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星嶺高校の氷凪くんは、たぶん恋を知らない。~恋愛偏差値0のアオが、学年1位の美少女とギャルを救い救われる話~  作者: にめ
2学期:文化祭

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第48話 背中を押す人(2)

# 第48話 背中を押す人





 結愛は息を整えようとしながら、ふと思い出した。


「ねえ」


「なんだ」


「特別公演のとき……凛花と、本当にキスしてたでしょ」


 青の表情がぴたりと止まる。


 図星だと、その沈黙が語っていた。


「……いや」


 否定しようとして、やめる。


「キスのふりにする予定だった。だが、緊張のあまり……間違えた」


 間違えた。


 青らしい表現だと結愛は思った。


「まだ、凛花に謝れてない」


 その一言に、結愛は小さく息を吐く。


「やっぱり見間違いじゃなかったかー……」


 観客席から見えた一瞬の違和感。近すぎる距離。息を呑んだ自分。


 あれはやっぱり、本当だった。


 けれど、結愛がいちばん驚いたのはその次だった。


「でも、なんで謝るの?」


 青が不思議そうに眉を寄せる。


「え?」


「だって、キスのふりの予定なのに本当にキスしたら、怒らないか?」


 その問いに、結愛は呆れと切なさが混ざったような顔になった。


「青はわかってないなー……」


「何がだ」


「凛花は、青のことが好きなんだよ」


 その言葉は、救護室の静けさの中でやけにはっきり響いた。


 青が目を見開く。


「……え?」


 信じられない、という顔だった。


「それじゃなきゃ、キスなんてしないでしょ」


 結愛は、プールの日の話を知っている。花火大会の時の凛花の視線も見ていた。今日の演劇のとき、凛花が青にだけ見せていた柔らかさも、結愛にはちゃんとわかっていた。


 気づいていないのは、たぶん青だけだ。


「凛花……」


 青の視線がわずかに落ちる。


 その瞬間、彼の中でいくつもの記憶が繋がっていく気配がした。


 花火大会で、凛花がそっと手を重ねてきたこと。

 プールで男たちに絡まれたあと、青の胸の中で泣いたこと。

 『弱い部分も含めて好きだ』と言ったときの、あの表情。

 そして、今日の舞台の上。


「……」


 青は黙ったまま、その意味を整理しきれずにいるようだった。


 結愛はそんな青を見て、胸の奥がじくりと痛む。


 本当は、自分だけを見てほしい。

 自分のキスのことだけ考えてほしい。

 凛花のことなんて、今は忘れていてほしい。


 けれど。


 結愛は知っている。


 青が誰かを放っておけない人だということを。

 そして、凛花が今たぶん、ひとりでそのことを抱えているだろうことを。


 だからこそ――自分でもばかだと思いながら、言わなければならなかった。


「ほら」


 結愛は無理やり笑みを作る。


「わたしはもう大丈夫だから、凛花のところに行ってあげな」


 青が顔を上げる。


「結愛……」


「ちゃんと話した方がいいよ。青が謝りたいなら、それでもいいし。でも、たぶん凛花は怒ってない」


 むしろ、あのキスをどう受け取ったのか、ひとりで抱え込んでいるかもしれない。


 そう思うと、胸の痛みはさらに深くなる。


 自分でライバルの背中を押している。

 そんなこと、普通はしない。


 でも結愛は、青がそういう人間だから好きになったのだ。

 だったら、いちばん大事なところでその青らしさを止めたくなかった。


 青はしばらく迷うように結愛を見つめていた。


「……わかった」


 やがて、静かに頷く。


「生徒会室に行ってみる」


「うん」


「結愛、本当に大丈夫か」


「だいじょーぶ。さっきより全然元気」


 強がりだとわかるような明るい声だった。


 青はそれでも、すぐには立ち上がらなかった。結愛の顔色を確認するように見つめ、ベッド脇のテーブルに置かれていた水のペットボトルを手に取る。


「これ、ちゃんと飲め」


「はいはい」


「飲んだのを見たら行く」


「え、そこまで?」


「倒れた直後のやつが信用できると思うか?」


 結愛は一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑った。


「……ほんと、そういうとこ」


「何だ」


「好き」


 さらりと言うと、青がまた言葉を失う。


 結愛はキャップを開けて、水を一口、二口と飲んだ。


「ほら、飲んだ」


「……そうか」


 青がようやく立ち上がる。


 その動きが、結愛には少しだけ遠く感じられた。


 いま、この手を伸ばせば袖くらいは掴めるのに、もう掴まない方がいい気がした。


「じゃあ、行ってくる」


「あ、待って」


 青が振り返る。


 結愛はほんの少しだけ迷ってから、笑って言った。


「凛花に会ったら、ちゃんと話してきなよ」


「ああ」


「逃げたらだめだからね」


「努力する」


「努力じゃなくて、ちゃんとね」


 それに対して、青は珍しくごく小さく口元をゆるめた。


「わかった」


 その表情を見た瞬間、結愛は胸が苦しくなった。


 自分に向けられた笑みなのに、その先はたぶん、別の誰かのところへ行く。


 青は救護室のドアへ向かい、最後にもう一度だけ結愛を振り返った。


「無理はするな」


「しない」


「信用してない」


「ひどい」


 そんな、いつも通りの会話。


 それがたまらなく愛しかった。


 ドアが閉まる。


 青の足音が遠ざかっていく。


 救護室の中に静けさが戻った。


 さっきまであれほど近くにあった体温が、もうない。


 結愛はしばらく天井を見上げたまま動かなかった。


 それから、ゆっくりと自分の唇に指先を当てる。


 さっきのキスの感触が、まだ残っている気がした。


「……あーあ」


 誰もいない部屋で、小さく呟く。


「ライバルの背中を押すなんて……」


 自分でも、ばかだと思う。


 本当にばかだ。


 好きなら、引き止めればよかったのかもしれない。

 自分を見て、と言えばよかったのかもしれない。

 凛花のところへなんて行かないで、と。


 でも、言えなかった。


 言ってしまったら、青が青じゃなくなる気がした。

 困っている人を放っておけなくて、まっすぐで、不器用で、優しくて――そういう青だから好きなのに、そのいちばん大事なところを自分のために曲げさせることはできなかった。


 それがたぶん、結愛の弱さであり、優しさでもあった。


 目の奥がまた熱くなる。


「……ばかだなー、わたしは」


 声に出した途端、涙がにじんだ。


 さっきは青の前だったから、泣いても安心できた。

 でも今は違う。今流れる涙は、どうしようもなく自分のものだ。


 静かな救護室に、結愛の小さなすすり泣きだけが落ちていく。


 悔しい。

 苦しい。

 それでも、好きだ。


 今日、ミスコンで準優勝に選ばれたことよりも。

 模擬店を完売できたことよりも。

 青に優しくされたことよりも。


 いま胸を占めているのは、ただ一つ。


 青が好きだという、どうしようもない事実だった。


 結愛は両手で顔を覆った。


 涙は止まらない。


 けれどその涙の奥で、ほんの少しだけ、今日を後悔していない自分もいた。


 キスできたこと。

 好きだと言えたこと。

 青が嫌じゃないと言ってくれたこと。


 それだけで、全部が無駄だったとは思えない。


 だからこそ、余計に泣けるのかもしれなかった。


 文化祭のざわめきは、もうだいぶ遠くなっている。


 日が傾き始めた窓の外で、祭りの終わりが近づいていた。


 けれど結愛の胸の中では、まだ終わっていないものがあった。


 誰にも見せられない涙と。

 誰にも譲りたくない想いと。

 それでも、好きな人の背中を押してしまった自分自身への、どうしようもない苦さ。


 その全部を抱えたまま、結愛はひとり、静かに泣き続けた。


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