第43話 夏の続きと、二学期のはじまり(1)
# 第43話 夏の続きと、二学期のはじまり
九月に入っても、朝の空気はまだ夏の名残を色濃く残していた。
駅から学校へ続く坂道を歩きながら、氷凪青は、照り返しの強いアスファルトを静かに見下ろしていた。制服の袖口に触れる風はわずかにやわらかくなっているのに、日差しだけは相変わらず容赦がない。
長かったはずの夏休みは、終わってみると驚くほどあっという間だった。
青にとって、この夏は勉強だけをして過ごした時間ではなかった。講習があり、病院へ通い、花火大会があり、そしてプールにも行った。
それだけ並べれば、どこにでもある高校生の夏休みのように聞こえるかもしれない。けれど青にとっては、そのどれもがどこか現実味を欠いていて、今でも整理のつかないまま胸の奥に残っていた。
とくに――。
不意に、あのときの感触が脳裏をかすめる。
人目の少ない場所。
泣いていた凛花。
震える肩。
そして、顔を上げたあとに触れた、やわらかな唇。
青は足を止めかけ、すぐに歩幅を戻した。
「……二学期か」
誰に聞かせるでもなく、短く呟く。
そこで思考を切り替える。
夏休みが終わった以上、やることははっきりしていた。受験までの時間は確実に減っている。文化祭があるとはいえ、三年生に残された日数は決して多くない。浮かれている余裕など、本来はないはずだった。
そう考えるのに、心のどこかが妙に落ち着かなかった。
校門の前に着くと、久しぶりの学校に浮き立った生徒たちの声があちこちから聞こえてきた。
「うわ、宿題ギリギリで終わったー」
「焼けたねー」
「まじで? 海行ったの?」
「いや、それ部活焼け」
いつもの騒がしさ。
けれど、夏休み明け特有の少し弾んだ空気が混ざっている。
青はそれらを横目に見ながら昇降口へ向かった。靴を履き替え、教室へ入る。
久しぶりの三年A組は、始業前だというのに妙に賑やかだった。机を囲んで夏休みの話をする者、課題の答え合わせをする者、文化祭の噂をしている者。どの顔にも、まだ夏の熱が残っている。
「お、来た来た」
教室へ入った青を見つけるなり、葉山颯がにやりと笑って近づいてきた。
「青、お前さ。なんかこの夏、やたらイベント多くなかった?」
「普通だ」
「普通のやつは花火行ってプール行って、しかも周り美少女だらけ、みたいな夏休みにならねえんだよ」
「知らない」
「知らないで済ませるの、ずるくない?」
颯は大げさに肩をすくめた。
その仕草に、近くの席の男子がくすくす笑う。
青は自分の席に鞄を置いた。机の中は空っぽのままで、休み前と変わらない。変わったのは、周囲の空気と――おそらく、自分のまわりの人間関係のほうだろう。
「ていうか青、お前、二学期もそんなテンションでいくわけ?」
「別に変える理由がない」
「あるだろ。青春ってやつが」
「葉山には多すぎるくらいあるだろ」
「お、珍しくちょっと返してきたな」
颯が楽しそうに笑う。
そのとき、教室の後方で女子たちの声が少し高くなった。何気なく視線を向けると、結愛が友人たちに囲まれながら笑っていた。金メッシュの入った明るい髪が、朝の光を受けてきらりと揺れる。
目が合う。
結愛は一瞬だけぱちりと瞬きをして、それからいつものようににこっと笑った。
「おはよ、青」
「おはよう」
たったそれだけのやりとりだったのに、結愛の笑顔はどこか夏休み前よりやわらかく見えた。
青がそう感じた次の瞬間、教室の前の扉が開く。
「はい、席について」
落ち着いた声とともに如月雫が教室に入ってきた。ピンクがかった髪がさらりと肩を流れ、夏休み明けでも隙のない美しさは変わらない。
教室のざわめきが少しずつ収まっていく。
青も椅子を引いて腰を下ろした。
如月先生は出席簿を机に置くと、教室全体を見渡した。
「夏休み明けだからって、まだ頭が休みのままの人はいないでしょうね」
何人かが苦笑し、教室に小さな笑いが広がる。
「二学期は文化祭もあるし、学校としてはそれなりに忙しい時期になるわ。でも、あなたたちは三年生。言うまでもなく受験に向けた大事な時期よ」
そこで一度言葉を切り、雫は静かに続けた。
「行事を楽しむなとは言わない。むしろ、やるなら全力でやりなさい。ただし、受験に向けた手を抜かないこと。勉強も行事も中途半端が一番よくないわ」
「はーい」
教室中から、どこか気の抜けた返事が返る。
雫はわずかに眉を上げた。
「その返事で本当に大丈夫かしら」
今度は先ほどより少しだけ大きな笑い声が上がった。
「文化祭のことは、ホームルームや委員会で今後決めていくことになると思うけれど、三年生だからこそできる形でちゃんと参加しなさい。高校生活の行事は、思っているよりすぐ終わるから」
その一言が、不意に胸に引っかかった。
高校生活の行事は、思っているよりすぐ終わる。
それは事実だった。夏休みだってそうだ。気づけば終わり、振り返ればもう戻れない。
青は何も言わず、手元の筆記用具を見下ろした。
始業式や配布物の確認が終わり、最初の休み時間になると、教室の空気は再び一気に緩んだ。
あちこちで席を立つ音がして、話し声が広がる。青は次の授業のためにノートを出し、配られたプリントに軽く目を通していた。
すると、斜め前の席で真凛が結愛の机に肘をついた。
「ねえ結愛」
「ん?」
「青とは進展あったの?」
青の耳に届いたその言葉に、手が一瞬止まる。
だが、顔は上げない。視線もノートに落としたままにする。
「んー……」
結愛は少しだけ考えるように間を置いてから、頬杖をついた。
「キス以来、そんな進展ないかなー」
「……は?」
真凛の声が素っ頓狂に裏返った。
「キス? いつのまにキスしたのさ」
「声おっきいって」
結愛が慌てて真凛の口元に手を伸ばす。真凛は目を丸くしたまま、ぐいっと結愛に顔を寄せた。
「いやいやいや、待って。そこ一番大事なところじゃん。なにそれ、全然聞いてないんだけど」
「……あれは、なんていうか、突然のトラブルの中で、みたいな感じだったし。そんなムードのあるもんじゃないよ」
「でもキスはキスでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
結愛は少しだけ目を逸らし、照れたように髪を指先でいじった。
その横顔は、いつもの明るいギャルの表情というより、年相応の女の子のものだった。
「夏も花火大会やプールも行ったけど、二人っきりじゃなかったし。なんかこう……進んだようで、ちゃんと進んでないっていうか」
「なにそれ、もどかしすぎる」
「でしょ?」
結愛が苦笑する。
青はノートをめくるふりをしながら、会話を聞かないようにすることも、聞こえないふりをすることもできずにいた。
キス以来。
たった一言で、結愛とのあの出来事まで鮮明によみがえってくる。
あれもまた、平常の延長にはない出来事だった。
夏は、どうかしていたのかもしれない。
「真凛はどうなのさ」
結愛が話題を返す。
「うーん……あいつはだめ。すぐ他の女の子のところ行っちゃうし」
「ああ、颯は軽いからねー」
「そうなんだよ。話しやすいし、優しいし、モテるし、余計に不安になるっていうか……」
真凛が小さく唇を尖らせる。
それを見た結愛は、さっきまで自分の恋の話をしていた顔のまま、今度は親友を励ます側に回った。
「でも、真凛のまっすぐな気持ちをちゃんと伝えたら、颯って意外と答えてくれると思うんだけどな」
「そうかな」
「そうだよ。あいつ、軽そうに見えて、案外ちゃんと見てるし」
「結愛が言うなら、ちょっと信じようかな……」
真凛はそう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。
結愛もつられて笑う。けれど次の瞬間、その笑みにほんの少しだけ真剣な色が混じった。
「私も頑張ってみる。ライバル多いんだけどね」
「……いるもんね」
「いるんだよ」
凛花のことを思い浮かべたのか、それとも紬のことまで含めているのか。たぶん、そのどちらもだろう。
結愛は大げさではない、けれど確かな覚悟をにじませるようにそう言った。
その言葉に、青の指先がまた少しだけ止まる。
自分が思っている以上に、まわりは前へ進もうとしているのかもしれない。




