第43話 夏の続きと、二学期のはじまり(2)
休み時間の終わりが近づくころ、結愛が立ち上がってこちらへ歩いてきた。
青の机の横に立つと、結愛は腕を組んで小さく首をかしげる。
「青、あんたさ」
「なんだ」
「二学期初日から、もう勉強モードなの?」
「やることがあるだけだ」
「相変わらず真面目すぎ」
「普通だ」
「普通の高校三年は、もうちょい夏休み明けっぽくぼーっとしてると思うけど」
「それで間に合うならいいんじゃないか」
結愛は呆れたように笑い、それから青の机に手をついた。少しだけ身を乗り出す形になって、ふわりと甘い香りが近づく。
教室の何人かが、面白そうにこちらを見ていた。
「文化祭、どうするの?」
「どうする、というのは」
「クラスの出し物とか。三年だから控えめになるかもしれないけど、なにかしらはやるでしょ」
「決まったことには協力する」
「そういう答えじゃなくてさ」
結愛が少しだけ頬をふくらませる。
「もっと楽しみにしなよ、って話」
「文化祭そのものが嫌なわけじゃない」
「じゃあ、ちょっとは乗り気?」
「必要ならやる」
「うーん、青語だとそれ、たぶんけっこう前向きってことにしとく」
結愛はそう言って笑った。
それから、ほんの少しだけ声音をやわらかくする。
「去年よりは、楽しくなるかもよ」
青は結愛を見上げた。
「結愛は楽しみそうだな」
「え」
思わず、というように結愛の目が丸くなる。
「いや、そりゃ楽しむけど」
「向いてると思う」
「な、なにそれ」
「盛り上げるのが」
「ああ、そっち?」
結愛は一瞬だけ拍子抜けした顔をしたあと、すぐに笑ってごまかした。
「……まあ、そりゃそうだけど」
耳がほんの少し赤い。
青はそれ以上追及しなかったが、結愛の機嫌が少し上向いたことくらいはわかった。
「じゃあさ」
結愛はすっと笑みを戻し、少しだけいたずらっぽい目で言った。
「文化祭、一緒に回る相手いなかったら私が付き合ってあげよっか」
「別に一人でも困らない」
「そこは『考えとく』とか言えないの?」
「事実だから」
「もう」
結愛が軽く睨む。
そのやりとりを見ていた近くの女子たちが小さく笑い、男子のひとりが「相変わらずだな、氷凪」とからかうように呟いた。
結愛はぱっとそちらを振り向く。
「なに見てんの」
「いや、別にー?」
からかい半分の返事に、結愛はますます照れたように髪をかき上げた。
青はその様子を見ながら、どう返すのが正解だったのか一瞬だけ考えたが、答えは出なかった。
結愛は最後に小さく息をつくと、いつもの調子で言う。
「ま、文化祭のときに一人でいたら声かけるから」
「そうか」
「そうか、じゃないの」
それでも結愛の表情は、さっきより明るかった。
授業が進み、昼休みになる。
青は購買で買ったパンを片手に、比較的人の少ない渡り廊下の窓際に立っていた。外ではまだ強い日差しが校庭を照らしている。運動部の掛け声が遠くから聞こえ、夏と秋の境目のような時間が校舎を包んでいた。
「青」
不意に、後ろから名前を呼ばれる。
振り向くと、そこに凛花がいた。
白い肌に銀髪が映えて、窓から差し込む光の中でその姿だけが妙に鮮明に見える。相変わらず整った美貌で、制服の着こなしにも隙がない。だが、青の胸をざわつかせたのは外見ではなく、その声だった。
以前よりほんの少しだけ、やわらかく聞こえた。
「……どうした」
「少しいいかしら」
「問題ない」
凛花は青の隣まで歩いてきた。距離が近づいた瞬間、青の中で不意にあの日の記憶が跳ねる。
泣いていた顔。
指先の震え。
そして、触れた唇。
青は無意識に呼吸を浅くしていた。
凛花はそんな青の変化に気づいたようだったが、何も言わなかった。ただ静かに校庭へ視線を向けてから、用件を口にする。
「文化祭の件で、生徒会も少し動き始めるの。二学期は例年より忙しくなりそうだから、また手を借りることがあるかもしれないわ」
「わかった」
「即答なのね」
「断る理由がない」
「……そう」
凛花の唇に、ごく薄い笑みが浮かぶ。
その笑みを見た瞬間、青はますます落ち着かなくなった。
凛花が微笑むこと自体は珍しくない。けれど今のそれは、以前とは少し違って見える。ほんの少しだけ、距離が近い。
「あなたも、受験勉強で忙しいのはわかっているわ」
凛花は青を見つめた。
「だから、無理をしない範囲ででいいの。でも……頼りにしている」
「……そうか」
それだけ返すのがやっとだった。
青の反応に、凛花は小さく首をかしげる。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「本当に?」
「ああ」
青は視線を窓の外へ逃がした。
凛花は少しのあいだ黙っていたが、追及はしなかった。その代わり、以前よりわずかにやさしい声音で言う。
「二学期も忙しくなるわね」
「そうだな」
「文化祭も、受験も」
「……ああ」
「でも、きっとあっという間よ」
その言葉は、朝のホームルームで如月先生が言っていたこととどこか重なって聞こえた。
凛花はそこでふっと表情を和らげる。
「だからこそ、後悔しないようにしたいわ」
その一言に、青の胸が静かに揺れた。
後悔しないように。
それは、ただ文化祭や受験の話だけではないように聞こえてしまう。
「……凛花」
名前を呼んだところで、その先の言葉が出てこなかった。
何を言えばいいのかわからない。
何を確認したいのかも、自分で整理できていない。
凛花はそんな青をまっすぐ見つめたまま、ほんの少しだけ目を細めた。
「なに?」
「いや……」
結局、青は首を横に振る。
「なんでもない」
「そう」
凛花はそれ以上は聞かず、代わりに穏やかに微笑んだ。
「ならいいわ。また連絡する」
「ああ」
去っていく後ろ姿を見送りながら、青は小さく息を吐いた。
なんでもないはずがなかった。
ただ、自分の中でまだ言葉にならないだけだ。
昼休みが終わり、午後の授業が始まる。
黒板に書かれる文字を追いながらも、青の思考は完全には授業へ戻りきっていなかった。
隣の列では、結愛が先生に当てられてはきはき答え、後ろのほうでは颯がぎりぎり真面目な顔でノートを取っている。日常はちゃんと戻ってきているのに、その内側だけが少しずつ変わっている気がした。
放課後になると、教室は再び賑やかになった。
「文化祭、何やるんだろー」
「三年だし、がっつりは無理じゃない?」
「でも最後だし、なんかやりたいよね」
「模擬店いいなー」
「飲食は準備大変じゃない?」
そんな声が次々に飛び交う。
颯はさっそく机の上に半分腰掛けるようにして、まわりを巻き込みながら騒いでいた。
「いや、ここは王道でメイド喫茶だろ」
「男子クラスで何言ってんの」
「じゃあ執事喫茶」
「需要どこ?」
教室に笑いが起こる。
結愛もその輪の中で楽しそうに声を上げていた。
「でも、普通に写真映えするやつはありじゃない? 最後だし、思い出にもなるし」
「さすが結愛、そういうの得意そう」
「でしょ?」
胸を張る結愛の姿に、クラスメイトたちがまた笑う。
青は鞄に教科書をしまいながら、その様子を少し離れたところから見ていた。
以前なら、自分にはあまり関係のない騒がしさだと思っていたはずだ。
文化祭も、行事のひとつでしかなかった。
けれど今は、そう言い切れない。
そこに結愛がいて、颯がいて、凛花との接点もきっとある。場合によっては紬や如月先生まで関わってくるかもしれない。
面倒だと思う気持ちがないわけではない。だが、それだけでもなかった。
「青」
顔を上げると、結愛が輪を抜けてこちらへ来ていた。
「帰るの?」
「ああ」
「病院?」
「その前に少し寄るところはあるが、たぶん行く」
「そっか」
陽葵のことを、結愛はもう自然に気にかけてくれる。
そのことに、青は言葉にしづらいありがたさを覚えていた。
「無理しないでね、青も」
「問題ない」
「その台詞、ほんと便利だよね」
「便利だから使ってる」
「なにそれ」
結愛はくすっと笑った。それから少しだけ声を落とす。
「……でも、ほんとに無理しすぎたらだめだからね」
青はわずかに目を細めた。
「わかった」
「うん」
たったそれだけの会話なのに、結愛は少し安心したように頷いた。
そのとき、後ろから颯の声が飛んでくる。
「おーい結愛、文化祭案まとめるならお前も来いって」
「はーい、今行く!」
結愛は振り返って返事をしたあと、もう一度青を見た。
「じゃ、また明日」
「ああ」
「次はもうちょいマシな返事期待してる」
「善処する」
「それ、たぶんしないやつじゃん」
結愛は笑ってそう言うと、軽く手を振ってクラスメイトたちの輪へ戻っていった。
教室のざわめきはまだ続いている。
文化祭。
受験。
二学期。
どれも、これから確実に近づいてくるものだった。
青は教室の窓から外を見た。傾き始めた光が校舎の壁を照らし、夏の名残をゆっくりと押し流していく。
夏は終わったはずだった。
花火の夜も、プールで過ごした時間も、もう過去の出来事のはずだった。
それなのに、そこで生まれたものだけは、まだ終わっていない。
誰かの笑顔も。
ふとしたときに思い出すぬくもりも。
胸の奥に残った、説明のつかないざわめきも。
それらを名前で呼ぶには、青はまだあまりにも鈍く、そして不器用だった。
けれど確かなのは、何かが少しずつ動き始めているということだ。
二学期が始まる。
文化祭も、受験も、その先に待つものも、もう止まらない。
青は鞄を肩にかけ、静かに教室をあとにした。
新しい季節の入口に立ちながら、まだ夏の続きを胸のどこかに残したまま。




