第50話 容赦しない(1)
## 第50話 容赦しない
文化祭が終わって、学校はすっかりいつもの顔に戻っていた。
十一月に入った朝の空気は、もうはっきりと冷たい。登校してくる生徒たちの制服の上にはカーディガンやブレザーが重ねられ、廊下の窓から差し込む光も、夏のころよりずっと白くて薄かった。
三年生の教室では、文化祭の余韻を引きずる声も、さすがに少なくなっている。
「次の模試、範囲広くない?」
「もう広いとか言ってる場合じゃないでしょ」
「やばい、英単語帳どこやったっけ……」
そんな会話があちこちで飛び交うなか、氷凪青は自席で問題集を開いていた。ページをめくる音だけが、周囲のざわめきのなかで妙に静かに響く。
文化祭が終わってから数日。
日常は、驚くほどあっさりと戻ってきた。
教室の後ろに飾られていた色紙も、壁の装飾も、メイド喫茶の名残も、もうない。あれだけ騒がしかった教室は、今では元通りの受験生の空気に支配されている。
なのに、青のなかだけは、完全に元通りとは言えなかった。
ふとした瞬間に思い出す。
文化祭の最後、生徒会室でのことを。
自分の口からこぼれた「好きだ」という言葉。
嬉しそうに涙を滲ませながら、それでも「付き合うのはやめましょう」と言った凛花の声。
あの静かな帰り道。
繋いだ手の温度。
そして、別れ際に告げられた、「来週からはまた普通で頼むわよ」という言葉。
あれから、雪城凛花は本当に“普通”だった。
朝、教室で顔を合わせても、必要以上に話しかけてくることはない。
生徒会の仕事で顔を合わせれば、いつも通り冷静に用件だけを伝えてくる。
けれど、青にはわかる。
何も変わっていないわけではない。
目が合う時間が、ほんの少し長くなった。
名前を呼ぶときの声音が、わずかに柔らかい。
それだけだ。
それだけなのに、青の中には、説明のつかない違和感が残り続けていた。
好きだと伝えた。
彼女はそれを喜んでいた。
それでも付き合ってはいない。
理屈としては理解できる。
凛花が言いそうなことだとも思う。
受験は大事だ。余計な感情に振り回されるべきじゃない、という考えもわかる。
だが、それならあの日、どうしてあんなふうに手を繋いだのか。
どうして、改めてキスなんてしたのか。
考えたところで、答えは出ない。
青は小さく息をつくと、再び問題集へ視線を落とした。
「青、おはよー」
明るい声がして、顔を上げる。
黒金結愛が、いつものように屈託のない笑顔で立っていた。
「おはよう」
「朝から難しそうなのやってるねえ。さすが」
「普通だ」
「普通じゃないんだって、それが」
くすっと笑って、結愛は自分の席へ向かう。その背中を青は何気なく目で追った。
文化祭のあと、結愛もまた“普通”に戻っていた。
休み時間には真凛と話して、クラスの空気を明るくして、学級委員の仕事もきっちりこなす。倒れたあの日のことも、救護室でのことも、まるでどこかにしまいこんだみたいに見えた。
けれど、青は知っている。
あの日、結愛は泣いた。
そして自分にキスをして、「凛花のところに行ってあげな」と背中を押した。
思い出すと、胸の奥がわずかに重くなる。
あのときの結愛の笑顔は、明るかったのに、少しだけ痛かった。
チャイムが鳴って、一時間目が始まる。
授業はいつも通り進んでいく。数式が板書され、教師の声が教室に響く。青はノートを取る手を止めずにいたが、前方の窓際の席に座る凛花の横顔が、何度か視界に入った。
そのたびに、意識が少しだけ引かれる。
我ながら、非効率だ。
青はそう思いながらも、すぐに視線を外した。
休み時間になっても、教室は受験生らしい忙しさで騒がしかった。問題を教え合う者、次の授業の準備をする者、コンビニで買ってきたパンを齧る者。
結愛は、席を立つと、教室の前方にいる凛花のところへ歩いていった。
青は特に気にせず、ノートをまとめていた。
だが、その少し先で、結愛が周囲を気にするように身を寄せ、凛花に小声で何かを話しかけたのが見えた。
凛花がわずかに首を傾げる。
結愛はさらに顔を近づける。
何の話だろう。
そこまで考えて、青は手を止めた。だが聞き耳を立てるほどでもないと思い直し、またノートへ目を戻した。
実際には、結愛の心臓は、そのとき少しだけ速くなっていた。
「ねえ、凛花ちゃん」
結愛は声をひそめる。
凛花は手元の英単語帳から顔を上げた。
「なに?」
「ちょっと聞きたいことあるんだけど」
「ええ」
周囲にはまだクラスメイトがいる。
けれど、皆それぞれ自分のことで忙しく、二人の会話に注意を向ける者はいない。結愛はそれでも少しだけ躊躇ってから、思い切って口にした。
「……凛花ちゃん、青とはどうなの?」
凛花の睫毛が、ぴくりと揺れた。
「どう、とは?」
「いや、その……」
結愛は一度言葉を飲み込み、少しだけ頬を引きつらせながら笑った。
「付き合ってるんでしょ?」
一拍、沈黙が落ちる。
凛花は結愛をまっすぐ見返したまま、驚いたような顔もしなければ、慌てる様子も見せなかった。ただ、あまりにもあっさりと答えた。
「いいえ。付き合ってないわよ」
「え?」
結愛の口から、間の抜けた声が漏れた。
「どうしてって顔してるわね」
「いや、だって……え?」
「付き合ってないものは、付き合ってないわ」
「いやいやいや、ちょっと待って?」
結愛は思わず周囲を見回してから、また凛花に向き直る。
「え、ほんとに?」
「ほんとに、って……嘘をつく理由がないでしょう」
「でも、文化祭の日……」
「文化祭の日?」
「いや、その……いろいろあったじゃん!」
そこで凛花は、ほんの少しだけ目を伏せた。
いろいろ。確かに、あった。
ありすぎたと言っていい。
舞台の上でのキス。
青の告白。
帰り道の手の温度。
胸の奥が、じくりと熱を持つ。
だが凛花は表情を崩さなかった。
「……あったわね」
「だったら、普通はそうなるじゃん」
「普通、ね」
「普通だよ!」
結愛は思わず語気を強めてしまい、慌てて口を押さえた。近くの席にいた真凛が、「ん?」とこちらを見る。結愛は「なんでもない」と手を振って誤魔化した。
凛花はそんな結愛を見て、ふっとかすかに笑う。
「結愛ちゃんらしいわ」
「いや、らしいとかじゃなくて……」
「付き合ってないのは事実よ」
「……凛花ちゃんは、それでいいの?」
結愛がそっと問うと、凛花は一瞬だけ言葉を失った。
それでいいのか。
自分でも、何度も考えた問いだ。
よくないに決まっている。
本当は、あの日のまま、手を離したくなかった。
あのまま「うん」と言って、青の隣にいたかった。
けれど、そんなことをしてしまったら、自分はきっと弱くなる。
青も、自分も。
受験がある。この先の人生がある。
今、甘えてしまえば、きっと後悔する。
そう言い聞かせている。
だから凛花は、いつものように整った声で言った。
「いいも悪いもないわ。そう決めただけよ」
「……そっか」
結愛はそれ以上、何も言えなかった。
凛花の表情は静かだった。けれどその静けさが、かえって結愛を混乱させた。
嫌だから断った顔じゃない。
どうでもいい相手の話をしている顔でもない。
むしろ――。
結愛はそこで考えるのをやめた。
これ以上は、本人ではなくもう一人に聞くしかない。
「ありがと、凛花ちゃん」
「ええ」
「……変なこと聞いてごめんね」
「別に、構わないわ」
凛花はそう答えたが、結愛が席へ戻ったあともしばらく単語帳のページをめくれなかった。
結愛は自分の席に戻りながら、頭の中で何度も今の会話を反芻していた。
付き合ってない。
本当に?
なんで?
青、告白したんじゃなかったの?
凛花ちゃん、青のこと好きだよね?
じゃあ、どうして?
授業が始まっても、結愛はしばらく上の空だった。
教師の声が遠い。ノートに書いた文字も、いつもより少しだけ乱れる。
わからない。
でも、ひとつだけわかることがある。
このままじゃ落ち着かない。
次の休み時間のチャイムが鳴るや否や、結愛は立ち上がった。青はそのとき、席で参考書を開こうとしていた。
「青、ちょっと来て」
「……今か?」
「今」
「次の授業まであまり時間がない」
「五分で終わるから」
「内容による」
「いいから来る!」
やや強引に袖を引かれ、青は仕方なく立ち上がる。教室の何人かが「お?」と面白がるような視線を向けたが、結愛は気にしないふりでそのまま歩き出した。
連れていかれたのは、特別教室棟へ続く渡り廊下の端だった。
この時間は人通りが少なく、窓の外からは冷たい風に揺れる木々が見える。日差しはあるのに、空気は肌寒い。




