第49話 恋と理性
# 第49話 恋と理性
文化祭の終わりは、いつも唐突だ。
あれほど騒がしかった校舎が、夕方になると急に静まり返る。廊下には装飾の紙くずが点々と残り、遠くから机を引きずる音や、段ボールを潰す音だけが聞こえてくる。祭りの熱が冷めていく匂いが、どこか寂しさを連れてくる。
生徒会室の窓からは、オレンジ色に染まった校庭が見えた。テントはすでに半分ほど解体され、係の生徒たちが黙々と作業している。笑い声はもうほとんどない。疲労と達成感が混ざった、独特の空気だけが残っていた。
雪城凛花は、その窓を背にして机に向かっていた。
制服に着替え、髪も整えている。けれど、文化祭前の彼女と比べれば、わずかに疲れが見て取れた。ペンを持つ指先も、ほんの少しだけ重そうだ。
机の上には書類が山積みになっている。
来場者数の速報、事故報告、各クラスの評価用紙、特別公演の記録。生徒会長として最後まで責任を果たすための仕事だ。
「……」
凛花は一枚の紙をめくり、何かを書き込む。
けれど、同じ行を二度なぞっていることに気づき、わずかに眉を寄せた。
集中できていない。
理由は、わかっている。
今日の出来事が、頭から離れない。
舞台の上でのキス。
その直後の動揺。
観客の拍手。
青の顔。
あれは事故だと理解している。
緊張のあまり、距離を誤ったのだろうと。
けれど――。
唇に残った感触だけが、どうしても消えない。
「……ばかね」
小さく自嘲する。
生徒会長として、学年一位として、こんなことで動揺していてはならない。
そう自分に言い聞かせたとき、ドアがノックされた。
「入っていいか?」
低い声。
凛花の心臓が一瞬だけ強く打つ。
「ええ、どうぞ」
ドアが開き、青が入ってきた。
文化祭の喧騒の中でも変わらない、静かな佇まい。けれど、その表情にはどこか迷いのようなものが浮かんでいる。
「結愛ちゃんは?」
凛花は先に口を開いた。
「あら、もう大丈夫なの?」
「さっき目を覚ました。医師じゃないが、問題なさそうだった」
その言葉に、凛花はほっと息をつく。
「そう……よかった」
結愛は準優勝のスピーチのあと、最後まで店を回し続け、そして倒れた。責任感の強い彼女が無理をすることは想像できたが、それでも心配だった。
青は少し間を置いてから言った。
「それより、凛花。話がある」
凛花の指先が止まる。
ゆっくりと顔を上げた。
「……なによ、改まって」
心のどこかで予感があった。
謝罪だろうか。
それとも、舞台の件の説明だろうか。
けれど青の目は、いつもの合理的なそれとは少し違っていた。
「俺は――」
言葉を選ぶように、ほんのわずかに視線が揺れる。
そして、まっすぐ凛花を見た。
「凛花が好きだ」
凛花の思考が止まった。
何を言われたのか、理解するまで数秒かかった。
「……え?」
手からペンが滑り落ち、机の上を転がる。
青は視線を逸らさない。
「今日一日、ずっと考えていた。文化祭の準備のときから、ずっとだ。俺は……凛花が好きだ」
飾り気のない言葉。
説明も理屈もない。
ただ事実を述べるような口調。
それが、青らしかった。
凛花の胸が熱くなる。
こんな言葉を、この人から聞く日が来るなんて。
「……そんな言葉を、青から聞くなんてね」
視界が滲む。
「ありがとう。嬉しいわ」
涙が一筋、頬を伝った。
けれど、その涙を拭う前に、凛花は自分の表情を整えた。
生徒会長としての顔。
雪城凛花としての理性。
「けど――」
声は震えていない。
「付き合うとかは、やめましょう」
青がわずかに目を見開く。
「私たち、受験生なんだから。恋愛は……邪魔なだけよ」
静かな言葉だった。
否定ではない。
拒絶でもない。
現実だ。
「……そうか」
青は一瞬黙り、視線を落とした。
「……ごめん。タイミングが悪かったな」
凛花の胸が痛む。
違う。
悪いのはタイミングじゃない。
自分が、怖いだけだ。
もし付き合って、もし関係が壊れたら。
受験に失敗したら。
彼の夢を邪魔したら。
何より――失うのが怖い。
「ううん」
凛花は首を振った。
「でも、嬉しいから」
微笑む。
その笑顔は、どこか儚かった。
青はしばらく彼女を見つめていたが、やがて言った。
「仕事、手伝うよ」
「……ありがとう」
二人は並んで書類に向かった。
ペンの走る音。
紙をめくる音。
時計の秒針。
言葉はほとんどない。
それでも、不思議と居心地は悪くなかった。
恋人ではない。
けれど、誰よりも近い距離にいる。
そんな、曖昧で温かい時間が流れていく。
やがて最後の書類を片付け終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「終わったな」
「ええ」
凛花が立ち上がる。
帰る準備をしながら、ふと思い出したように言った。
「青」
「なんだ」
「あの演劇でのキスは……どういうことだったのかしら?」
青の動きが止まる。
「あ、あれは……」
珍しく言葉に詰まる。
「緊張のあまり、キスの振りにできなくて……してしまった。ごめん」
正直な答えだった。
凛花は小さく笑う。
「ふふっ。やっぱりね」
「……怒ってないのか?」
「怒る理由がないもの」
少しだけ間を置いてから続けた。
「じゃあ、改めて」
青が顔を上げる。
凛花は一歩近づいた。
逃げ場のない距離。
そして、そっと背伸びをして――唇を重ねた。
今度は、事故ではない。
誰に見せるでもない。
ただ、二人の意思で交わされるキスだった。
短く、静かで、優しいキス。
離れたあと、凛花は目を伏せたまま言う。
「これで……おあいこね」
青は何も言えなかった。
二人は並んで校舎を出る。
夜の空気は少し冷たく、文化祭の余韻だけが街灯の下に残っていた。
自然と、凛花が手を差し出す。
青は迷わずその手を取った。
指が絡む。
恋人のような手の繋ぎ方。
けれど、言葉はない。
ただ歩く。
校門が近づく。
そこで凛花は手を離した。
「来週からは、また普通で頼むわよ」
軽い口調だった。
けれど、その奥には決意があった。
「じゃあね」
振り返らずに歩き出す。
街灯の光の中へ、凛花の背中が消えていく。
青はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
好きだと言った。
キスもした。
手も繋いだ。
それなのに――。
「……」
胸の奥に、説明できない違和感が残る。
凛花は、自分が恋人になることを拒んでいるように見えた。
嫌われたわけではない。
むしろ、想いは通じている。
それでも、踏み込ませない何かがある。
青は空を見上げた。
文化祭の灯りはもう消え、夜だけが静かに広がっている。
胸の奥に残る温もりと、言葉にならない不安。
その両方を抱えたまま、青はゆっくりと帰路についた。




