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星嶺高校の氷凪くんは、たぶん恋を知らない。~恋愛偏差値0のアオが、学年1位の美少女とギャルを救い救われる話~  作者: にめ
夏休み

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第37話 花火が上がる前に(1)

第37話 花火が上がる前に


 花火大会当日。夕方の光が街をやわらかく染める頃、氷凪青は自宅のリビングで腕時計を見下ろしていた。


 時刻は待ち合わせより少し早い。けれど今日は、遅れるより早い方がいい。人混みの中で陽葵に無理をさせたくなかったし、少しでも落ち着ける場所を先に確保しておきたかった。


「お兄ちゃん、まだー?」


 廊下の向こうから明るい声がして、青は顔を上げた。


 次の瞬間、部屋の入口に現れた陽葵を見て、ほんのわずかだけ言葉を失う。


 薄い桃色の浴衣だった。白い小花が全体に散っていて、帯はやわらかな藤色。いつもは病院で見ることの多い陽葵が、今日は年相応の女の子らしい格好をして立っている。長い茶色の髪はゆるくまとめられ、小さな髪飾りが耳の横で揺れていた。


「……どう?」


 少しだけ不安そうに、けれど期待も混ざった目でこちらを見る。


 青は数秒置いてから答えた。


「似合ってる」


「それだけ?」


「十分伝わると思うが」


「もっと褒めてくれてもいいのに」


 陽葵は唇を尖らせたが、頬はうれしそうに緩んでいた。


「でも、お兄ちゃんがそう言うなら安心した」


 青は立ち上がり、陽葵の帯や袖口を確認するように視線を走らせた。


「歩きにくくないか」


「大丈夫。看護師さんにも、ゆっくりなら平気って言われたし」


「無理はするな。少しでもきつかったらすぐ言え」


「うんうん、わかってる。五回目」


「大事なことだ」


「お兄ちゃん、今日ずっとそれ言ってるよ?」


 からかうように笑う陽葵に、青は小さく息をついた。


「人が多い。気分が悪くなりやすい」


「大丈夫だって。ちゃんと自分でも気をつけるし、今日は楽しむために来たんだから」


 その言い方があまりにも明るくて、青はそれ以上言えなくなる。


 楽しみにしていたのは知っている。病院のベッドの上で、浴衣の柄をどれにするか何日も悩んでいたことも。みんなに会えると聞いて、珍しく早口で予定を聞いてきたことも。


「……行くか」


「うん」


 青は玄関の戸締まりを確認し、陽葵の歩幅に合わせて家を出た。


 外は、昼と夜の境目だった。茜色がまだ空の端に残り、遠くから祭囃子の音がかすかに聞こえてくる。風には屋台の甘い匂いが混ざり始めていて、それだけで夏祭りの空気が伝わってきた。


 会場までは駅から少し歩く。途中、浴衣姿の親子や、友人同士で笑い合う学生たちとすれ違うたび、陽葵は目を輝かせた。


「わあ……ほんとにお祭りだ」


「花火大会なんだから当然だ」


「そうなんだけど、病院にいるとこういうの、ちょっと遠い感じがしてたから」


 その言葉に、青は返答を選ぶのにわずかに時間がかかった。


「今日は来られた」


「うん」


 陽葵は前を向いたまま、ふっと笑う。


「お兄ちゃんが連れてきてくれたしね」


 青は何も言わなかった。ただ、歩く速度をさらに少し落とした。


 待ち合わせ場所にしていた神社横の小さな公園に着くと、すでに周辺は祭りの熱気に包まれていた。公園の外の道には屋台が並び、赤い提灯が等間隔に灯っている。焼きそばのソースの匂い、綿あめの甘い香り、金魚すくいの水音、子どもたちのはしゃぎ声。見上げれば、少しずつ紺色に沈んでいく空が広がっていた。


 青は木陰に近いベンチを見つけ、陽葵を座らせる。


「疲れてないか」


「まだ大丈夫。お兄ちゃん、本当に今日それしか言わないつもり?」


「それが一番重要だ」


「はいはい」


 陽葵は笑いながらも、どこかうれしそうだった。


 そのとき、公園の入口から明るい声が飛んできた。


「お待たせしましたー!」


 最初に現れたのは椎名紬だった。


 今日の紬は浴衣ではなく、夏らしい軽やかな私服だった。白の半袖ブラウスは薄いレースが袖口にあしらわれ、首元には小さなリボン。ふわりと広がる淡い水色のロングスカートは歩くたびにやわらかく揺れ、足元は細いストラップのサンダル。いつものおっとりした雰囲気に加えて、夏の透明感のようなものがあった。胸元は相変わらず存在感があり、上品な服装なのに隠しきれていない。


「わ、陽葵ちゃん浴衣かわいいー」


 紬は駆け寄ると、目を丸くして陽葵の全身を見た。


「そ、そうかな?」


「そうですよー。すっごく似合ってます。帯もかわいいし、髪飾りもぴったりです」


 真正面から褒められて、陽葵は耳まで赤くなる。


「ありがとう……」


 青も一度、陽葵を見た。


「陽葵、似合ってる」


「お兄ちゃんまで……恥ずかしいよ」


 そう言いながら、陽葵の口元は緩んでいた。


 すると紬が、じっと青を見上げてくる。


「青先輩」


「なんだ」


「私の格好も褒めてください」


 陽葵がぱちぱちと瞬きをする。紬は当然のように両手を後ろで組み、その場で一回、くるりと回ってみせた。


 青は少しだけ考えてから答えた。


「紬も、いつもどおり可愛いよ」


 一瞬、紬が止まる。


「……それって」


「?」


「いつも可愛いってことです?」


「ああ……そうだが」


 青は特に深く考えずにうなずいた。


 次の瞬間、紬の頬がふわっと赤く染まる。


「そ、そういうこと、さらっと言うんですね……」


「事実を言っただけだ」


「それが一番ずるいです……」


 紬は視線を逸らしながら、しかし明らかにうれしそうだった。


 陽葵がそのやり取りを見て、呆れ半分、感心半分の声を出す。


「お兄ちゃん、結構たらしだね……」


「違う」


「今のはだいぶそうだったよ?」


「誤解だ」


「無自覚なのが一番危ないんだよ、そういうの」


 陽葵の指摘に、紬がこくこくと深くうなずく。


「本当にそう思います」


「お前まで乗るのか」


 青がわずかに眉を寄せると、二人は顔を見合わせてくすくす笑った。


 その空気が落ち着いた頃、今度は遠くから元気な声が響いてきた。


「青ー! 陽葵ちゃーん! お待たせー!」


 黒金結愛だった。


 今日は動きやすさを優先したらしく、浴衣ではなかった。けれど、祭りに合わせたおしゃれはしっかりしている。黒地に小さな金の星柄が散ったオフショルダー気味のカットソーに、デニムではなく白のハイウエストのショートパンツ。足元は歩きやすいスニーカーサンダルで、髪にはいつもの金メッシュが夜の光を拾って華やかに見えた。片耳には小さな星形のピアス。元気で明るい結愛らしい、夏のギャル感がある格好だった。


 その左右には、妹の乃愛と弟の琉生がいる。


 乃愛は黄色い花柄のワンピースに麦わら帽子、琉生は青いTシャツに短パンで、二人ともいかにも祭りに浮かれた子どもの顔をしていた。


「あ、お姉ちゃんの彼氏!」


 乃愛が青を指さして、元気よく叫ぶ。


「乃愛!?」


 結愛が慌てて止めるより早く、琉生が真顔で訂正した。


「違うって。婚約者」


「琉生まで何言ってるの!?」


 場の空気が一気に止まる。


 陽葵と紬が同時に青を見た。そのあとで二人は目を合わせる。


「え……?」


「どういうことです?」


「違う」


 青は間髪入れずに言った。


「断じて違う」


 珍しく語気が強い。そこまで即答されると、それはそれで微妙に傷つくものがあるのか、結愛が口を尖らせた。


「いや、そこまで全力否定しなくてもよくない?」


「事実確認だ」


「うう……ごめんね。あれからずっと勘違いしてて……」


「どんな経緯でそうなったんですか……?」


 紬がじとっとした目で結愛を見る。


 結愛は少し視線を泳がせた。


「いや、その……前に家で青の話したら、なんか弟たちが変な方向に受け取っちゃって……」


「どんな話をしたの?」


 陽葵が興味津々に尋ねる。


「ちょっと助けてもらったとか、面倒見いいとか、かっこいいとか、頼りになるとか、そのくらい?」


「だいぶ言ってるね?」


「うっ……」


 陽葵に冷静に返され、結愛は顔を赤くした。


 乃愛が青のそばまで来て、じっと見上げる。


「でも、お姉ちゃん、青のこと好きなんでしょ?」


「乃愛ぁぁぁ!」


 結愛が妹の口を慌ててふさぐ。


 紬はにこにこしているのに、目だけ笑っていなかった。


「へえ……そうなんですね」


「ち、違っ、いや、違わなくは……いや、今は違うっていうか……!」


「どっちだ」


「青は黙ってて!」


 慌てる結愛の横で、陽葵が声を殺して笑っている。琉生だけは周囲の騒ぎを気にせず、屋台の方を見ていた。


「姉ちゃん、たこ焼き」


「あ、はいはい。あとでね」


 結愛は弟の頭を軽く撫でる。その仕草が自然で、青は少しだけ目を細めた。普段から面倒見がいいことは知っていたが、こうして弟妹と並ぶ結愛は、いつも以上に家庭的に見えた。


 そのとき、公園の入口の方がわずかに騒がしくなる。


 何気なく視線を向けた青は、そのまま動きを止めた。


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