第44話 文化祭、始動(2)
翌日から、クラスは少しずつ文化祭の準備へ向けて動き始めた。
担当分けの下案を作ったり、必要な備品を洗い出したり、どんな衣装にするのかと盛り上がったり。放課後になると、教室のあちこちで自然と文化祭の話題が出るようになる。
普段は受験勉強の話ばかりしているクラスメイトたちも、この時期ばかりは少し浮き足立っていた。
結愛はそうした空気の中心にいて、誰かの意見を拾い、話を前へ進めていく。学級委員としての手腕は確かで、明るさだけではなく、周囲をまとめる力もあった。
青は主に実務の側を担当した。
必要な作業を整理し、スケジュールを書き出し、足りない項目を確認する。結愛が場を動かし、青が形にする。ふたりの役割分担は、思っていた以上に噛み合っていた。
「青、これも書き足しておいて」
「わかった」
「あと、喫茶スペース何班かに分けた方がいいかな?」
「回す人数次第だな。シフト表も必要になる」
「うわ、文化祭って意外とやること多い」
「今さらか」
「いや、わかってたけどさ」
そんなやりとりをしながら、青はノートに必要事項を書き足していく。
結愛はその横顔をちらりと見て、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「こうしてると、ほんと相棒って感じだね」
「仕事してるだけだ」
「そういうのを相棒って言うんじゃん」
青は返答に困り、結局ペンを動かすことで誤魔化した。
結愛はそんな反応すら面白いらしく、小さく笑っていた。
放課後。
クラスでの準備がひと区切りついたあと、青はいつものように生徒会室へ向かった。
文化祭が近づくにつれて、生徒会の仕事も確実に増えていた。各クラスから上がってくる申請書、使用教室の割り振り、予算確認、ステージ利用の調整、パンフレット関連、校内動線の整理。ひとつひとつは地味でも、数が重なるとかなりの量になる。
生徒会室の扉を開けると、すでに何人かの役員が作業をしていた。
机の上には書類が積まれ、プリントアウトされた一覧表が広げられている。いつもの静かな生徒会室よりも、明らかに“イベント前”の空気が濃かった。
「来たわね、青」
声のした方を見ると、凛花が資料の束を抱えたまま立っていた。
相変わらず整った姿で、無駄のない所作で書類を机へ置く。その仕草ひとつひとつが綺麗なのはいつものことだが、青はここ最近、その姿を見るたびに別の緊張を覚えるようになっていた。
「遅くなった」
「いいえ。ちょうど確認したいことがあったの」
凛花の声音は落ち着いていたが、ほんの少しだけ迷いが混じっているようにも聞こえた。
青はそれに気づき、机の横へ鞄を置いた。
「どの件です?」
凛花は一瞬だけ視線を伏せ、それから意を決したように青を見た。
「……ちょっと困ったことがあるの」
「困ったこと?」
「ええ」
青はすぐに文化祭運営上のトラブルを想像した。申請漏れか、設備の不具合か、予算か、ステージ調整か。
だが凛花の次の一言は、青の予想を大きく外れた。
「演劇の特別公演なんだけど、学校の象徴として、私とあなたが主人公に任命されたわ」
「……は?」
青は数秒、言葉を失った。
理解が追いつかない。
「任命、された?」
「そう」
「誰に」
「文化祭実行委員会と、顧問の先生方の総意だそうよ」
凛花が淡々と説明するほど、内容は淡々としていなかった。
青は眉間を押さえた。
「俺、演技なんてやったことないぞ」
「私もよ」
凛花は静かに返す。
「だから困っているの」
なるほど、たしかに困る。
しかも学校の象徴、という言い方までされると断りづらい。生徒会長である凛花はもちろん、青も副会長として名前が出る以上、完全に無関係ではいられない。
「劇名は?」
青が諦め半分でそう聞くと、凛花はほんの少しだけ言いにくそうな間を置いた。
「……『眠りの森の美女』だそうよ」
「なんとなく内容は知っている」
そこで青の思考が一歩先へ進む。
眠りの森の美女。
オーロラ姫。
王子。
嫌な予感しかしない。
「え。凛花が、オーロラ姫を?」
「ええ」
凛花は短く答えたが、その直後、白い頬にほんのり赤みが差した。
「……そして、青が王子様よ」
「俺が?」
「ええ」
青はしばらく凛花を見つめたまま固まってしまった。
凛花が姫役なのは、まだわかる。容姿だけなら文句のつけようがないし、学校の目玉としても納得がいく。
だが、自分が王子役というのはどう考えても荷が重い。
「なんでそうなる」
「見た目と知名度と、あとバランスらしいわ」
「ひどい選定基準だな」
「私もそう思う」
そう言いながらも、凛花は少しだけ目を逸らした。
自分が姫役で、青が王子役。
その組み合わせを口にするだけで、たぶん彼女の中でも平静ではいられないのだろう。
青は深く息をついた。
「断れないのか」
「……私ひとりでは、たぶん難しい」
凛花が静かに言う。
「生徒会長として名前が出ている以上、学校側の期待を無視しづらいの。青も副会長だから、同じだと思うわ」
それは、もっともだった。
文化祭の特別公演。
学校の顔。
象徴。
そういう言葉を並べられると、合理的に考えても簡単に拒否はしにくい。
青は額に手を当てたまま、しばらく黙り込む。
(文化祭よ、勉強させてくれ……)
内心でそう呟いても、現実は変わらなかった。
凛花はそんな青の様子を見つめながら、小さく息を整えた。
「それで……」
「まだあるのか」
「練習も必要になるわ」
「だろうな」
「一緒に練習してくれる?」
その言い方は、任命を伝えるときよりもさらに柔らかかった。
頼みごとをするときの凛花は、いつもより少しだけ素直になる。
青はその変化に気づきながらも、すぐには答えなかった。
凛花が王子と姫の劇を、自分と一緒に練習する。
その状況を想像しただけで、落ち着かないものが胸の内側をかすめる。
しかも相手は凛花だ。
プールの日のことが、まだ少しも整理できていない相手。
「……必要ならやる」
ようやく出た答えは、結局いつもの青らしいものだった。
凛花はその言葉を聞いて、あからさまではない、けれど確かに安堵したような表情を見せた。
「ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「それでも、言いたいの」
凛花はそう言って、少しだけ微笑んだ。
その微笑みは静かで、けれど以前より近い温度を持っているように思える。
青は視線を逸らすように机の書類へ目を落とした。
「台本はあるのか」
「簡易版があるわ。短くまとめたものらしいけれど、要所はちゃんと押さえてあるそうよ」
「要所、か」
「ええ」
凛花の返事は短かった。
だがその“要所”に何が含まれるのか、ふたりともなんとなく理解していた。
眠りの森の美女。
王子が姫を目覚めさせる物語。
青はそれ以上そこに触れず、代わりに書類を一枚手に取った。
「で、今日は何からやる」
「現実逃避が早いわね」
「仕事は減らない」
「それはそうね」
凛花が少しだけ笑った。
その後も、生徒会の仕事は続いた。
各クラスの企画申請を確認し、危険物の使用がないかをチェックし、教室割りの候補を整理する。体育館ステージの使用時間は競合が多く、調整も簡単ではない。特別公演の段取り、照明設備の確認、パンフレットの掲載順――文化祭は始まる前から、すでに大量の仕事を生み出していた。
青は次々と書類に目を通しながら、クラスの模擬店準備と生徒会の運営業務、その両方が一気に押し寄せてきているのを実感していた。
その上、演劇の主役まで追加された。
受験勉強の時間をどう捻出するか、病院へ行く時間をどう確保するか、頭の中で自然とスケジュールの再構成が始まっている。
「青、この使用申請の時間配分、見てくれる?」
「ああ」
凛花に声をかけられ、青は表へ視線を落とした。
その横顔はもういつもの副会長の顔に戻っている。けれど完全に平静かといえば、そうでもない。
ふとした拍子に、凛花がオーロラ姫の衣装を着る姿が頭をよぎる。
それを無理やり追い払うように、青は資料に集中した。
「ここ、ステージの転換時間が足りない」
「やっぱり?」
「五分じゃ無理だ。最低でも十分は必要だと思う」
「修正するわ」
凛花はすぐにメモを書き込む。
その手元を見ながら、青は改めて思う。
文化祭は、もう始まっている。
教室でも。
生徒会でも。
そしておそらく、自分たちの関係の上でも。
仕事がひと段落したころには、窓の外はすっかり夕方の色になっていた。西日が差し込む生徒会室の中で、書類の白さだけが妙に明るく見える。
凛花はペンを置き、小さく息をついた。
「今日はこのくらいかしら」
「そうだな」
「……青」
「なんだ」
「演劇のこと、本当にありがとう」
「だから、礼はいらない」
「でも、私ひとりだったら、たぶん少し不安だったから」
凛花は正面から青を見る。
その目に宿るのは、信頼と、少しの照れと、そして隠しきれない親しさだった。
「あなたと一緒なら、なんとかなる気がするわ」
青は一瞬だけ言葉を失った。
それは大げさな言葉ではない。凛花は本気でそう思っているのだろう。
だからこそ、余計にまっすぐ胸に届く。
「……そうか」
結局、それしか返せない。
凛花は少しだけ困ったように笑った。
「本当に、そういうところは変わらないのね」
「何の話だ」
「秘密」
そう言って視線を逸らす横顔は、いつもの完璧な生徒会長よりも、少し年相応の少女に見えた。
青はそれ以上追及せず、鞄を手に取った。
クラスではメイド/執事喫茶。
生徒会では文化祭運営。
そして特別公演『眠りの森の美女』。
受験生の二学期とは思えないほど、文化祭は容赦なく彼の日常へ入り込んでくる。
だが、もう動き出したものは止められない。
教室の賑わいも、放課後の忙しさも、凛花に告げられた王子役も。
すべてを抱えたまま、文化祭は少しずつ形を持ち始めていた。
青は生徒会室の扉へ向かいながら、静かに思う。
この先、確実に忙しくなる。
それでも進むしかない。
文化祭は、もう始まってしまったのだから。




