第37話 花火が上がる前に(2)
人の流れの向こうから、雪城凛花が歩いてくる。
浴衣姿だった。
地色は深い藍。夜空を思わせる落ち着いた色の上に、銀白の朝顔が流れるように咲いている。帯は薄い灰青で、上品に結ばれていた。長い銀髪はいつもより低い位置でゆるくまとめられ、細い簪がひとつだけ差してある。派手さはないのに、目を奪われる。むしろ静かな美しさが、周囲の喧騒を一瞬遠ざけるようだった。
通りすがりの男たちが思わず声を潜める。
「やべー、めっちゃ美人じゃん」
「声かけてこいよ」
「いや、無理だろ……」
そんな囁きが耳に入るくらいには、凛花は人目を引いていた。
青は、その姿から視線を外せない。
見慣れたはずの顔だった。毎日のように話している相手だった。それなのに、今の凛花は少し違って見える。教室でも、生徒会室でも、病院帰りの夕暮れでも見たことのない表情と空気をまとっていた。
凛花は一行の前まで来ると、わずかに息を整えた。
「お待たせ。支度に少し手間取ったわ」
「いや、全然……大丈夫だ」
青の返答は、普段よりほんの少しだけ遅れた。
陽葵がぱっと顔を明るくする。
「凛花さん、すごく綺麗……!」
「めっちゃ似合ってる! ほんとやばい!」
結愛まで勢いよく褒める。紬も悔しそうにしつつも、素直に見惚れていた。
「雪城先輩、すごいです……」
「ありがとう」
凛花はそう答えたあと、青を見る。
「青も、そう思う?」
まっすぐだった。
逃げ道のない問い方だった。
青は数秒、凛花を見たまま黙り、それから静かにうなずく。
「ああ。似合ってる」
簡単な一言なのに、凛花の頬がかすかに染まった。
「……そう。ありがとう」
その小さな笑みが、浴衣姿以上に青の意識を揺らした。
「浴衣なんて聞いてません! 反則ですー」
紬が頬を膨らませる。
「私も浴衣着たかったー。弟たちいるから無理だったのー」
結愛もぶーっと不満そうに言う。
すると凛花は少し考えてから口を開いた。
「じゃあ、次はみんな浴衣にしましょう」
「次って、また行くってこと?」
陽葵が目を輝かせる。
「そうね。機会があれば」
「いいなあ」
陽葵は嬉しそうに言ったあと、こっそり青の袖を引いた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「凛花さん、綺麗だね」
「そうだな」
「凛花さんならありだよ」
「陽葵、何を言っている」
「えー、だって本当に綺麗だし、優しいし、お兄ちゃんのことちゃんと見てくれてるし」
「今はそういう話じゃない」
「慌てた」
「慌ててない」
淡々と否定する青を見て、陽葵はにやにやする。凛花には会話の細部までは聞こえていなかったが、雰囲気でなんとなく察したのか、少しだけこちらを気にしているようだった。
「さて!」
結愛がパンと手を打った。
「花火までまだ時間あるし、屋台回ろっか!」
「さんせーい!」
陽葵が元気よく手を挙げる。紬も乃愛も賛成し、琉生だけが静かにうなずいた。
こうして一行は、公園を出て屋台の並ぶ通りへ向かった。
*
祭りの通りは、人の熱気で満ちていた。
左右に並ぶ屋台からは赤や橙の灯りが漏れ、鉄板の音や客引きの声があちこちから飛んでくる。焼きとうもろこしの香ばしさ、りんご飴の甘さ、かき氷の冷たい色彩。歩くだけで目も耳も忙しい。
「わあ……全部おいしそう」
陽葵が感嘆の声を漏らす。
「最初に何食べる?」と結愛。
「たこ焼き!」と琉生。
「綿あめ!」と乃愛。
「りんご飴も捨てがたいです」と紬。
「……まずは座って食べられるものがいい」
青が現実的なことを言うと、結愛が笑った。
「相変わらず保護者」
「保護者で問題ない」
「それはそう」
まず選ばれたのはたこ焼きだった。屋台の前で順番を待ちながら、琉生は焼かれていくたこ焼きを真剣な顔で見つめている。乃愛は途中から飽きて、結愛の腕にぶら下がった。
「熱いから気をつけろ」
青が受け取ったパックを持ちながら言うと、陽葵がくすっと笑う。
「お兄ちゃん、たこ焼き相手にも心配するの?」
「お前が火傷しないように言っている」
「わかってるよ」
ベンチに座って分け合うことになり、青が小皿や箸をさばいていると、結局ほとんど荷物持ち兼配膳係になっていた。
「青先輩、さすが慣れてますね」
「慣れているというか、誰かがやらないと回らない」
「それを自然にやるところがすごいんです」
紬が尊敬まじりに言う。結愛も「ほんとそれ」とうなずいた。
たこ焼きを頬張った琉生が、珍しく少しだけ表情を緩める。
「うまい」
「よかったね、琉生」
陽葵がそう言うと、琉生は少し照れたように目を逸らした。
次に綿あめを買うことになった。大きな白い綿あめを受け取った乃愛がきゃあきゃあと喜び、紬もふわふわの綿あめを見て目を輝かせている。
「紬、好きなのか」
「好きです。なんか夢がありません?」
「夢……」
「食べ物に夢を感じるタイプなんです、私」
真顔で言われ、青は返事に困る。
紬はひと口食べてから、綿あめを差し出した。
「青先輩も食べます?」
「いや、いい」
「一口だけ」
「甘すぎる」
「そんなこと言わずに」
押し切られる形で少しだけ口にすると、紬が嬉しそうに笑う。
「どうです?」
「……甘い」
「感想がそのままです」
それを見ていた陽葵が、今度はりんご飴に手を伸ばした。
「私も食べたい」
「大きいのは無理だ。小さいやつにしろ」
「はーい」
青が選んだ一口サイズのりんご飴を受け取った陽葵は、子どものようにうれしそうだった。
「おいしい」
「よかった」
凛花は最初、少し遠慮がちだった。人混みや屋台そのものに慣れていないのか、何を買えばいいのか迷っているようでもある。
「凛花、何か食べないの?」
結愛に言われ、凛花は屋台を見回した。
「……かき氷、気になるわ」
「意外」
「悪い?」
「全然。かわいい」
結愛がにやっと笑う。凛花は少し眉を寄せたが、本気で嫌がってはいなかった。
結局、凛花は小さめのいちご味のかき氷を買った。透明な器に盛られた赤い氷は、夜店の灯りに照らされてきらきらして見える。
「冷たそうだな」
青が言うと、凛花はスプーンを少し動かしてから答えた。
「でも、おいしいわ」
「頭が痛くなったらやめろ」
「あなたも言うのね」
「体調管理は基本だ」
凛花は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「そういうところ、陽葵さんにそっくり」
「え?」
「大丈夫か、無理するな、って。あなた、今日何回言ったの?」
陽葵がすかさず指を立てる。
「今ので六回目くらい!」
「数えていたのか」
「もちろん」
皆が笑い、青だけがわずかに困った顔をした。
そのあと、射的の屋台を見つけた乃愛が「やりたい!」と跳ねた。結愛が財布を出そうとしたが、青が先に店主に金を払う。
「青、いいのに」
「構わない」
「こういうとこなんだよね……」
結愛が小さく呟く。
乃愛は三発中一発も当たらず、琉生は惜しいところまでいったが景品は落ちなかった。紬も挑戦したが、狙いが甘くて失敗。陽葵は手を伸ばしかけて、青に視線で止められた。
「長く立つな」
「やっぱり保護者」
「事実だ」
最後に結愛がチャレンジしてもだめで、乃愛がしょんぼりとした顔になる。
「……やるか」
青が銃を受け取った。
構えに無駄がない。ひと呼吸置き、狙いを定めて撃つ。一発目で軽いお菓子の景品を落とし、二発目で小さなうさぎのキーホルダーを倒した。三発目は少し重い景品に当てたが、惜しくも落ちなかった。
「すごーい!」
乃愛が飛び跳ねる。琉生も目を丸くした。
「お兄ちゃん、なんでもできるね」
陽葵が誇らしげに言う。
「確率の高い位置を狙っただけだ」
「それをできるのがすごいんですよ、青先輩」
紬が感心し、結愛は笑いながら肩をすくめた。
「さすが婚約者候補」
「やめろ」
即答に、また皆が笑った。
キーホルダーは乃愛に、お菓子は琉生に渡された。二人はすっかり青に懐いたようで、そのあとは何かあるたびに青の近くに集まってくる。
金魚すくいの屋台では、陽葵が足を止めた。
「わ、懐かしい」
「やりたいのか」
「ちょっとだけ」
青は一瞬迷ったが、陽葵の顔を見て小さくうなずいた。
「座ってできるなら」
店主に言うと、端の低い位置を空けてくれた。陽葵はそこに腰を下ろし、真剣な顔でポイを水面に向ける。横にしゃがんだ凛花が、浴衣の袖を押さえながら静かに見守っていた。
「焦らない方がいいわ」
「うん……あ、逃げた」
「そっちじゃなくて、もう少し端の方」
「凛花さん、詳しいんですか?」
「詳しくはないけれど、見ていたら何となく」
そのやり取りが妙に自然で、青は少しだけ目を細める。
結局、陽葵は小さな赤い金魚を一匹だけすくうことができた。
「やった!」
子どもみたいに喜ぶ陽葵に、凛花も小さく笑った。
「上手だったわ」
「凛花さんのおかげです」
「私は何もしていない」
「でも、隣にいてくれたから」
陽葵の言葉に、凛花は少しだけ目を伏せる。その横顔は柔らかかった。
青はその場面を見ながら、不思議な安心感を覚えていた。陽葵と凛花。自分にとって大切な存在同士が、こうして自然に言葉を交わしている。それがなぜか、胸の奥に静かな温度を残す。
歩いているうちに、並び順は何度も入れ替わった。
基本的には陽葵の隣を青が歩くが、時々、結愛が反対側に並んで陽葵と話し、紬が青先輩の隣を確保しようとし、乃愛が間に割り込み、凛花が少し後ろから全体を見る。そんなふうに、賑やかで落ち着かない列ができていた。
「青先輩、次あっち行きません?」
「青、先に飲み物買っとこうよ」
「お兄ちゃん、あの風鈴きれい」
「青、琉生が迷子になりそうだからそっち見てて」
四方八方から声が飛ぶ。
「……一人ずつ言ってくれ」
青が珍しくわずかに疲れた顔をすると、陽葵が吹き出した。
「人気者だね」
「違う」
「いや、違わなくない?」と結愛。
「少なくとも引っ張りだこではあります」と紬。
「そうね」と凛花まで静かに同意する。
「雪城まで乗るのか」
「事実を言っただけよ」
少し前に青が紬へ返したのとほとんど同じ言い方だった。紬と結愛がそれに気づいてにやっとし、青だけがわずかに黙る。
やがて空は完全に夜に変わり、会場のざわめきも少しずつ落ち着きを帯びてきた。遠くのアナウンスが、打ち上げ開始まであと少しだと告げている。
「そろそろ場所行こっか」
結愛の提案に、全員がうなずいた。
花火を見る予定の河川敷寄りのスペースへ向かう道は、さっきまで以上に人が増えていた。青は自然に陽葵の手首に近いところを軽く支える。強く握るのではなく、いつでも支えられる位置に置くような距離だった。
「大丈夫か」
「まだ平気」
「無理ならすぐ言え」
「はい、七回目」
「数えなくていい」
「だって面白いんだもん」
そう言えるくらいには、陽葵の表情は明るかった。
河川敷の少し端の方、比較的人が少なくて座りやすい場所を青が見つける。レジャーシートを広げると、みんなが自然に集まってきた。
「ここなら見やすそう」
「人も少し避けられるし、いいわね」
凛花が浴衣の裾を整えながら座る。結愛は乃愛と琉生を両脇に座らせ、紬は隙を見て青の近くを確保しようとし、結果的に陽葵を挟む形で微妙な位置取りになった。
夜風が川の方から吹き、昼間の熱を少しだけさらっていく。屋台でもらった飲み物の冷たさが、手のひらに心地よかった。
みんながようやく一息ついたところで、陽葵が空を見上げる。
「もうすぐだね」
「ああ」
青も同じ方向を見た。まだ何も上がっていない夜空は広くて、静かだった。その静けさの中に、期待だけが満ちている。
「今日は来られてよかった」
陽葵がぽつりと言う。
結愛がすぐに明るく返した。
「でしょー? 絶対来てよかったって思うよ。花火、めっちゃ綺麗だから」
「うん。みんなにも会えたし」
その言葉に、紬がふわっと笑う。
「私も、陽葵ちゃんに会えてうれしいです」
「私もです」と凛花。
「また今度はもっとゆっくり遊ぼうね」と結愛。
陽葵は一人ずつを見て、うれしそうに「うん」と頷いた。
青はその横顔を見つめる。病室で見るよりも、ずっと生き生きとしていた。頬に夜風を受けて、楽しそうに笑っている。そのことがただ、ありがたかった。
同時に、少しだけ怖くもなる。
こういう時間を、どこかで“特別なもの”として意識してしまう自分がいるからだ。
「お兄ちゃん?」
陽葵が不思議そうに見上げてくる。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
「ほんと?」
「ああ」
青は短く答え、空を見上げた。
隣では凛花が静かに同じ空を見ている。少し離れたところで結愛が乃愛たちをなだめ、紬が膝の上で飲み物を持ちながらこちらを気にしている。
誰もが違う形で、この時間を楽しみにしていた。
アナウンスが流れる。
まもなく打ち上げ開始――そんな声が夜の上をすべるように広がっていった。
周囲のざわめきが少しずつ鎮まり、皆が同じ方向を見始める。川面に映る灯りが揺れ、遠くで準備の音がかすかに響いた。
陽葵がそっと息を呑む。
「楽しみ……」
その言葉に重なるように、結愛が笑った。
「うん。最高の夏にしよ」
紬が「はい」と頷き、乃愛と琉生も身を乗り出す。
凛花は静かに、けれど確かな声で言った。
「きっと綺麗よ」
青は答えなかった。ただ、その場にいる全員の横顔を一度だけ見渡し、最後にもう一度、夜空を見上げた。
花火が上がる、その直前の静けさ。
願うことがあるとすれば、今はただ一つだけだった。
この時間が、少しでも長く続きますように。
夜空の向こうで、最初の光が上がる気配がした。




