第38話 夜空の下で触れた手(2)
少し大きめの連発が上がったときだった。河川敷にいる全員が空へ意識を向ける。その隙間のような静かな瞬間に、凛花がそっと息を吸った。
視線は夜空に向けたまま、右手を少しだけ動かす。
青の左手は、シートの上に半ば開いた状態で置かれていた。
そこへ、凛花の手が重なる。
握るのではなかった。
指を絡めるのでもない。
ただ、そっと上から置く。確かめるように、触れていることだけがわかる程度の重さで。
青の肩が、ほんのわずかに動いた。
驚いたのだとわかるくらいには。
けれど、振り払わなかった。
夜空では、白い花火が何層にも広がっている。観客の歓声が遠くで大きくなる。そんな中で、青の意識だけが急に手元へ引き寄せられた。
凛花の手は冷たくも熱くもなく、ただ静かな温度を持っていた。浴衣の袖口から覗く白い手。そこにある意味を、青はすぐには言葉にできない。
ただ、心臓が少しだけ速くなる。
意味がわからないわけではない。けれど、理解したくないわけでもなかった。
凛花は空を見たままだった。
こちらを見ない。
それが凛花らしかった。もし拒まれても、すぐに「花火の音にびっくりして」とでも言い訳できるような、ぎりぎりの距離。でも、置いた手を引くつもりはない。
今だけでいい。
そう思っていた。今だけでも、この人の隣にいることを、何かひとつ形にしたかった。
陽葵は、兄の左側からその様子に気づいていた。花火を見るふりをしながら、ちらりと二人の手元を見る。
そして、少しだけ目を細めた。
結愛も、連発花火の光の合間にそれを見ていた。気づいた瞬間、ほんの少しだけ表情が止まる。けれどすぐに乃愛の頭を撫でるふりをして視線を逸らした。
紬もまた、気づいていた。
胸の奥がちくりとする。羨ましさと悔しさが混ざる。けれど、この場でそれを壊すようなことはしたくなかった。
「……綺麗です」
紬が小さく呟く。
その言葉が花火のことなのか、別の何かなのかは、誰にもわからなかった。
青は、凛花の手をそのままにしていた。
握り返すことはできなかった。
けれど、離すこともできなかった。
それは彼にできる精一杯の反応だったのかもしれない。
そのまましばらく、二人の手は重なったままだった。
夜空に大きな花火が上がるたび、河川敷の人々が歓声を上げる。その光が二人の横顔を何度も照らした。凛花の頬は少しだけ赤く、青の表情はいつもより少しだけ固い。だが、不思議と嫌な緊張ではなかった。
陽葵は花火を見上げながら、心の中でそっと思う。
――よかった。
それだけだった。
青が誰かに支えられること。青の隣に、こうして自然にいてくれる誰かがいること。それが陽葵には、ひどく救いのあることのように見えた。
やがて、花火は終盤に入る。
色とりどりの光が一気に夜空を埋め、音が重なり合い、視界いっぱいに大輪が咲いた。最後の連発が空を白く染め、遅れて大きな拍手が河川敷を包む。
「すごかったぁ……」
陽葵が息を吐く。
「うん、めっちゃ綺麗だった」
結愛も満足そうに笑った。乃愛は「まだ見たい!」と騒ぎ、琉生はもらったお菓子の袋を握りながら空を見上げている。
凛花はようやく、そっと手を離した。
まるで何もなかったみたいに自然に。けれど青の手の上には、しばらくその温度だけが残っていた。
観客が一斉に立ち上がり、帰り支度を始める。夜の終わりのざわめきが、さっきまでの魔法を少しずつ現実に戻していく。
「混む前に少しずつ出ようか」
結愛が言い、全員がうなずいた。
シートをたたみ、荷物をまとめ、立ち上がる。青はまず陽葵に手を貸し、それから凛花の足元をちらりと見た。
「まだ痛むか」
「大丈夫。さっきよりずっと楽よ」
「ならいい」
その短いやり取りの裏に、花火の最中のことは一切乗らない。
結愛たちと別れる場所まで歩く途中、乃愛が大きく手を振った。
「青おにーちゃん、またね!」
すでに呼び方が変わっている。
「またね、婚約者候補!」
結愛が茶化すように言うと、青はすぐに眉を寄せた。
「その呼び方はやめろ」
「はいはい」
笑いながら返す結愛の横顔は明るかったが、その奥には少しだけ複雑な色も見えた。
「陽葵ちゃん、今日は来てくれてありがとね」
「ううん、すっごく楽しかった。乃愛ちゃんと琉生くんも可愛かった」
「でしょー?」
結愛は自慢げに胸を張る。
紬もその隣で、名残惜しそうに手を振った。
「陽葵ちゃん、また会いましょうね」
「うん。紬ちゃんも、今日はありがとう」
「青先輩も……今日は、その……ありがとうございました」
「何に対してだ」
「いろいろです」
紬は少し頬を染めて、それ以上は言わなかった。
最後に凛花が、陽葵の前に立つ。
「今日は本当に楽しかったわ」
「私もです。凛花さん、来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ」
それから凛花は、ほんのわずかに視線を青へ向けた。
「青も……ありがとう」
「ああ」
たったそれだけの会話だった。
けれど、その短い言葉の中に、手当てのことも、花火のことも、手を重ねたことも、全部入っているようだった。
別れたあと、河川敷を外れて人通りの少ない道に出る。
夜風は少しだけ涼しく、祭りの喧騒も遠くなっていた。提灯の光が後ろに小さくなっていく。青と陽葵は並んで歩きながら、しばらく何も言わなかった。
その沈黙を先に破ったのは陽葵だった。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「花火のとき、凛花さんと手、繋いでたでしょ」
青の足が、ほんの少しだけ止まりかける。
「……いや」
「いや?」
「あれは、凛花が手を置いてきただけで、繋いではいない」
「うわあ」
陽葵が心底呆れたような声を出した。
「な、なんだ」
「あーあ、凛花さんかわいそう」
「なぜそうなる」
「だって、ああいうときは手を繋いであげるんだよ」
「……そういうものなのか」
「そういうものなの」
陽葵は断言した。
「お兄ちゃん、ほんとなんもわかってない。勉強ばっかりしてるからだよ」
「いきなり言われても困る」
「困るじゃなくて、ちゃんと凛花さんを見てあげてってこと」
青は少し黙った。夜道を照らす街灯の光が、足元に細い影を作る。
「……今は受験でいっぱいいっぱいなんだよ」
それは言い訳のようで、事実でもあった。
東都大学医学部。そこへ行かなければならない。陽葵のために。自分のこれまでのすべてを無駄にしないために。恋愛のことを考える余裕など、本当にない。
けれど陽葵は、そんな青をわかっている顔で見上げた。
「わかってるよ」
声は優しかった。
「わかってるけどさ、青春は今しかないんだよってこと」
青は返事をしなかった。
今しかない。
その言葉が妙に胸に残る。
今しかないものが、どれだけあるのだろう。受験も、高校生活も、夏祭りも。隣を歩くこの時間も。
「……ああ。わかってるつもりだ」
青は静かに言った。
「陽葵といられるのもな」
言ってから、自分でも少しだけ言葉が重かったかと思う。
陽葵はすぐに頬を膨らませた。
「ぶー。変なこと言わないでよ」
「変か」
「変だよ。私、お兄ちゃんとずっと一緒だよ」
その言い方は、冗談っぽくも聞こえたし、どこか少しだけ意地を張っているようにも聞こえた。
そして陽葵は、ふいに手を差し出した。
「ほら」
「なんだ」
「手」
「……子どもじゃないんだから」
「いいから」
陽葵が笑う。
青は一瞬ためらったが、その手を取った。
兄妹として繋ぐ手は、さっきの凛花の手とはまるで違う。もっと当たり前で、もっと深くて、なくてはならないものみたいだった。
「これで安心でしょ?」
「何がだ」
「お兄ちゃんが、変なこと考えなくて済む」
「別に変なことは考えてない」
「はいはい」
陽葵は笑ったまま、少しだけ指に力を込めた。
その手の温度に、青は何も言えなくなる。
夜道を、二人でゆっくり歩く。祭りの音はもうずいぶん遠い。下駄の音と、青のスニーカーの足音だけが静かに重なる。
家に戻るころには、陽葵も少し疲れた様子を見せていた。それでも表情は満たされていて、ベッドに腰を下ろしたあとも、何度か「楽しかった」と繰り返した。
翌朝。
夏の朝の日差しは容赦なく明るかった。昨夜の余韻など知らないように、世界はいつもどおりに始まっている。
青は陽葵の荷物を持ち、病院まで付き添っていた。花火大会の翌日だからといって、現実が待ってくれるわけではない。消毒液の匂い、白い壁、静かな廊下。そこに戻ってきた瞬間、昨夜の色鮮やかな光景が、夢だったみたいに遠く感じる。
けれど陽葵は、不思議なくらい穏やかだった。
病室の前で立ち止まり、青の方を見る。
「昨日、楽しかったね」
「ああ」
「みんな優しかったし、花火も綺麗だったし」
「そうだな」
「……また行けるといいな」
その言葉に、青はすぐには返せなかった。
簡単に「また行こう」と言うには、知っていることが多すぎる。言えないことも、多すぎる。
だから青は、少しだけ目を細めて答えた。
「行けるようにする」
陽葵は嬉しそうに笑った。
「うん」
その笑顔を見て、青は胸の奥を静かに押さえつける。
昨夜の花火も、凛花の手の温度も、陽葵と繋いだ帰り道の手も、全部まだ消えていない。
それでも時間は進んでいく。
病室の窓の向こうには、もう昼へ向かう青空が広がっていた。




