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星嶺高校の氷凪くんは、たぶん恋を知らない。~恋愛偏差値0のアオが、学年1位の美少女とギャルを救い救われる話~  作者: にめ
夏休み

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第39話 夏の終わりの約束(2)



 三人。


 青、凛花、結愛。


 それだけ聞けば自然なようでいて、今の彼らの周囲を思えば、少しだけ足りない気もした。


「陽葵ちゃんは難しい?」


 結愛の問いかけは、何気ないようでいて、やわらかい気遣いが含まれていた。


 青は一度だけ視線を落とす。


「……ちょっとプールはな」


 それ以上は言わなかった。


 だが、それで十分だった。


 陽葵が今どういう状況にいるのか、結愛も凛花も完全に知っているわけではない。けれど、深く踏み込んでほしくない領域があることくらいは、もうわかっている。


 結愛は「あ、そっか」と小さくつぶやいて、それ以上は追及しなかった。


 凛花もまた、何も言わなかった。ただ、青の横顔を一瞬だけ見て、静かに目を伏せる。


 夏の明るさの中に、ほんのわずかな影が落ちる。


 だが、青はそこで会話を止めなかった。


「紬はどうだ」


「え?」


 結愛が目をぱちくりさせる。


「紬ちゃん?」


「ああ」


 青はそれだけ言って、またチケットへ視線を戻した。


「一応、五枚ある」


 理屈としては自然だ。人数が足りる。誘える余地がある。それだけのこと。


 しかし、その“自然さ”がかえって結愛のいたずら心を刺激した。


 彼女はにやにやしながら身を乗り出す。


「なにそれ。紬ちゃんの水着、見たいってこと?」


 青の動きがぴたりと止まる。


「違う」


「えー、ほんとにぃ?」


「本当に違う」


「だって紬ちゃん、胸大きいもんねー」


「結愛」


「図星?」


「違う」


 即答だった。しかもいつもより少しだけ低い声で返したものだから、結愛は余計に面白くなってしまう。


「じゃあ何?」


 青は一拍置いた。


 言葉を選んでいるというより、余計な誤解が広がらない形に整えている、という感じだった。


「……仲間外れにすると、あとで何をされるかわからない」


 一瞬、沈黙。


 それから凛花が、ふっと小さく息をもらした。


「なるほど」


「なるほどじゃないでしょ!」


 結愛のつっこみに、今度は凛花の方がわずかに肩を震わせた。


「でも、少しわかるわ。紬はそういうところ、意外と根に持ちそうだもの」


「凛花ちゃんまで!」


「事実でしょう」


「まあ……事実っぽいけど!」


 青は二人の反応を見て、少しだけ視線を逸らした。


 紬の性格を考えれば、あとから「どうして誘ってくれなかったんですか」と拗ねるのは十分ありえる。しかも、あの後輩はおっとりしているようでいて、青に対してだけは妙に距離が近い。


 面倒を避けるという意味では、最初から声をかけておく方が合理的だ。


 ――もちろん、それだけではない。


 あの一件以来、紬が少しずつ学校に来られるようになったことを思えば、こういう機会を一緒に楽しめるなら、その方がいいとも青は思っていた。


 だが、それをわざわざ口にするつもりはない。


 言葉にすると、どうせまた面倒なことになる。


「じゃあ、紬ちゃんも誘う前提で動こっか」


 結愛が勝手にまとめる。


「あと一枚は?」


「……」


 三人とも、そこだけは少し考えた。


 すると、廊下側の開いた扉から、すっと影が差す。


「楽しそうな話をしているわね」


 聞き慣れた、落ち着いた女性の声だった。


 三人がそちらを見ると、教室の入口には如月雫が立っていた。薄い色のブラウスにタイトスカートという、夏でもきっちりした教師らしい服装。けれどその涼やかな顔立ちとどこか艶のある雰囲気のせいで、堅いはずの格好も妙に目を引く。


「如月先生」


 凛花が姿勢を正す。


 雫は軽く手を振った。


「そんなにかしこまらなくていいわ。休み時間でしょう?」


 そして、その視線は自然に凛花の手元のチケットへ落ちた。


「プール?」


「はい。凛花ちゃんがチケット持ってて、みんなで行こうって話になってたの」


 結愛が先に答える。


「へえ」


 雫は少しだけ目を細めた。


「青春してるじゃない」


「先生、そんな言い方だと年齢感じますよ」


 結愛の軽口に、雫はくすりと笑う。


「失礼ね。わたしだってまだ充分若いわ」


「それはそうですけど」


「で、誰が行くの?」


「今のところ、青と、凛花ちゃんと、あたしと、紬ちゃんかなって」


「なるほど」


 雫の視線が、ほんの一瞬だけ青に向く。


「いい息抜きになるんじゃないかしら。受験生は、追い込むだけだと潰れるもの」


 その言葉には教師としての実感が滲んでいた。青も小さくうなずく。


「一日だけなら、問題ないと思います」


「あなたがそう言うなら、案外ほんとうに問題ないのかもしれないわね」


 雫はそう言って、意味ありげに笑った。


 結愛がにやっとする。


「先生も来ます?」


 その一言で、空気がまた少し変わる。


「え?」と凛花が目を瞬かせ、青は無言のまま結愛を見た。


 結愛は悪びれもなく続ける。


「だって一枚余ってるし。先生、たまには息抜き必要でしょ?」


「生徒とプール?」


 雫は面白そうに首をかしげた。


「問題になりそうね」


「校外ならセーフじゃないですか?」


「そういう雑な判断を教師に求めないでちょうだい」


 即座に返しながらも、雫の声音は柔らかい。まんざらでもなさそうに見えるのが、また厄介だった。


 凛花は小さく咳払いをする。


「先生がいらっしゃると、安心感はありますけれど……」


 それは本音だった。プールという非日常の場に教師が一人いることで、ある種の均衡は保たれる気がする。


 一方で結愛は、別の意味でも面白くなりそうだと考えていた。


 青は少しだけ考えてから言う。


「如月先生が都合つくなら、それでもいいと思います」


 雫は意外そうに眉を上げた。


「あなた、反対しないのね」


「引率がいる方が、結愛が騒ぎすぎても対応できます」


「ちょっと!」


 結愛が抗議の声を上げると、雫は小さく笑った。


「なるほど。それは一理あるわ」


「先生まで!」


 教室の空気が、先ほどまでの受験生らしい緊張を少しずつほどいていく。


 雫はチケットをちらりと見て、それから腕時計を確かめた。


「まあ、わたしはまだ確定ではないけれど、予定が合えば考えておくわ」


「ほんとですか?」


「ええ。でも、もし行くとしても、ちゃんと節度は守ること。夏休みだからって羽目を外しすぎないように」


「はーい」


 結愛の返事は、だいぶ軽かった。


 その軽さに呆れたように息をつきつつ、雫は教室を見回す。


「ほら、もうすぐ次の授業よ。浮かれてないで戻りなさい」


 そう言い残して、彼女は廊下へ去っていった。


 結愛はその背中を見送りながら、小声でつぶやく。


「先生、あれ絶対ちょっと乗り気だったよね」


「……否定はできないわね」


 凛花の答えに、青は何も言わなかった。


 ただ、もし本当に如月が来るなら、それはそれで騒がしくなりそうだ、と思っただけだった。


 そして休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。


 結愛は「あーあ、現実に戻っちゃう」と言いながらも、机の上の教材を引き寄せた。凛花は英語の冊子を閉じ、青は途中まで解いていた問題へと視線を戻す。


 だが、ほんの少しだけ、教室の空気は変わっていた。


 受験生の夏の中に、一日だけ差し込んだ予定。


 それは小さなことのようでいて、案外、心を軽くする。


     ◇


 昼過ぎ、夏期講習が終わるころには、外の日差しは少しだけ傾き始めていた。


 それでもまだ、夏の熱気はしっかりと残っている。校門を出た瞬間にむわりとまとわりつく空気に、結愛は「暑っ」と声を上げた。


「ねえ、せっかくだし、ちょっとだけ予定詰めようよ」


 帰り道、自然と並んだのは青、凛花、結愛の三人だった。


 花火大会のときと同じようでいて、あの夜を挟んだ今は、少しだけ空気が違う。


 結愛は相変わらず明るく、凛花は相変わらず落ち着いている。けれど、その間を歩く青に向ける二人の視線や声の温度には、以前より確かな親しみが宿っていた。


「日程はいつにする?」


 凛花が手帳を開きながら言う。


「来週だと、夏休みももうほとんど終わりよね」


「早い方がいいな。あんまり後ろにすると、宿題に殺される人が出る」


 結愛が自分で言いながら笑う。


「結愛は終わってないのか」


「終わってないわけじゃないし! 終わってるのもあるし!」


「終わってないんだな」


「青ってほんと容赦ない」


 結愛が唇を尖らせると、凛花が小さく笑った。


「でも、たしかに早めがいいと思うわ。再来週は模試もあるし」


「じゃあ来週の中頃か」


「うん、それがよさそう」


 結愛がスマホを見ながら言う。


「紬ちゃんに連絡する?」


「した方がいいだろうな」


「今する?」


「任せる」


「そこで丸投げするんだ」


 ぶつぶつ言いながらも、結愛は楽しそうにメッセージアプリを開いた。


 しばらくして、ぴこん、と返信音が鳴る。


「早っ」


 画面を見た結愛が、思わず吹き出した。


「なに?」


 凛花が問う。


「“行きます。絶対行きます。何があっても行きます”だって」


「早いわね」


「しかも三連投」


 結愛は笑いをこらえながらスマホの画面を青に見せた。


 そこには本当に、勢いのある文面が並んでいた。紬らしいといえば紬らしい。おっとりしているようでいて、こういうときの反応は妙に素直で早い。


 青はそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「……誘って正解だったな」


「でしょ?」


 結愛は勝ち誇ったように言うが、もともと誘うと言い出したのは青である。


「水着、新しいの買おうかなー」


 結愛がくるりと前を向きながら、急にそんなことを言い出した。


「去年のでもいいんだけど、せっかくだし」


「好きにしろ」


「青はどういうのがいい?」


「知らない」


「ほらまた逃げた」


 結愛は半歩ぶん青に近づいて、顔を覗き込むようにする。


「清楚系? 可愛い系? 大人っぽい系?」


「機能性が高いもの」


「夢がない!」


 さっきと同じようなやり取りに、凛花がまた少しだけ笑った。


 結愛はすぐさまその矛先を変える。


「じゃあ凛花ちゃんは? もう決まってるの?」


「え……」


 急に話を向けられ、凛花はわずかに言葉を詰まらせた。


 決まっているわけがない。正確には、考えないようにしていた。プールに行く可能性など、今日まで一度もなかったのだから。


「まだ、特には」


「凛花ちゃん、絶対似合うのいっぱいあるよね。白とか、水色とか」


「そういう問題ではないわ」


「えー、じゃあどういう問題?」


 結愛は面白そうににやつく。凛花はほんの少しだけ視線をそらした。


「……どんなものを選べばいいのか、あまり詳しくないの」


「えっ、かわい」


「結愛さん」


「いや、ごめん、でもかわいい」


 凛花は小さくため息をついた。その横顔が、ほんのり赤くなっているのを結愛は見逃さない。


「じゃあ今度一緒に見に行く?」


「え?」


「水着。あたしも買うかもだし、紬ちゃんも誘ってさ」


 名案、とでも言いたげな顔だった。


 凛花は一瞬迷ったが、たしかに一人で選ぶより、その方が気が楽かもしれない。


「……そうね。時間が合えば」


「よし決まり」


「まだ決まってはいないけれど」


「もう心の中では決まってるでしょ」


 結愛がそう言うと、凛花は反論せずに手帳へ視線を落とした。


 図星だった。


 プールに行くと決まった瞬間から、何を着ればいいのか、青はどう思うのか、そんなことばかりが頭のどこかに引っかかっている。


 けれど、その気持ちを認めるのは、まだ少しだけ悔しい。


 青はそんな二人のやり取りを聞きながら、淡々と歩いていた。


 ただ、彼の中にも一つだけ現実的な懸念があった。


「日焼け対策はした方がいい」


 唐突にそう言うと、結愛が吹き出した。


「そこ!?」


「体力を消耗する」


「いや、正しいけど!」


「あと水分補給も必要だ。熱中症になると意味がない」


「なんか一気に引率の先生みたいになった」


「合理的な話だ」


「うん、そうなんだけどさ」


 結愛は笑いながら肩をすくめる。


「やっぱ青って青だよね」


「どういう意味だ」


「そういう意味」


 説明になっていない言葉にも、青はもう突っ込まなかった。


 校門から駅へ向かう道の途中、別れ道が近づく。


 結愛がふと足を止めた。


「じゃ、あたしはこっち。紬ちゃんにも詳細また送っとくね」


「ああ」


「凛花ちゃん、水着見る日も連絡する」


「わかったわ」


 結愛はそこで、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「青も楽しみにしてなよ?」


「何をだ」


「いろいろ」


 そう言い残して、彼女は手を振りながら駆けていった。


 青はその背中を見送り、すぐに前を向く。隣には凛花が残っていた。


 二人きりになると、結愛がいたときとはまた違う静けさが落ちる。


 けれど、以前のような気まずさはなかった。


「結愛さん、本当に楽しそうね」


 凛花がぽつりと言う。


「そうだな」


「……青は、楽しみではないの?」


 不意の問いに、青は少しだけ考えた。


 楽しみ。


 自分がその言葉をどう捉えているのか、一瞬だけ確認するみたいに。


「嫌ではない」


 凛花はその答えに、少しだけ唇をやわらかくした。


 青らしい、あまりにも青らしい返事だった。けれど、彼なりに前向きな言葉だということはわかる。


「そう」


「凛花は」


「え?」


「お前は、楽しみなのか」


 聞き返されるとは思っていなかったのか、凛花は一瞬だけ目を見開いた。


 そして、胸の奥が小さく跳ねる。


 どう答えるべきか。


 本音なら決まっている。


 とても楽しみだ。青と一緒に出かけられる。それだけで、きっと特別な一日になる。


 けれど、それをそのまま言うのは難しい。


「……そうね。たまには、こういうのも悪くないと思うわ」


 精一杯平静を装ってそう言うと、青は「そうか」とだけ返した。


 そのそっけない一言に、なぜだか少しだけほっとする。


 もしここで妙に踏み込まれたら、きっと心臓がもたなかった。


 駅前で凛花とも別れ、青は一人で病院へ向かった。


     ◇


 夕方の病院は、昼間とは違う静かな疲れをまとっている。


 受付の明かり、廊下に漂う消毒液の匂い、控えめな足音。外の世界の熱気とは切り離された場所だ。


 青は慣れた足取りで病室へ向かい、軽くノックして扉を開けた。


「ただいま」


「おかえり、お兄ちゃん」


 ベッドの上で本を読んでいた陽葵が、ぱっと顔を上げて笑う。その笑顔を見ると、青の中に張っていた何かが、いつも少しだけゆるむ。


「今日は遅かったね」


「少し話していた」


「ふーん?」


 陽葵の目が、いたずらっぽく細められる。


「女の子と?」


「……どうしてそうなる」


「だってお兄ちゃんだもん。勉強の話なら“話していた”じゃなくて“確認していた”とか言いそう」


「言わない」


「言うよ」


 陽葵はけらけら笑って、それからお兄ちゃんの顔を見つめる。


「で、何の話だったの?」


 青は鞄を椅子に置きながら答えた。


「来週、少し出かけることになった」


「えっ」


 陽葵の目が丸くなる。


「お兄ちゃんが?」


「ああ」


「すごい。天変地異の前触れ?」


「やめろ」


 珍しく即座に返すと、陽葵はまた楽しそうに笑った。


「どこ行くの?」


「プールだ」


「ぷ、プール!?」


 今度こそ本気で驚いたらしく、陽葵は上半身を起こしかけて、青に「無理するな」と軽く制される。


「え、ちょっと待って。誰と?」


「結愛と凛花と、たぶん紬も来る」


「え、すご」


 陽葵はしばらく口を開けたまま青を見つめていたが、やがてにやにやし始めた。


「青春だ……」


「違う」


「違わないよ」


「気分転換だ」


「その気分転換のメンバーが華やかすぎるんだってば」


 青は否定しようとして、結局やめた。説明しても無駄だとわかっている。


 陽葵はベッドの上で膝を抱えるようにして、嬉しそうに笑う。


「楽しんできてね、お兄ちゃん」


「……ああ」


「ちゃんと楽しむんだよ?」


「努力はする」


「なにその試験みたいな返事」


 陽葵はそう言ってから、ほんの少しだけ窓の外へ視線を向けた。


 夕暮れの光が病室の白い壁をやわらかく染めている。


「いいなあ、プール」


 何気ないような一言だった。


 けれど、その言葉の端に、ごく薄い寂しさが混じったことを、青は聞き逃さなかった。


「……悪い」


 思わず漏れた言葉に、陽葵はすぐに首を振った。


「なんでお兄ちゃんが謝るの」


「お前も行ければよかった」


「うん。でもしょうがないよ」


 陽葵は笑う。いつものように、明るく。


「その代わり、お土産話いっぱい聞かせて。誰がどんな水着だったとか」


「それは話さない」


「なんでー」


「必要ない」


「あるよ。妹には知る権利がある」


「ない」


 すっぱり切られても、陽葵は全然めげない。


「じゃあ、お兄ちゃんが誰を見て固まったかだけでも」


「固まらない」


「ほんとかなあ」


 くすくす笑うその顔を見て、青もわずかに息をついた。


 こうしている時間は、穏やかだ。


 何も起きていないようでいて、とても大切な時間だとわかる。


 陽葵はベッド脇のテーブルに置いてあった小さなメモ帳を引き寄せ、何かを書き始めた。


「何してる」


「プールの日の楽しみメモ」


「お前が行くわけじゃないだろ」


「気持ちは行くの」


 そう言ってから、陽葵は少しだけ真面目な顔になる。


「お兄ちゃん」


「何だ」


「……たまには、ちゃんと息抜きしてね」


 静かな声だった。


「お兄ちゃんって、いつも頑張りすぎるから」


「普通だ」


「普通じゃないよ」


 陽葵は優しく笑った。


「でも、そういうとこ好き」


 青は返事をしなかった。ただ、窓の外の夕焼けに目を向ける。


 赤く染まりかけた空は、少しずつ夏の終わりの色を帯びていた。


     ◇


 病院を出るころには、空は群青に近づいていた。


 青は一人で家路を歩く。


 昼間の熱気が少しだけ引き、風にはかすかに夜の気配が混じっている。


 夏休みも、もう長くはない。


 花火大会が終わって、夏期講習が続いて、問題集のページは確実に減っていく。時間は止まらない。受験も、未来も、陽葵の病状も、何ひとつ待ってはくれない。


 そういう現実を、青はよく知っていた。


 知っているからこそ、無駄なことを削ってここまで来た。


 けれど今日、教室で交わした他愛のない会話は、その削り落としてきたものの中にも、少しくらい残していい時間があるのかもしれないと思わせた。


 一日だけ。


 たったそれだけの気分転換。


 それでも、結愛はあんなに嬉しそうで、凛花もどこか柔らかかった。紬もきっと楽しみにしているだろう。如月が本当に来るかはまだわからないが、来たら来たで騒がしくなりそうだ。


 青は歩きながら、小さく息をついた。


「……たまには、いいか」


 誰に聞かせるでもない独り言は、夏の夜の入り口へ静かに溶けていった。


 その先に待っている一日が、どんな騒がしさを連れてくるのかは、まだ知らない。


 ただ、少なくとも今は。


 夏の終わりにできたその約束が、ほんの少しだけ、明日を軽くしてくれる気がした。

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