第42話 夏の終わりの帰り道(2)
◇
最後に、売店でアイスを買った。
「冷たーい!」
結愛が嬉しそうに言う。
紬は慎重に一口食べて目を輝かせた。
「美味しいです!」
凛花は小さく微笑む。
青は黙って食べていたが、結愛が突然言った。
「青、ちょっと一口ちょうだい」
「……なぜ」
「味見」
断る間もなくスプーンを差し出される。
青は仕方なく一口すくった。
その直後、紬も言う。
「私も欲しいです」
さらに凛花も静かに。
「……私も」
三方向からの要求。
青は数秒黙ったあと、無言で差し出した。
結愛、紬、凛花の順に食べる。
「……」
青は何も言わなかったが、耳が赤い。
結愛がにやっと笑う。
「間接キスだね」
青の動きが止まった。
紬も「えっ」と固まる。
凛花は一瞬だけ目を伏せた。
「……別に」
青はそう言ったが、声がわずかに硬い。
結愛は楽しそうに笑った。
「反応わかりやすい」
◇
こうして午後の時間は、笑い声とともにゆっくりと過ぎていった。
楽しくて、騒がしくて、少しだけ特別な、夏の終わりのひととき。
同じ場所にいながら、それぞれが少しずつ違う時間を過ごしている。
◇
夕方。
更衣室で着替えを済ませ、四人は再び入口付近に集まった。
濡れていた髪もほとんど乾き、空は夕焼けの色に染まり始めている。
「はー……楽しかったー!」
結愛が大きく伸びをした。
「楽しかったですー!」
紬も満面の笑みだ。
対照的に――
「……疲れた」
青が小さくつぶやく。
「私も……」
凛花も同意するように息をついた。
精神的な疲労の方が大きいのかもしれない。
「じゃあ、ここで解散かな?」
結愛が言う。
「私と凛花ちゃんはこっちだから」
「ええ」
凛花はうなずいた。
ほんの一瞬だけ、青の方を見る。
何か言いたそうな、けれど言わない視線。
「今日はありがとう」
それだけを残して、結愛と凛花は並んで歩き出した。
夕日に照らされた二人の背中が、人混みの中へ溶けていく。
◇
残ったのは青と紬だった。
「じゃあ、駅まで一緒ですね」
「そうだな」
並んで歩き出す。
日中の熱気はまだ残っているが、風は少しだけ涼しくなっていた。
プール帰りの人々が同じ方向へ流れていく。
「どうでした?」
紬が横から覗き込むように言った。
「何がだ」
「私の水着です」
少し頬を染めながら、しかし期待を隠せない声だった。
「青先輩のために、結構頑張ったんですよ」
青は一瞬驚いたように目を見開く。
「……そうだったのか」
「はい」
紬はうなずく。
「なんか悪いな」
「え?」
「そこまでさせたなら」
青は少し考えてから、正直に言った。
「でも、似合ってた。可愛かった」
紬が固まった。
数秒後、顔が一気に真っ赤になる。
「そ、そんなにストレートに言われると……恥ずかしいです」
「本当にそう思っただけだ」
「もういいです……わかりましたから」
紬は顔を隠すように前を向いたが、口元は嬉しそうに緩んでいた。
少し沈黙が流れる。
やがて紬がぽつりと言った。
「私、あれからたまに陽葵ちゃんのお見舞いに行ってるんです」
青の歩みがわずかに緩む。
「……そうなのか」
「はい。同い年ですし、すごく話が合って。楽しいんです」
紬は柔らかく笑う。
「同じクラスにいたら、きっと仲良しになれたと思います」
青の胸の奥が、静かに温かくなった。
「ありがとう、紬」
素直な言葉だった。
「これからも陽葵に会いにいってやってくれ」
「はい。頼まれました」
紬は嬉しそうにうなずいた。
そして少しだけ声の調子を変える。
「あの、青先輩」
「ん?」
「この前、年上が趣味って言ってましたよね」
青の表情が一瞬止まる。
「あれは……とっさについた嘘というか」
「じゃあ、年下とかって、だめですか?」
上目遣い。
真正面からの質問だった。
青は答えに詰まる。
「気にしないでくれ」
「じゃあ、先輩の好みってどんな人なんです?」
「なんだよ、突然」
「気になるんです!」
紬はぐっと距離を詰めた。
「結愛先輩みたいな人ですか? それとも凛花先輩みたいな人ですか?」
「いや、なんで二人が――」
言いかけて、青の思考が止まる。
脳裏に浮かぶのは、さっきのキス。
凛花の近すぎる顔。
触れた感触。
顔が一気に熱くなる。
「……」
「顔、赤いですよ?」
紬が目を丸くする。
「あ! やっぱりどっちかが好みなんですね!」
「違う」
「じゃあなんで赤くなったんですか?」
「それは……」
青は視線を逸らした。
「さっき、男性に絡まれていたときのことを思い出して……申し訳ないことをしたなと」
苦しい言い訳だった。
だが、完全な嘘でもない。
「青先輩のせいじゃありません」
紬は真剣な声で言う。
「確かにちょっと怖かったですけど、すぐに来てくれましたし」
青は小さく首を振る。
「男の俺が離れたからだ」
「そんな……」
紬は少しだけ考えてから、ふっと笑った。
「心配なら、前みたいにずっとそばにいてください」
「……ん?」
青が振り向く。
紬は一瞬目を合わせ、すぐに逸らした。
「わ、冗談です!」
顔が真っ赤だ。
「……何か困ったことがあるのか?」
「ないです!」
即答だった。
「学校も楽しいですし……」
少しだけ声が小さくなる。
「全部、青先輩のおかげです」
青は何も言わなかった。
こういうとき、何を返すのが正解なのかわからない。
やがて駅前が見えてきた。
「私、ここなので」
紬が足を止める。
「今日はありがとうございました」
深く頭を下げた。
顔を上げたとき、その表情は少しだけ寂しそうだったが、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「また学校で」
「ああ」
紬は手を振り、小走りで改札の方へ向かっていった。
その背中を、青はしばらく見送る。
◇
一人になる。
夕焼けが街を赤く染めていた。
人の流れは絶えないが、どこか一日の終わりの静けさがある。
青はゆっくり歩き出した。
頭の中は、やはり同じ場所に戻る。
ベンチ。
凛花の涙。
震える声。
そして――キス。
(……何だったんだ、あれは)
答えは出ない。
恋愛というものを前提にしていない青の思考では、処理の仕方がわからない。
だが、確かなことが一つある。
あの瞬間、凛花は確かに笑っていた。
安心したような、嬉しそうな、どこか満たされたような笑顔だった。
それを思い出すと、胸の奥が妙にざわつく。
不快ではない。
だが落ち着かない。
どうしていいかわからない感覚。
夏の終わりの風が、頬を撫でた。
楽しかった一日。
騒がしくて、疲れて、でも確かに特別だった時間。
そして、もう戻れないところまで何かが進んでしまった気がする。
プールの歓声はもう聞こえない。
代わりに、夕暮れの街の音だけが静かに響いている。
青は空を見上げた。
赤く染まる雲の向こうに、夜が近づいている。
夏はまだ終わっていない。
けれど、確実に何かが変わった。
それだけは、はっきりしていた。




