第41話 守られた温もり(2)
◇
「ねえ、二人可愛いね」
男の一人が、へらへらと笑いながらテーブルに近づく。
「一緒に楽しまない?」
凛花と紬は、明らかに相手にしない態度を取っていた。
紬は困ったように愛想笑いをしているが、返事はしない。凛花に至っては、ほとんど視線すら向けていない。
「……」
無視。
それが一番わかりやすい拒絶だった。
けれど、男たちは空気を読む気がない。
「ねえって」
「無視とかひどくない?」
「ちょっと話すだけじゃん」
距離が少しずつ詰まる。
紬は椅子に座ったまま、困ったように手を握った。
「すみません、連れがいるので……」
やんわり断る。その声は小さいが、はっきりしていた。
しかし男の一人が鼻で笑う。
「連れ? どこ?」
「今いないじゃん」
もう一人がそう言って、紬の顔を覗き込むように屈む。
凛花の眉がわずかに寄った。
「やめてください」
冷たい声。
それでも男たちは引かない。
「うわ、すげえ美人」
「その顔でそんな冷たいの、逆にいいな」
「つれないなあ」
凛花は表情を変えなかったが、明らかに空気が強張っていた。
「無視してんじゃねえよ」
男の一人が苛立ったように吐き捨てる。
次の瞬間、その手が凛花の肩に伸びた。
触れられた瞬間、凛花の身体がびくりと強張った。
心臓が、一気に嫌な音を立てる。
肩に置かれた手の重さ。
近すぎる距離。
笑っているのに目が笑っていない男の顔。
――だめ。
頭の奥で、別の記憶が蘇る。
満員電車。逃げられない車内。身体に触れてきた気持ち悪い手。声が出せず、呼吸だけが浅くなる感覚。
視界が一瞬揺れた。
「おい、その手を――」
結愛の怒った声が飛ぶ。
けれど、その言葉が最後まで出るより早く。
すでに青は動いていた。
トレーを近くの台に置き、男の腕を強く掴む。
「触らないでくれますか」
静かな声だった。
だが、そこに込められた圧は明確だった。
男が顔をしかめる。
「は?」
青の目は冷たい。普段の淡々としたそれとは違う、温度のない鋭さがあった。
「その人たちに、触らないでください」
「何だよ、お前」
「連れです」
青は一歩前に出る。男の腕を掴む手には一切の迷いがない。
そして、相手をまっすぐ見据えたまま、言った。
「俺の彼女なんで」
一瞬、空気が止まる。
結愛が息を呑み、紬が目を丸くする。凛花は恐怖の余韻の中で、その言葉だけを鮮明に聞いた。
俺の彼女。
誰のことを指しているのか、状況的には曖昧にした言い方だった。だが、青がそれを“場を収めるための最適解”として選んだことはわかる。
それでも。
それでも、その一言の破壊力は大きすぎた。
男たちは青の表情と、穏やかではない空気をようやく理解したのか、舌打ちをした。
「ちっ、男連れかよ」
「最初から言えよ」
「行こうぜ」
三人は悪態をつきながら、その場を離れていった。
完全に姿が見えなくなるまで、青は視線を外さなかった。
やがて危険が去ったと判断してから、結愛が真っ先に駆け寄る。
「凛花、紬ちゃん、大丈夫?」
「わ、私は……」
紬は不安そうに胸元を押さえていたが、どうにか平静を保っていた。
だが、凛花は違った。
顔色が悪い。肩が小さく震えている。唇もわずかに青ざめていた。
「凛花」
青が低い声で呼ぶ。
凛花は返事をしようとしたが、うまく声が出なかった。
「……ちょっと移動しようか」
青は周囲を見た。
人の多いテーブルの近くでは落ち着けない。視線もある。ざわついたままでは、凛花の呼吸も整わないだろう。
「結愛、紬を少しだけ頼む」
「う、うん」
結愛はすぐに察した。今は凛花を先に落ち着かせる方がいい。
青は凛花の前にしゃがみ、無理のない声で言う。
「歩けるか」
凛花は小さくうなずいた。
青はそのまま手を差し出す。凛花は少しためらってから、その手を取った。
指先が冷たい。
そのまま二人は、プールサイドの少し外れた、人目の少ないベンチへ移動した。
◇
ベンチの周辺は、人通りこそあるものの、テーブル席の喧騒からは少し離れていた。近くの植え込みがちょうど視線を遮り、落ち着ける空間になっている。
青は凛花をベンチに座らせ、自分も隣に腰を下ろした。
「……大丈夫だ」
まずは短く、それだけ伝える。
凛花は両手を膝の上で強く握りしめていた。肩がまだ細かく震えている。
青は少しだけ迷ってから、その頭にそっと手を置いた。
「もう大丈夫だ。すまん、俺が離れたからだ」
その言葉に、凛花の張りつめていた糸が切れた。
「……怖かったよ」
かすれた声。
次の瞬間、凛花は青の胸元に顔を埋めるように身を寄せてきた。
青の身体がわずかに強張る。
だが、拒まない。
ただ静かに、その背中に手を回した。
「よしよし……もう大丈夫だから」
自分でも少し不器用だと思う言い方だったが、凛花は青の上着を小さく掴んだまま、肩を震わせた。
「……痴漢の時を、思い出しちゃって……」
胸元に押しつけられた声は、弱く、震えていた。
青の表情がわずかに曇る。
以前聞いたことのある話。凛花が強く、完璧に見えて、実はそういう傷を抱えていることを知ったときのことを思い出す。
「……そうか」
余計な慰めは言わない。
軽い励ましで消える種類の恐怖ではないことを、青はわかっていた。
だからこそ、ただ受け止める。
「もう誰も来ない。ここにいる」
その一言に、凛花の肩の震えがほんの少しだけ和らいだ。
青は凛花の背をゆっくりさする。
規則正しく、落ち着かせるように。
遠くで子どもたちの歓声が聞こえる。さっきまで自分たちもその賑やかさの中にいたはずなのに、今は別の場所にいるようだった。
凛花はしばらく何も言わなかった。
ただ、青の胸に額をつけたまま呼吸を整えていく。
青もまた、急かさない。
時間をかけていいと、態度で示す。
やがて、凛花が小さく顔を上げた。目元は赤いが、呼吸はかなり落ち着いている。
「……ごめんね」
「何がだ」
「また、こんなふうに……」
凛花は泣いたことを恥ずかしがっていた。
完璧でありたい彼女にとって、人前で弱さを見せることは本来とても苦手なはずだ。
「泣いてるの、見られちゃったね」
「問題ない」
青は即答した。
「凛花の弱い部分も含めて、好きだから」
言ってから、自分でも一瞬だけ思考が止まった。
凛花も同じだった。
「……え?」
空気が静かに固まる。
青は珍しく、明らかにうろたえた。
「あ、いや……その……」
言葉を探す。修正しようとする。だが、出てきた言葉はいつもよりずっと不器用だった。
「そういう意味じゃなくて……凛花の、そういうところも含めて、凛花だと思っている、というか……その……」
自分でも何をどう言い換えたいのか、完全には整理できていない。
ただ、さっきの言葉が本心だったことだけは確かだった。
強くて、完璧で、凛としている凛花だけではなく。
怖がるところも、泣くところも、弱いところも。
それらも全部含めて、雪城凛花という人間だと、青は思っている。
そして、それを否定したくなかった。
凛花はしばらく青を見つめていた。
目元には涙の名残がある。けれどその奥で、別の感情がゆっくりと満ちていくのがわかった。
嬉しい。
胸が苦しいほどに、嬉しい。
青はきっと恋愛の意味で言っていない。そんなことはわかっている。
それでも、こんなふうに自分の弱さまで肯定してくれる人が、どれほど特別か。
凛花は静かに、ふっと笑った。
「……ふふ」
「何だ」
「青って、ほんとうに……ずるいわね」
「何がだ」
「そういうところよ」
そう言った次の瞬間だった。
凛花が身を乗り出す。
青が反応するより早く、その唇にやわらかな感触が触れた。
一瞬。
ほんの一瞬だけの、触れるだけのキス。
時間にすれば短いはずなのに、青の中では妙に長く感じられた。
凛花が離れる。
青は完全に固まっていた。
何が起きたのか、理解が遅れる。目の前の凛花の頬はほんのり赤い。だが、その表情は不思議なくらい穏やかだった。
「……」
青は言葉を失っている。
凛花はそんな彼を見て、少しだけ楽しそうに、そして照れを隠すように言った。
「さ、戻りましょう」
「……え」
「お腹、すいちゃった」
立ち上がる動作は、もうかなり自然だった。さっきまで震えていたのが嘘みたいに、背筋は真っすぐに伸びている。
ただし耳まで赤いのは隠せていない。
青はまだベンチに座ったまま、数秒動けなかった。
唇に残る感触が、まるで現実味を持たない。
だが、先に歩き出した凛花が振り向き、少しだけ困ったように首をかしげた。
「青?」
「あ……ああ」
ようやく我に返り、青も立ち上がる。
足取りはいつもより少しだけぎこちない。
◇




