第45話 文化祭、開幕(1)
# 第45話 文化祭、開幕
中間試験が終わった途端、星嶺高校の空気は目に見えて変わった。
それまで教室のあちこちで開かれていた赤本や問題集の代わりに、文化祭の企画書や簡易な配置図、担当表のコピーが広がるようになり、放課後の話題も自然と模擬店やステージのことへ移っていく。
三年生にとっては受験が最優先――それは誰もが理解している。けれど、高校生活最後の文化祭という響きには、それでも心を浮き立たせるだけの力があった。
そして迎えた、文化祭当日。
朝の校舎は、いつもの学校とはまるで別の場所のようだった。
昇降口には来場者用の案内板が立てられ、廊下には色とりどりの装飾が下がっている。教室の前には各クラスの看板やポスターが貼られ、体育館方面からはすでに舞台設営の最終確認をする声が聞こえてきた。
まだ開場前だというのに、校内全体が落ち着かない高揚感に包まれている。
青はそんな空気の中でも、いつも通りの足取りで校舎を進んでいた。
ただし、今日は完全にクラスへ直行というわけにはいかない。
副会長として、生徒会の最終確認が先だった。
生徒会室に入ると、すでに役員たちがそれぞれの持ち場の資料を見直していた。机の上には当日の進行表、緊急時の対応フロー、体育館や中庭の利用時間表、各クラスの企画一覧が整然と並べられている。
凛花は窓際の机で書類に目を通していたが、青が入ってきたことに気づくと顔を上げた。
「おはよう、青」
「おはよう」
「ちょうどよかったわ。一日の流れを、もう一度確認しておきましょう」
凛花の声は落ち着いているが、その奥に普段よりわずかな緊張がある。
文化祭そのものの運営に加えて、今日は特別公演も控えている。生徒会長としても、オーロラ姫役としても、凛花にとっては忙しい一日になるはずだった。
青は資料を受け取り、要点を確認していく。
開会式。
午前の巡回。
各クラスの安全確認。
体育館の進行調整。
昼以降の来場者ピーク対応。
そして午後に予定されている特別公演『眠りの森の美女』。
「こっちは問題ないな」
「ええ。巡回の時間が少し押した場合だけ、体育館側の調整を私が引き受けるわ」
「わかった」
「あと、私達のクラスの企画は人気が出そうだから、混雑したらすぐ連絡して」
「善処する」
「善処じゃなくて、ちゃんと連絡してちょうだい」
凛花が小さく眉を寄せる。
青は短く頷いた。
「わかった」
確認を終え、生徒会室を出るころには、開場までの時間はそれほど残っていなかった。
青は足早に教室へ向かう。
三年A組の教室前には、手作りの看板が掲げられていた。
**『三年A組 メイド/執事喫茶』**
可愛らしい文字と飾り付けは、おそらく女子たちが中心になって仕上げたものだろう。入口の周囲にはリボンや小さな造花があしらわれ、文化祭らしい華やかさが出ている。
だが、教室の中から聞こえてきたのは、そんな浮かれた空気とは少し違うざわめきだった。
「え、なに、この量……」
「ちょっと待って、これ全部今日の分?」
「いやいやいや、多くない!?」
ただならぬ気配に、青はすぐに教室へ入った。
すると、教室の後方、簡易冷凍庫やダンボールを置いたスペースの前に、クラスメイトたちが集まっていた。箱の山。積み上がった軽食用の在庫。想定していた量を明らかに超えている。
「どうした?」
青が声をかけると、人の輪の向こうで結愛が振り向いた。
その顔は、明らかに青ざめていた。
「青……」
いつもの明るさが消えている。手には発注書の控えが握られていて、指先がわずかに震えていた。
青はすぐに状況を察し、彼女のそばまで歩み寄る。
「発注量か」
結愛は小さく頷いた。
「……ごめん」
かすれた声だった。
「私、発注量、間違えた……」
教室の空気が少しだけ重くなる。
結愛は手元の紙を見つめたまま、さらに声を絞り出した。
「確認したつもりだったのに……数の欄、一桁多く入力しちゃってて……。ごめんなさい。私のせいだ……」
そのまま唇を噛み、目元がみるみる潤んでいく。
普段の結愛は、人前でそう簡単に弱さを見せない。明るく振る舞い、場を回し、多少のことなら冗談に変えてしまう。
だからこそ、その取り乱しかけた様子は、彼女がどれだけ責任を感じているかをはっきり物語っていた。
青は積み上がった箱を一瞥したあと、すぐに結愛へ視線を戻した。
「いや」
短く言ってから、教室全体に聞こえるように続ける。
「俺も一緒に確認していた。だから俺も悪い。みんな、ごめん」
教室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
結愛がはっとして青を見る。
「青……」
青は発注書を受け取り、簡単に目を通した。
たしかに、途中確認の段階で気づけた可能性はあった。最終的に注文が通る前に、もっと細かく見ていれば防げたかもしれない。
なら、責任をひとりに負わせるのは違う。
「在庫切れよりはマシだ」
青は落ち着いた声で言う。
「量が多いなら、売り切ればいい」
その言葉に、すぐ反応したのは颯だった。
「そうそう、それな!」
颯はぱんと手を叩き、大げさなくらい明るい声を出す。
「大丈夫だよ、頑張って売りまくればいいだけでしょ。むしろ今日、全員めちゃくちゃ忙しくなるな!」
真凛もすぐに頷いた。
「そうだよ、結愛。しょぼんとしてる場合じゃないって。人手足りなかったら呼び込みも増やせばいいし、押し切れる押し切れる」
「真凛、颯……」
結愛の目に浮かんでいた涙が、今度は少し違う意味で揺れる。
クラスの別の生徒も声を上げた。
「まあ、在庫ないよりはいいよな」
「足りなくて途中終了の方が気まずいし」
「せっかくなら完売目指そうぜ」
「文化祭っぽくて逆に燃えてきた」
前向きな声が、ひとつ、またひとつと重なっていく。
結愛はそのたびに、驚いたように周囲を見回した。
責める声はない。
呆れる空気もない。
むしろ、どう乗り切るかを考える空気へ変わっていく。
青はポケットからティッシュを取り出し、何も言わずに結愛へ差し出した。
結愛は一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑いそうになって、でもうまく笑えずにそのティッシュを受け取った。
「……ありがと」
「今は泣くより準備した方がいい」
「うん……」
結愛はティッシュで目元をそっと押さえ、ひとつ息を吐いた。そして、まだ少し赤い目のまま、ぐっと表情を引き締める。
「みんな、ごめん。でも……ありがとう」
その声は少し震えていたが、さっきまでよりは確かに前を向いていた。
「よし。じゃあ、予定変更なしでいく。売り切るつもりで回そう。呼び込み強化して、提供も止めない。絶対、全部捌くよ」
「おーっ!」
クラスの返事が揃う。
その瞬間、三年A組は一気に戦闘態勢へ入った。




