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星嶺高校の氷凪くんは、たぶん恋を知らない。~恋愛偏差値0のアオが、学年1位の美少女とギャルを救い救われる話~  作者: にめ
2学期:文化祭

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第48話 背中を押す人(1)

# 第48話 背中を押す人


 意識が浮かび上がってくる感覚は、深い水の底からゆっくりと水面へ戻っていくのに似ていた。


 遠くで何か音がしている。

 人の声。拍手。マイクを通したような割れた音。けれどそれは厚い膜の向こう側から聞こえてくるように曖昧で、はっきりとは掴めない。


 まぶたが重い。


 黒金結愛は小さく眉を寄せ、ゆっくりと目を開けた。


 最初に視界へ入ってきたのは、白い天井だった。


 それから視線を横へ動かすと、白いカーテン、簡素な棚、消毒液の匂い。保健室――いや、文化祭の日だけ臨時で使われている救護室だと理解するのに数秒かかった。


「……あれ」


 喉が少し乾いていた。


 身体を起こそうとした瞬間、そばから低い声がした。


「目は覚めたか?」


 結愛がそちらを見る。


 ベッドの横の丸椅子に座っていたのは青だった。


 普段通りの静かな顔。けれどその目元には、いつもよりわずかに強い緊張が残っている。


「青……?」


 声にした瞬間、記憶が一気に繋がった。


 ミスコン。模擬店。長蛇の列。完売。歓声。


 そして、その直後――足元がふらついて、視界が揺れて。


「……っ」


 結愛は勢いよく上半身を起こした。


「文化祭は? いま何時? わたし、行かないと――」


 シーツが乱れ、結愛がベッドから降りようとする。だが、床へ足をつける前に青が立ち上がった。


「結愛、大丈夫だ。落ち着け」


「でも、わたし……!」


 焦りで呼吸が浅くなる。


 結愛は本気で立とうとしていた。自分が倒れたことよりも、文化祭の途中で抜けたことの方が気がかりだった。


 そんな彼女の両肩へ、青の手が静かに置かれる。


 強く押さえつけるのではなく、逃がさないための最低限の力。


「大丈夫」


 落ち着いた声だった。


「後片付けはもう終わってる」


「……え」


「それに、結愛のおかげで完売した」


 一瞬、意味がわからなかった。


「完売……?」


 青は小さく頷いた。


「ああ。全部売れた」


 結愛は呆然と青を見つめた。


「うそ……」


「ほんとだ」


「全部……?」


「全部だ」


 その言葉が胸の奥へ落ちていく。


 朝、自分の発注ミスを知った時の青ざめるような感覚。箱の山を見た時の絶望。クラスのみんなの顔。泣きそうになった自分。


 それが一気に思い返されて、同時に、最後に見たクラスの光景も蘇る。


 走り回る颯。

 笑顔で客を案内する真凛。

 青の低い声。

 凛花のメイド服。

 みんなの「おー!」という声。


 売れた。

 全部。


 胸の奥に張り詰めていたものが、ぷつんと切れた。


「……よかった」


 最初は小さな声だった。


「よかったよぉ……」


 次の瞬間、涙があふれた。


 結愛は自分でも驚くほど素直に、青へ身体を預けていた。


 額が、頬が、胸元が青に触れる。


 倒れこむように寄りかかったその身体を、青は反射的に受け止めた。


 少しだけ戸惑ったように手が宙で止まって、それからゆっくりと結愛の背へ回る。


「結愛……」


「だって……だって……」


 肩が震える。


 結愛は青の制服の胸元をきゅっと掴んだ。


「わたしのせいで、文化祭台無しにしたくなかったから……」


 泣き声混じりの言葉は、胸の奥からそのままこぼれ落ちてくるようだった。


「わたしが勝手に発注したのに、数ミスって……みんなに迷惑かけて……。なのに、誰も怒らなくて……青も、かばってくれて……」


 青は結愛の髪に視線を落とした。


 今日一日、彼女がどれだけ無理をしていたか、思い返さなくてもわかる。倒れるまで動き続けたのは、責任感だけではない。自分の失敗を、自分の手で取り返したかったのだろう。


「発注ミスくらいで、文化祭は台無しにならない」


 青はゆっくりと言った。


 感情的に慰めるのではなく、あくまで事実として伝える口調だった。


「余ったら、クラスみんなで食べればよかった。それだけのことだ」


 結愛は泣きながら、小さく笑いそうになった。


「……それ、青らしい」


「そうか」


「うん……」


 けれど、その“青らしさ”にどれだけ救われたかわからない。


 大丈夫だと言われること。

 責められないこと。

 ひとりで失敗を抱えなくていいと示されること。


 青はそれを、いつも特別なことのようにしない。

 当たり前みたいな顔で差し出してくる。


 だから余計に、ずるいのだ。


 結愛はしばらくのあいだ青の胸に顔を埋めたまま泣いた。青は何度も背中を撫でるようなことはしなかったが、腕を離さず、そこにいてくれた。


 それだけで十分だった。


 ようやく涙が少し引いてきた頃、結愛は青の制服の胸元が少し湿ってしまっていることに気づいた。


「……ごめん」


「何がだ」


「泣いて、制服濡らした」


「問題ない」


 即答だった。


 結愛は鼻をすすりながら顔を上げる。


 近い。


 近すぎる距離で、青の顔があった。黒く静かな瞳。いつもと変わらないようで、でも今はそこに自分だけが映っている気がした。


 救護室の外では、文化祭の終わりを告げるようなざわめきがまだ遠くに残っている。けれどこの空間だけは切り離されたみたいに静かで、息をする音まで近く感じた。


 結愛の胸が、さっきとは別の意味で痛いほど高鳴る。


「青」


「なんだ」


「……ありがとう」


 それは今日のことだけじゃない。


 発注ミスをかばってくれたこと。

 文化祭の最中も何度も気にかけてくれたこと。

 倒れた自分を運んでくれたこと。

 今こうして、起きた時にそばにいてくれること。


 青はきっと、その全部を特別だと思っていない。


 でも、結愛にとっては違った。


「青って、ほんと優しいよ……」


「普通だ」


「普通じゃないって」


 結愛は力なく笑った。


「もうそんなことされたら、好きになる」


 言い終えた瞬間、自分で自分の言葉に遅れて気づいた。


 いや、違う。そんなことされたから好きになったんじゃない。

 ずっと前から好きだった。

 けれど、今その気持ちが溢れてしまっただけだ。


 青がわずかに目を見開く。


「あれは――」


 何か言おうとした、その前だった。


 結愛は自分でも止められなかった。


 半ば衝動のまま、青の胸元を掴んでいた手に少し力を入れ、そのまま顔を近づける。


 そして、唇が触れた。


 短い、本当に短いキスだった。


 時間にすれば一瞬だったはずなのに、結愛には信じられないほど長く感じられた。


 離れたあと、青は完全に硬直していた。


 結愛の心臓は壊れそうなほど速く打っている。


「……結愛?」


 ようやく漏れた声は、驚きそのものだった。


 結愛は自分の唇を指先で軽く押さえ、視線を揺らした。


「ごめん……」


 今さら謝っても、もう遅い。


「我慢できなくて」


 それが本音だった。


 青が優しすぎるから。

 あまりにも、安心させてくれるから。

 このまま何もせずにいたら、たぶん一生後悔する気がした。


「嫌だった?」


 怖かった。


 問いかける声が少し震える。


 青はまだ驚いた顔のまま、数秒黙っていた。結愛にはその沈黙がひどく長く感じられる。


 やがて、青はゆっくりと首を振った。


「いや」


 結愛の呼吸が止まりそうになる。


「びっくりしただけだ」


 それから、ほんの少しだけ困ったように視線を逸らしながら続けた。


「嫌なんか、あるもんか」


 結愛はその一言に、泣きそうとも笑いたいともつかない表情になった。


「……なにそれ」


「事実だ」


「そういう言い方、ずるい」


 青は答えなかった。

 ただ、さっきまでより明らかに落ち着かない顔をしていた。


 その反応が少しだけ嬉しくて、でも同時に切なくもなる。



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