかったように教科書を出している。真凛が何か話しかけると、結愛はいつもの調子で笑って返していた。
いつも通りの教室。
いつも通りの授業。
いつも通りの一日。
それなのに、何かがもう前とは違っている。
凛花は距離を取ったまま、確かに近い。
結愛は笑ったまま、前よりずっと強い。
そして自分は、そのどちらの気持ちも、完全には整理できていない。
青は席につき、開きっぱなしだったノートを見下ろした。
黒板の前では教師が出席簿を開いている。チャイムの余韻が消え、教室が静まっていく。
文化祭は終わった。
けれど、終わっていないものがある。
そんなことを考えた自分に、青は少しだけ驚いた。
以前なら、こんなふうには思わなかったはずだ。
目の前の勉強以外は、すべて脇に置いておけた。
だが今は違う。
手放したはずの熱が、まだ胸のどこかに残っている。
その熱が何なのか、青にはまだうまくわからない。
ただひとつ確かなのは、十一月の冷たい空気のなかで、彼らの関係だけは静かに動き始めているということだった。
授業が始まる。
教師の声が響く。
青はペンを取った。
窓の外の空は、どこまでも高かった。




