第39話 夏の終わりの約束(1)
# 第39話 夏の終わりの約束
夏休みも終わりに近づいたある日。星嶺高校の夏期講習は、朝からいつも以上に張り詰めた空気に包まれていた。
窓の外では、まだ夏を手放すつもりのない蝉たちが、校庭の木々で声を張り上げている。けれど、その音も分厚い窓ガラスを通すと、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
教室の中にあるのは、冷房の乾いた風、ページをめくる音、シャープペンシルの先が紙を走る細い音。そして、ときおり教師が板書するときの、淡々としたチョークの擦れる音だけだった。
受験生の夏。
言葉にしてしまえばたったそれだけだが、その四文字の中には、遊びたい気持ちも、焦りも、不安も、期待も、すべて詰め込まれている。
青は、その中心にいるようでいて、どこか少しだけ外側にいた。
机の上に広げた問題集。書き込みの増えた参考書。几帳面にまとめられたノート。休み時間になっても彼の手は止まらず、数学の記述問題の途中式を静かに積み上げていく。
真っ直ぐで、無駄がない。
それが青という人間だった。
余計な雑談に流されることもなく、教室のざわめきに気を取られることもない。ただ、自分が今やるべきことを、必要な分だけやる。
そんな彼の横で、結愛は机に突っ伏していた。
頬をぺたりと木の天板に押しつけ、長い髪を無造作に散らしながら、まるで命が尽きかけているみたいな声を漏らす。
「むり……」
小さく、しかし妙に切実な声だった。
青は視線を上げずに答える。
「何がだ」
「いろいろ」
「雑だな」
「全部ってこと」
結愛はそこでがばっと顔を上げた。ぱちん、と机に両手をつく。その勢いに、周囲の何人かが何事かとこちらを見る。
「受験生だけど、夏らしいことしたいー!」
教室の空気を破るようなその宣言に、近くの席の生徒たちが苦笑する。何人かは「わかる」と小さくうなずき、何人かは呆れ半分にまた参考書へ視線を戻した。
青はようやくペンを止めたが、表情はほとんど動かなかった。
「しょうがないだろ。今年は受験生なんだから」
「それはわかってるよ。でもさぁ」
結愛は椅子に座り直しながら、今度は両手をぶんぶん振った。
「海とか行きたいし、プールとか行きたいし、お祭りとか、夏っぽいことしたいじゃん。だって三年生の夏って、今しかないんだよ?」
「夏は毎年来る」
「そーいうことじゃないの!」
すかさず飛んできたつっこみに、近くの女子が思わず吹き出していた。
青は淡々としている。言っていることは正しいのだが、正しすぎるがゆえに風情がない。
しかし結愛は、そのそっけなさに慣れていた。慣れているからこそ、むしろ食い下がれる。
「青ってほんと、そういうとこあるよね」
「そういうとこ、とは」
「ロマンがない」
「必要か」
「青春には必要!」
きっぱり言い切られると、青もそれ以上は返しづらい。結愛はそこを見逃さず、にやりと笑った。
「ほら、凛花ちゃんも行きたいよね?」
不意に話を振られた雪城凛花は、窓際の席で英語長文の冊子を読んでいた視線をゆっくり上げた。
今日も銀色の髪はさらりと肩に流れ、涼しげな横顔は絵のように整っている。夏期講習中でも背筋はまっすぐで、制服の着こなしにも乱れがない。その姿だけ見れば、彼女が「遊びたい」などという言葉と縁遠い人間だと思う者がほとんどだろう。
「わたしは、そんな……」
凛花はいつも通り、静かな声でそう言いかけた。
けれど、その内側では別の声がそっと囁く。
――青がいるなら、どこでもいいわ。
言えるわけがなかった。
そんなことをこの場で口にしてしまったら、たぶん結愛は机を叩いて騒ぐし、青は間違いなく一瞬だけ沈黙したあと、どう反応していいかわからなくなる。
それを想像しただけで、凛花の耳の奥が少しだけ熱くなる。
彼女は咳払い一つでその気配を消し、何事もなかったように言葉を続けた。
「……ただ、ずっと勉強だけというのも、効率の面ではあまり良くないかもしれないわね」
「おっ、出た。学年一位の理論武装」
結愛が嬉しそうに身を乗り出す。
「つまり?」
「適度な気分転換は必要、ということよ」
「よし来た!」
結愛が拳を握りしめた。その勢いに、凛花は少しだけ目を細める。
正直、そこまで喜ばれるとは思っていなかった。だが、そうして話の流れが自然に“どこかへ行く”方向へ進んでいくのは、少しだけ嬉しかった。
そして凛花は、ふと思い出したように鞄へ手を伸ばした。
「そういえば……」
彼女が取り出したのは、白い封筒だった。上質な紙の封筒には、どこか高級感のあるロゴが箔押しされている。
「実は、これを親からもらったの」
中から出てきたのは、数枚のチケットだった。
結愛が目を丸くする。
「え、なにそれ」
「遊園地のプール券よ。取引先からいただいたらしいのだけれど、家族で行く予定はないから、使うなら好きにしなさいって」
「えっ、えっ、ちょっと待って、これあそこ!?」
結愛はチケットをまじまじと覗き込み、声を弾ませた。
「めっちゃ大きいとこじゃん! 流れるプールもスライダーもあるやつ!」
「そうみたいね」
「いいじゃん、行こうよ!」
結愛はもはや机の上で跳ねそうな勢いだった。教室の何人かがまた視線を向けるが、当の本人は気にしない。凛花はそんな彼女を見て、ほんの少し口元を緩める。
青はチケットに視線を向け、それから凛花を見る。
「何枚ある」
「五枚」
その答えに、青の目がわずかに動いた。
「多いな」
「ええ。だから使わないともったいないと思って」
「なるほど」
そこで凛花は、一拍置いてから青に問いかけた。
「勉強ばかりもなんだし、一日くらい気分転換もいいんじゃないかしら。青はどう思う?」
ごく自然な聞き方だった。
けれど、結愛は知っている。凛花がこうして何かを決めるとき、最終的な判断を青に預けることが増えたことを。
そして凛花自身も、無意識にそれをしていることに薄々気づいていた。
青は少しだけ考えるように目を伏せた。
勉強の進度。夏休みの残り日数。模試までの間隔。生活リズム。気分転換が及ぼす効率への影響。彼の頭の中では、たぶんそういうものが順に整列しているのだろう。
感情より先に、判断基準が並ぶ。
それが青だ。
「……一日だけなら」
短く出た答えに、結愛がぱっと表情を明るくした。
「ほんと!?」
「ああ。ずるずる遊ぶのはよくないが、一区切りにはなる」
「やったー!」
思わず両手を上げる結愛。その喜びように、青は少しだけ眉を動かしただけだったが、止めはしなかった。
凛花は静かに胸をなで下ろす。
青が断る可能性も考えていた。けれど彼は、必要な理由があればちゃんと受け入れる。そのことを知っているからこそ、こうして話を持ちかけられたのだ。
「じゃあ決まりね」
凛花がそう言うと、結愛はすぐに次の問題へ飛びついた。
「この三人で行く?」
その言葉に、一瞬だけ空気が止まる。




