第42話 夏の終わりの帰り道(1)
# 第42話 夏の終わりの帰り道
氷凪青が戻ってきたとき、三人はすでに食事を始めていた。
プールサイドのテーブルの上には、焼きそばやポテト、ハンバーガー、飲み物が並んでいる。人の多さと暑さで少しぬるくなりかけているが、遊び疲れた身体には十分すぎるご馳走だった。
「遅いですよー、青先輩」
紬が頬をふくらませながら言う。
「何してたんですかー?」
結愛も半分冗談のように責める口調だった。
そのとき、凛花がすっと人差し指を口元に当てた。
「しー」
静かな合図。
二人は一瞬きょとんとしたが、それ以上は何も言わなかった。
青は椅子に座る。
だが、視線はどこにも定まらない。
(……さっき、何があった)
頭の中で何度も同じ場面が再生される。
ベンチ。
凛花の震える身体。
胸に触れた温もり。
そして――唇に触れた、あの一瞬の感触。
(凛花が……俺に……キス?)
現実感がない。
夢だったのではないかとすら思える。
だが、唇に残る微かな熱が、それを否定する。
「これ美味しいわ。はじめて食べたかも」
凛花は何事もなかったかのようにハンバーガーを一口かじった。
「でしょー? 私が選んだの」
結愛が得意げに胸を張る。
「結愛先輩はセンスがいいですよねー」
紬が素直に感心する。
三人の会話はいつも通りだった。
まるで、ついさっきの出来事など存在しなかったかのように。
青だけが別の場所に取り残されている。
「青、食べないの?」
結愛が不思議そうに言う。
「……ああ」
青はようやく現実に引き戻されたように、紙皿を手に取った。
口に入れても味がよくわからない。
ただ咀嚼して飲み込むだけだ。
凛花と目が合いそうになるたび、無意識に視線を逸らしてしまう。
凛花はそんな青を横目で見ながら、何も言わずにジュースを飲んだ。
その頬はほんのり赤い。
だが、それを指摘する者はいない。
◇
昼食を終えたあと、四人はしばらく日陰で休憩してから、再びプールへ向かった。
「午後は波のプール行きたい!」
結愛が真っ先に立ち上がる。
「賛成ですー!」
紬も元気よく手を上げた。
「人が多そうだけど、大丈夫?」
凛花が周囲を見渡す。
「まあ、多少は仕方ないだろ」
青が答えると、結愛がにやりと笑った。
「青がいるから平気でしょ」
「どういう理屈だ」
「なんか守ってくれそうじゃん」
青は返事をしなかったが、凛花がほんの少しだけ視線を伏せた。
◇
波のプールはすでにかなりの人で埋まっていた。
遠くのスピーカーから「大きな波が来ます」のアナウンスが流れ、水面がゆっくりと盛り上がっていく。
「うわ、結構すごい」
結愛が楽しそうに言う。
「近くまで行きましょう!」
紬が青の手を引いた。
波が来る。
予想以上の高さだった。
「きゃっ!」
紬がバランスを崩し、反射的に青にしがみつく。
柔らかい感触が腕に押し当てられ、青の思考が一瞬止まった。
「す、すみません!」
紬は慌てて離れたが、次の波でまた押し戻される。
今度は完全に抱きつく形になった。
「離れると流されそうで……!」
「……掴まっていろ」
青は短く言う。
結愛がその様子を見て頬を膨らませた。
「ずるい」
「何がだ」
「私も掴まる」
そう言って、反対側の腕にしがみつく。
「危ないだろ」
「危ないから掴まってるの」
結果、青は両腕を二人に掴まれたまま波を受ける形になった。
身動きが取れない。
「……」
凛花は少し離れた位置からその光景を見ていた。
表情は冷静だが、指先だけがわずかに握られている。
大きな波が来た。
紬と結愛が同時に青へ押しつけられる。
両側からの圧力。
青は完全に固まった。
(これは……どうすればいい)
凛花はため息をつくと、ゆっくり近づいてきた。
「三人とも、離れなさい」
冷静な声。
「転ぶわよ」
もっともな理由だった。
二人はしぶしぶ離れる。
凛花は青の腕を軽く取った。
「私の近くにいれば大丈夫よ」
そのまま自然な動作で隣に立つ。
結愛が目を細める。
「……あれ?」
紬はきょとんとしている。
青は何も言えなかった。
◇
波のプールを出たあと、四人はしばらく浅い場所で遊んだ。
結愛が水をすくって青にかける。
「ほらっ!」
「やめろ」
「やめない」
さらにもう一度。
青は無言で水をすくい返した。
「……!」
結愛の顔に直撃する。
「ちょっと! 本気じゃん!」
「先にやったのはお前だ」
紬が楽しそうに笑いながら二人に水をかける。
「私も混ざります!」
「ちょ、紬ちゃんまで!?」
凛花は最初距離を取っていたが、結愛に水をかけられてしまった。
「……結愛ちゃん?」
静かな声。
「ご、ごめん!」
だが次の瞬間、凛花も控えめに水をすくい返した。
その攻撃は正確で、結愛の肩に当たる。
「凛花ちゃんまで!?」
四人の笑い声が重なる。
◇
その後、流れるプールに戻り、四人は大きな浮き輪を借りた。
「四人で乗れますかね?」
紬が言う。
「ちょっと狭そうだけど」
「詰めればいける」
結果、かなり密着した状態になった。
結愛が青の左側、紬が右側、向かいに凛花。
脚が触れ、肩が触れ、逃げ場がない。
「……近い」
青が小さく言う。
「夏だから」
結愛がにやりとする。
紬は浮き輪の縁に顎を乗せて、青を見上げた。
「青先輩、眠そうです」
「少し」
「寄りかかっていいですよ?」
「いい」
「遠慮しないでください」
「遠慮ではない」
凛花はそのやり取りを見ながら、ジュースを一口飲む。
「青、日焼けしすぎるとよくないわ」
そう言って、さりげなく自分の影になる位置に青を引き寄せた。
結果、さらに距離が近くなる。
結愛がじっと見る。
「……なんか今日、凛花ちゃん積極的じゃない?」
「そんなことないわ」
「あるよ」
凛花は何も答えず、前を向いた。
耳がわずかに赤い。




