第38話 夜空の下で触れた手(1)
第38話 夜空の下で触れた手
河川敷の端に近い、少しだけ人の波から外れた場所だった。
椎名紬が周囲を見回しながら、そっと立ち止まる。
「ここで、いいんじゃないですか。ここならちゃんと見えそうですし、人も少し少ないです」
「ほんとだ。いい感じじゃん」
黒金結愛がうなずき、乃愛と琉生の手を引きながらレジャーシートの端を押さえる。
「そうしようか。乃愛、走らないの。琉生も、そっち行ったら迷子になるよ」
「はーい」
「……わかった」
結愛の言葉に、乃愛は元気よく返事をし、琉生は少し遅れて小さくうなずいた。
夜はもうほとんど完成していた。空の青は濃く深く沈みきり、遠くの街の光が川面にゆらゆらと揺れている。河川敷にはすでに大勢の人が座り、花火が始まるのを待っていた。屋台の明かりが連なって、祭りの熱気がまだ少しだけ背中を押してくる。けれどここは、喧騒から一歩だけ退いた分、落ち着いていた。
青は周囲を確認し、石や段差がない場所を選んでシートを整えた。
「陽葵、ここに座れ。足元、気をつけろ」
「うん」
浴衣の裾を持ち上げながら、陽葵が慎重に腰を下ろす。桃色の浴衣の袖がふわりと揺れた。病院の白いシーツの上ではなく、夏の夜の河川敷にその姿があるだけで、青にはどこか現実感が薄かった。
陽葵の反対側には乃愛と琉生、その向こうに結愛が座る。紬はさりげなく青の近くを狙おうとしていたが、陽葵が先に振り返った。
「凛花さん、こっちどうぞ」
「え」
少し離れて立っていた凛花が、わずかに目を見開く。
「でも……」
「ほら、青の隣あいてるし。浴衣だし、端の方が座りやすいよ」
陽葵は当然のように言った。
紬の動きが一瞬止まり、結愛が「あー」と意味ありげに声を漏らす。
青はその流れを特に気にした様子もなく、凛花の方を見た。
「凛花、その方がいい。足元も見やすい」
「……そう。じゃあ、お言葉に甘えるわ」
凛花は浴衣の裾を丁寧に整えながら、青の隣に腰を下ろした。藍色の浴衣に咲く銀白の朝顔が、夜の中で静かに映えている。近くに座ると、帯の結び目や髪に差した簪までよく見えた。浴衣越しに伝わる凛花の緊張も、どこか空気に滲んでいるような気がした。
青はまず、陽葵の足元を見た。
「陽葵、下駄は大丈夫か」
「大丈夫だよ。さっきちょっと痛いかなって思ったけど、歩くのゆっくりだったし」
「少しでも違和感があったら言え」
「はいはい。今日何回目?」
「数えなくていい」
陽葵がくすっと笑う。そのやり取りが済むと、青は視線を横へ移した。
「凛花も。下駄ずれしてないか」
その問いに、凛花は一瞬だけ間を置いた。
「……慣れてなくて、ちょっと」
言いながら、ほんの少しだけ眉を寄せる。普段は完璧に見える凛花が、こういう場面では隠しきれずに困っている。その小さな弱さが、かえって人間らしく見えた。
「やっぱり。歩き方が少し不自然だった」
「見ていたの?」
「なんとなくわかる」
青はそう言うと、迷いなく鞄の外ポケットを開けた。
中から小さなポーチを取り出し、その中を探る。凛花が不思議そうに見ているうちに、青は絆創膏を一枚取り出した。
「見せてみろ」
「……え」
「悪化すると歩きにくい。今のうちに貼った方がいい」
あまりにも当然のような口調だった。
凛花の頬が少しだけ熱を持つ。周囲もすぐにそのやり取りに気づき、紬がぴたりと固まり、結愛が目を丸くした。
「ちょ、青、そこナチュラルにいくんだ……」
「何がだ」
「いや、何がって……」
結愛が言葉に詰まる横で、陽葵が面白そうに目を細めている。
「凛花さん、ほら。うちのお兄ちゃん、こういうの慣れてるから」
「慣れてる、って」
「青先輩、いきなり距離感が……」
紬が小さく頬を膨らませる。
青はそんな周囲の反応を気にする様子もなく、凛花を見た。
「無理なら自分で貼ればいい」
「……いえ」
凛花は小さく首を振った。自分でも驚くほど、拒む気にはなれなかった。
「お願い、するわ」
その声は少しだけ小さかった。
青はうなずくと、凛花の右足の下駄をそっと外した。白い足袋のように見える足先ではなく、素足に近いかたちで履いていたせいか、かかとのあたりが赤く擦れていた。青は片手で足首のあたりを軽く支え、もう片方の手で絆創膏を貼る。手つきに無駄がない。ためらいも変な色気もなく、ただ必要な処置をしているだけなのに、近くで見ている側からすると十分すぎるほど近かった。
凛花は息を詰める。
触れられている部分よりも、その距離の近さに心臓が騒いだ。浴衣の袖の内側に熱がこもっていく。
「……これでいい」
青が手を離す。
凛花は少し遅れて「ありがとう」と言った。
「絆創膏、持ち歩いていたの?」
「ああ。いつも持ってる」
「いつも?」
「何があるかわからないからな」
短い一言だったが、それが青らしかった。
凛花はその答えに、ふっと表情を和らげる。
「準備がいいのね」
「ただの習慣だ」
「そういうところ、すごくあなたらしいわ」
その声音に、尊敬と親しさが少しだけ混ざっていた。
紬はそれを聞いて、ますます複雑そうな顔をする。
「青先輩、女子の足を自然に手当てするのは反則だと思います」
「必要だっただけだ」
「その必要を、普通の男子はそんなに自然にこなせません」
「そうなのか」
「そうなんだよー」
陽葵と結愛が声を揃える。
青は納得していない顔のまま、凛花の下駄を履き直す様子を確認した。
「まだ痛いか」
「さっきより大丈夫」
「ならいい」
凛花は下駄の鼻緒を整えながら、小さく笑う。ほんの少し前まで痛みばかり意識していたのに、今はそれよりも別の熱で胸がいっぱいだった。
そのとき、遠くで低く響くような音がした。
会場全体のざわめきが、一瞬だけ止まる。
「始まる……!」
陽葵が顔を上げた。
次の瞬間、夜空の端で光が弾けた。遅れて腹の底に届くような音が広がる。最初の大輪は金色だった。夜の幕を押し広げるように、いくつもの光の筋が花開き、川面に揺れて落ちていく。
「わあ……!」
乃愛が歓声を上げる。
「すご……」
琉生も目を見開いたまま呟いた。
「綺麗……」
陽葵の声は、花火の音に溶けるように小さかった。
結愛は子どもたちの肩を抱くようにしながら、「すごいでしょー!」と笑っている。紬は両手を胸の前で組んだまま、夜空を見上げていた。凛花は静かに、その光を目に映している。
青はまず陽葵の顔色を見た。問題ない。呼吸も乱れていない。楽しそうに空を見上げている。乃愛と琉生も結愛のそばで興奮している。紬も凛花も、それぞれに花火を見ていた。
全員を確認して、ようやく青も空を見る。
二発目、三発目と続いていく花火が、さっきまでただ暗かった夜空を、次々と色に塗り替えていく。赤、青、緑、紫。音と光が重なり合い、そのたびに人々の歓声が波のように起こる。
陽葵はすっかり見入っていた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ」
「これ、来てよかった」
「ああ」
青も短く答える。
それ以上の言葉は出なかった。けれど、その一言の中にいろいろな感情が混ざっていることを、陽葵は少しだけ感じ取った気がした。
花火は続く。




