第41話 守られた温もり(1)
# 第41話 守られた温もり
午前中だけでも、かなりの密度だった。
巨大なウォータースライダーでの密着。流れるプールでのんびりとした時間。結愛と紬の遠慮のない距離感。凛花の赤くなった頬。
まだ半日も残っているというのに、氷凪青はすでに少しだけ疲れていた。
もちろん、体力的な意味もある。
だがそれ以上に、慣れない非日常の連続に、いつもより神経を使っている自覚があった。
昼が近づくにつれ、プール施設の人の数はさらに増えていく。売店の前には列ができ始め、パラソルの下の席も次々と埋まっていた。焼きそばやフライドポテトの匂いが風に乗って流れ、子どもたちのはしゃぐ声と、スピーカーから流れる明るい音楽が混ざり合う。
いかにも夏休みの終わりらしい、にぎやかな昼前だった。
「じゃあ、私と青が買ってくるから、二人は待ってて」
先に口を開いたのは結愛だった。
プールサイド近くの空いたテーブルに荷物を置きながら、結愛は当然のようにそう言う。
「え、あ、はい」
紬は素直にうなずき、凛花も小さく視線を上げた。
「……お願いしてもいいかしら」
「ああ」
青が短く答えると、結愛はにっと笑った。
「じゃ、行こっか」
そうして二人は売店の列へ向かった。
◇
昼時の売店前は、思っていた以上に混んでいた。
揚げ物の匂い、氷の音、紙コップが重なる乾いた音。列に並ぶ客たちは、子ども連れやカップル、友達同士のグループばかりで、皆どこか浮き足立っている。
青と結愛もその列の最後尾に並んだ。
「やっと二人きりになれたねー」
結愛がそう言って、少しだけ青の方へ身を寄せる。
その言い方は軽い。軽いはずなのに、耳に入ると妙に意識してしまう。
青は前方を見たまま言った。
「そうか」
「そこはもうちょっと何かない?」
「何がだ」
「嬉しい、とか」
「特にない」
「うわ、ひど」
結愛は頬を膨らませるふりをしたが、すぐに笑った。こういうやり取りはもう慣れている。慣れているからこそ、わざとからかいたくなる。
「でも、ほんとはちょっとくらい嬉しいでしょ?」
「別に」
「はいはい、出ました“別に”」
結愛は楽しそうだった。青はため息こそつかなかったが、内心では少しだけ疲労を覚える。
「なんか、もう疲れたな」
ぽつりと本音が漏れた。
結愛は一瞬目を丸くして、それからにやりと口角を上げる。
「まだ、プールは始まったばかりだよ?」
「それは知ってる」
「午後の方がイベント多いかもよ?」
「やめてくれ」
「えー、だってせっかくなんだから」
結愛はそう言いながら、青の顔を覗き込む。
「午前だけでも結構楽しかったでしょ?」
青は少しだけ考えてから答えた。
「……まあ」
「おっ」
「嫌ではなかった」
「言い方が青すぎる」
結愛は肩を揺らして笑った。
列が少し進む。二人も半歩ずつ前へ動く。
結愛の濡れた髪の先から、水滴が一つ、肩をつたって落ちた。その水着姿は午前中から何度も見ているはずなのに、こうして横に並ばれると落ち着かない。
「で、どうだった?」
「何がだ」
「今日の私」
結愛はそう言って、その場でほんの少しだけ体をひねって見せた。濡れた肌に日差しが反射する。豊かな胸元が揺れ、細い腰のラインが際立った。
青は即座に視線を逸らした。
「……水着の話か」
「それ以外ある?」
「似合ってるとは言った」
「もっと」
「何をだ」
「可愛い、とか」
「……」
「ほら」
結愛はじっとこちらを見る。からかい半分、期待半分の視線だった。
青は数秒黙ったまま前を向いていたが、やがて小さく口を開いた。
「……可愛いとは、思う」
「え」
今度は結愛の方が固まった。
青はそれ以上何も言わない。言った事実だけがそこに残る。
結愛の頬が、じわっと赤くなった。
「ちょ、ちょっと……急にそういうの言うの反則なんだけど」
「求めたのはお前だろ」
「そうだけど!」
結愛は胸元を押さえるようにして、わざとらしく大きく息を吐いた。
「心臓に悪い……」
青は返事をしなかったが、耳が少しだけ赤い。
結愛はそれを見逃さない。
「青も赤いじゃん」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないよ」
「黒金」
「結愛、でしょ?」
即座に返され、青は一瞬だけ沈黙した。
「……結愛」
「よし」
名前を呼ばれて嬉しかったのか、結愛は満足そうに笑う。その笑顔は、普段の快活さの奥に、少しだけ甘い色を含んでいた。
「青の水着姿も、普通にかっこいいよ」
「そうか」
「そうか、じゃなくて。もうちょっと照れたりしない?」
「しない」
「絶対してる」
「してない」
いつものような押し問答。なのに、今日は少しだけ温度が違う。
人混みのざわめきの中で、二人だけの会話が妙にはっきり響いていた。
「スライダーのときさ」
結愛がふいに声を落とした。
「凛花ちゃんと、かなり密着してたよね」
青の眉がわずかに動く。
「仕組み上、そうなるだろ」
「ふーん」
「何だ」
「別にー?」
結愛は唇を尖らせた。
「私、本当は青と組みたかったのに」
「ぐーぱーの結果だ」
「そこを何とかするのが主人公ってものでは?」
「意味がわからない」
「青はそういうとこだよ」
結愛は笑いながらも、少しだけ悔しそうだった。けれどすぐに気持ちを切り替えるように顔を上げる。
「午後は私ともちゃんと遊んでよ?」
「元からそのつもりだ」
「ほんと?」
「ああ」
「……そっか」
たったそれだけの返事なのに、結愛は少しだけ嬉しそうに目を細めた。
ようやく列の先頭が近づく。
二人は焼きそば、たこ焼き、ポテト、ホットドッグ、飲み物をそれぞれ選び、四人分の昼食を購入した。トレーを持つ役は当然のように青が引き受けたが、結愛も飲み物や追加の小物を持っている。
「重くない?」
「問題ない」
「ほんと便利な返事だよね、それ」
「事実だ」
「でも、ありがと」
結愛は小さく笑って言った。
青が軽くうなずいた、そのときだった。
視界の先に、わずかな違和感が生まれた。
自分たちがいたテーブルの辺りに、知らない男たちが立っている。
三人。
年齢は自分たちとそう変わらないか、少し上くらいか。軽薄そうな笑みを浮かべたまま、凛花と紬に何か話しかけている。
青の足が、ぴたりと止まった。
「青?」
結愛が不思議そうに振り向く。
青は答えず、鋭く前を見た。




