第36話 花火の前の約束
第36話 花火の前の約束
夏期講習の最後のチャイムが鳴り、教室に張り詰めていた空気が一斉にほどけた。冷房が弱まり、夕方特有のぬるい風が窓の隙間から入り込む。机の上には解き終えた問題集と、まだ終わっていない現実のような疲労が残っていた。
氷凪青は淡々とノートを閉じ、筆記具を整えて鞄にしまう。周囲が雑談を始めても、その動作は乱れない。
「青」
静かな声。顔を上げると、雪城凛花がすぐ近くに立っていた。
「花火大会、今週末ね」
「ああ」
短く答えると、後ろから明るい声が割り込んだ。
「花火大会、今週末だねー! 陽葵ちゃんの体調は大丈夫?」
黒金結愛だった。机に腰を預け、期待に満ちた目でこちらを見ている。
「ああ、順調だ。陽葵も……みんなに会うのを楽しみにしてた」
言葉は自然に出た。事実でもある。だが、どこかに小さな棘のような違和感が残る。
「そっかー、よかった!」
結愛は心底安心したように笑った。そして、何気ない調子で続ける。
「陽葵ちゃん、いつ退院予定なの?」
青は答えなかった。
答えられなかった。
退院の目処など、軽々しく言える状況ではない。良い日もあれば、そうでない日もある。外出許可が出るかどうかさえ、まだ確定ではない。
教室のざわめきの中で、ほんの数秒だけ空白が生まれた。
「それより」
凛花が静かに口を開く。
「結愛の妹さんと弟さんは、花火大会に連れてくることになったの?」
「あ、そうそう! 行くって聞かなくてさー。絶対騒がしくなるけど……大丈夫かな?」
「いいじゃない。花火大会なんだし」
即答だった。
結愛は目を丸くし、次の瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「凛花からそんなこと言ってくれるなんて、もう大好き!」
勢いよく抱きつく。
「ちょ、ちょっと……離れなさい、暑いわよ」
言葉とは裏腹に、凛花の耳がわずかに赤い。
青はその光景を見て、わずかに瞬きをした。二人がこうしてじゃれ合う姿は、以前なら想像もできなかった。
「じゃあ集合どうする?」
結愛が凛花から離れ、実務的な顔になる。
「駅前は混みすぎる」
青が答える。
「陽葵には負担が大きい」
「……そうね。少し外れた場所がいいわ」
凛花がすぐに同意する。
「じゃあ神社の横の公園とか?」
「そこなら問題ない」
決まりだった。
「よーし、楽しみになってきた! あ、私、浴衣で行こうかな」
結愛がくるりと回る。
「青、どう思う?」
「似合うんじゃないか」
即答。
結愛が一瞬固まり、頬を染めた。
「……そ、そっか」
「凛花も浴衣着るの?」
「……着る予定ではあるわ」
わずかな間。凛花は青を見た。
「そうか」
それだけ。
しかし凛花は目を伏せ、小さく息を吐いた。胸の奥がくすぐったいような、落ち着かない感覚。
「陽葵さん、浴衣見たいって言ってたわ」
「本当?」
「ああ」
青の表情がほんの少し柔らいだ。
「みんなに会うのを楽しみにしてる」
「かわいー……ほんといい子だよね」
「私も、会えるのは楽しみ」
凛花の声は静かだが、確かな温度があった。
話はまとまり、帰る時間になる。
「じゃ、また連絡するね!」
結愛は最後まで元気だった。
廊下を出て、三人で並んで歩く。やがて結愛が別の方向へ去り、青と凛花だけが残った。
「……無理をしなくていいわ」
不意に凛花が言った。
「答えにくいことなら、答えなくていいのよ」
青は少しだけ視線を横に向ける。
「助かった」
短い言葉だった。
凛花はそれ以上何も言わなかった。ただ隣を歩く速度を、わずかに合わせる。
駅で別れ、一人になる。
青はスマートフォンを取り出した。陽葵とのメッセージ画面が開かれている。
『花火、みんな来るんでしょ?』
『楽しみだなあ』
画面を見つめる。
――順調。
自分が口にした言葉を思い返す。
嘘ではない。だが、安心できる保証でもない。
それでも。
せめて、その日だけは。
穏やかであってほしい。
青は短く返信を打つ。
『無理はするな』
『行けそうなら行こう』
すぐに既読がついた。
『うん。でもね、ちょっとだけ頑張りたいの』
『みんなに会いたいから』
胸の奥が静かに締めつけられる。
『お兄ちゃんもちゃんと楽しんでね!』
青はしばらく画面を見つめ、やがてスマートフォンを閉じた。
今週末の夜が、どうか静かに終わることを。
ただ、それだけを願いながら。




